「弱さを誇る」

2021年11月14日説教  
コリントの信徒への手紙二 11章16~31節

        

主の御名を賛美します。私が19歳の時に、自動車の事故に遭ってムチ打ち等で3か月半入院しました。その時に母は一日も欠かさずに毎日、私の見舞いに来てくれました。しかし母の気持ちを考えようともしない私は、「毎日、何をしに来るんだよ。用が無ければ来なくて良いよ。」と冷たいことを言ってしまったことを今は後悔しています。

当時の私は、事故で身体が思うように動かずに投げ槍になっていて、余り治療も行っていませんでした。しかし私が中々退院出来ないので、母が泣いているということを聞いて、私も母のためにも早く退院するために治療を行うようになりました。

その時のことを思い出して、今は横須賀で入院している母と、大体隔週位でラインで面会が出来ますので欠かさずに面会するようにしています。人から受ける愛は人を正しい方向に導いて、その時には例え気付かなくても、後になって気付いた時に感謝するものであることを自分の体験を通して教えられました。

1、誇る愚か者

16~21節で、何度も繰り返されている言葉があります。その一つが、「愚か者」で5回使われています。パウロは自分の愚かさを我慢してほしいと1節でお願いました。愚か者とは何をする者かと言いますと「誇る」者です。「誇る」も5回使われています。17節の「自慢する」も原語では「誇る」と同じです。

このことは現代でも全く同じで、愚か者とは誇る者です。10章の後半でお話しましたように、人は誰でも自分を誇ることによって、自分で自分を認める自己承認と、他者から認められる他者承認を求めようとします。しかしクリスチャンは移ろい易い人からの承認を求める必要はなく、変わることのない全能の神に愛され、神の目に高価で尊い存在ですので誇る必要はありません。

パウロは誇ることがどれ程に愚かなことかを十分に知っています。しかしパウロが開拓した教会であり、パウロにとって霊的な子どもである愛するコリント教会は、肉に従って、この世の罪の性質に従って誇る偽使徒にだまされています。

愛するコリント教会を正しい方向に導くためであるならパウロはあらゆる手段を尽くします。親は愛する子どものためなら、なりふり構わずにどんなことでもするものです。パウロが愚か者になっても、コリント教会は賢いので喜んで我慢してくれるでしょうというのは、これはまた大きな皮肉です。

これは4節でも言っていた皮肉です。パウロは自分の愛する子であるコリント教会が偽使徒に騙されていることを何とか伝えようとします。4節では、3つのこと、別のイエスを宣べ伝えられて、異なった霊、異なった福音を受けていることを伝えました。

ここでは偽使徒にされている4節の内容の具体的な5つのことを伝えます。一つ目は奴隷にされることで、奴隷というのはユダヤ主義的な律法の奴隷にされることです。この様なことはこの時代だけのことではなくて、現代の教会でもあることです。

古い律法的な考えの人が、新しい信徒にあれをしなければならない、これをしなければならないと、本人は親切心からかも知れませんが色々と言うことがあると聞くことがあります。

二つ目は食い物にされることで、不当な献金を強制することです。それは神の愛に基づいた行いではなくて、お金儲けが目的になっています。三つ目は奪い取られることで、この言葉は騙されるという意味もあり、動物を罠で捕える等、餌で人を引っ掛けることです。食い物にされ、奪い取られることは異端やカルトで良く見られることです。

四つ目は威張りちらされることで、人の上に立って支配します。人の上に立つためにはパウロ等の他の人の足を引っ張って引きずり下ろします。五つ目は顔を叩かれることで、文字通りの行いをされることもありますし、比喩的な表現としては人を侮辱することです。日本語での、「面子を潰す」に似ているでしょうか。

これだけ酷いことをされてもコリント教会は偽使徒を我慢しているというか受け入れていました。皮肉なことにコリント教会は、酷いことをする偽使徒は受け入れて、キリストの愛を持って接するパウロは受け入れませんでした。

そのことについてパウロは、「恥を忍んで言いますが、私たちが弱かった」と言います。パウロたちは偽使徒の様に誇るという愚かなことをする図々しさ、もしそれが強いと言うなら強くはなく、弱かった。しかし誇るという愚かな行いをすればコリント教会に受け入れられるなら、自分も愚か者になってあえて誇ろうと言います。

2、ヘブライ人、イスラエル人、アブラハムの子孫

偽使徒はユダヤ主義で、自分たちは神が選ばれた選民であることを誇りにしていました。そこでパウロは、「彼らはヘブライ人なのか、イスラエル人なのか、アブラハムの子孫なのか。」と問うて、「私もそうです」と言います。

ここでヘブライ人、イスラエル人、アブラハムの子孫と3つの表現が出て来て、そこに何かの違いがあるのかと疑問に思われる方もおられるかも知れません。殆ど同じですが、人によって色々な考えがあり、時代によって意味も変わりますが、その中で私にとって一番しっくりと来る説明を一つだけお話します。

ヘブライ人は基本的にヘブライ語を話す人で、話す言語の意味です。イスラエル人はイスラエルの神を信じるという宗教的な意味です。アブラハムの子孫はアブラハムの子孫という血縁を表す民族的な意味で、現代の他の言い方としてユダヤ人と言われます。

3、キリストに仕える者

パウロは次に、「キリストに仕える者なのか」と問うて、「気が変になったように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです」と言います。ここでパウロは、「キリストに仕える者」という言葉をどの様な意味で使っているのでしょうか。また「私は彼ら以上にそうなのです」というのはどういう意味なのでしょうか。

キリストに仕える者は、キリストの僕とも訳せます。キリストの僕はどの様な生き方をするのでしょうか。マタイ10:24、25をお読みします。私たちの師であり、救い主であるイエス・キリストは、全ての人を救うためにこの世に来られましたが、人々に理解されず、受け入れられず、逆に罵られ、十字架に付けられました。

本物のキリストの僕はキリストと同じように、理解されずに罵られ苦難の道を歩みます。偽使徒がした様に、コリント教会を奴隷にし、食い物にし、奪い取り、威張りちらし、顔を叩く様なことは有り得ないことです。

パウロはこの後に、自分が体験した苦難のリストを書きますが、苦難自体を誇っているのではありません。時々、自分が経験した苦難を誇る様な話を聞くことがあります。例えば私はこの様な大きな事故を何度も体験して来たとか、この様な大きな苦労を何度も体験して来たということを少し誇らしげに話す人もいます。

しかしパウロはここで自分が体験した苦難自体を誇っているのではありません。苦難を受けることをキリストに仕える者の証しとして話しています。そしてその苦難は偽使徒たち以上だと言っています。苦難は大きくは4種類に分けられて、苦労、投獄、鞭打ち、死ぬような目があって、それらは数多く、度々でした。

その具体的な内容として、ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭があります。これは申命記25:3に、鞭打ちは四十回までという規程がありますが、数え間違いがあるかもしれないので、ユダヤ人の決まりで39回迄になっていました。

それが五度、棒で打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。ここに書かれている実際の出来事は、使徒言行録等に書かれていることもありますし、書かれていないこともあります。

パウロは幾度も旅をしました。今はコロナウイルスの影響で旅も余り出来ませんので、羨ましい感じもします。しかしこの当時の旅は現代の旅行の様に快適で贅沢なものではなく、パウロは八つの難に遭いました。川の難は、川の橋が壊れて渡れなくなったり、危険な川を渡ったりすることです。

盗賊の難はルカ10:25~に、善いサマリヤ人の譬え話にある様に旅人を襲う盗賊の難のことです。同胞からの難は、パウロの伝道に対して同胞のユダヤ人から迫害されました。異邦人の難は、異邦人であるフィリピやエフェソで起こった迫害等です。

町での難は、町であるフィリピ、コリント等での難、荒れ野での難は野獣等に襲われたりしたことと思われ、海上の難は船旅で危険に遭ったことでしょう。偽兄弟たちからの難はクリスチャンを装った偽クリスチャンからの難です。ありとあらゆる難に遭っています。

その他にも、「苦労し、骨折って」という表現は他の箇所でも何度も出て来ますが、自らテント造りをして働いたことです。しばしば眠らずに過ごすのは、危険のために眠れないことのようです。飢え渇き、しばしば食べ物もないのは困窮のためです。暖を取る所もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

4、弱さを誇る

物質的なことでも、このほかにもまだあるようですが、その上に、日々パウロに押し寄せる厄介事、精神的なことで、すべての教会への心遣いが大きく二つあります。「誰かが弱っているのに、私も弱らずにいられるでしょうか。誰かがつまずいているのに、私が心を痛めずにいられるでしょうか」と問うのは、誰かが弱っていたり、心を痛めていれば、パウロも一緒に同じ思いになって弱り、心を痛めます。パウロは21節で、私たちが弱かったと言いながら、結局、私も弱らずにいられるでしょうかと、自分の弱さを認めています。それは誰でもパウロと同じような目に遭えば弱ることでしょう。弱るどころか、パウロがこれ程の目に遭っても耐えていられるのが不思議です。

それについてパウロは、「誇る必要があるなら、私の弱さを誇りましょう」と言います。パウロは強いから、自分の力でこれらの苦難に耐えられているのではありません。12:9にある様に、主の力は弱さの中で完全に現れるからです。

クリスチャンはキリストに仕える者としてキリストと同じように苦難に遭って、弱りますが、キリストにより頼む者には、そこにキリストの力が現れます。パウロは弱さの中に現れるキリストの力によって耐えています。クリスチャンは10:17にあった様に、どこ迄も、「誇る者は主を誇」る者です。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、パウロが偽りを言っていないことをご存じです。

5、幼児祝福式

今日は幼児祝福式がありますが、幼児を祝福することについて今日の聖書個所から2つのことを教えられます。一つ目は、パウロがコリント教会を自分の霊の子どもとして愛し続けた様に、徹底的に愛情を注ぎ続けることです。

いくら愛情を注ぎ続けてもコリント教会がパウロに対してした様に、反抗的に罵り、裏切り続けることもあるかも知れません。しかしコリント教会の様に、子どもは成長に時間が掛かります。しかし植物の種の様に、水を注いで、太陽の光を注ぎ続ければ種が成長する様に、愛情を注ぎ続ければ子どもは必ず成長します。勿論、パウロがコリント教会に対して行った様に、時には厳しいことを言う必要がある時もあるかも知れませんが、愛情を注ぎ続けることです。

二つ目は、パウロがコリント教会に示した様に、キリストに仕える者としての生き方を実際に示すことです。子どもにはいくら言葉だけで伝えても伝わりません。子どもに実際に伝わるのは言葉ではなくて、親を含めて周りにいる大人の実際の生き方です。

キリストに忠実に仕える者が身近にいる子どもは何と恵まれていることでしょうか。その生き方は必ず伝わって行き、子どもにとって大きな祝福となります。しかし一つ目の愛し続けることも、二つ目の正しい生き方を見せることも人の力、人の思いで到底出来ることではありません。

自分の弱さを認めて、キリストに仕える者として、キリストにより頼み、聖霊の力を頂いて初めて出来ることです。私たちは自分の弱さを素直に認めて誇らせていただきましょう。そこに主の力が現れるからです。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。パウロを初めとしたクリスチャンはキリストに仕える者として、キリストと同じ様に苦難に遭うことを改めて教えられました。しかし苦難に弱る時に、自分の力ではなくて、キリストの力が現れてくださいますので、私たちは自分の弱さを受け入れます。

私たちがキリストの力によって、幼児を愛し、キリストに仕える者としての生き方を示すことが出来ますようにお用いください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。