天上の方のかたちを持つ

2021年3月14日
コリントの信徒への手紙一15章35~49節

主の御名を賛美します。昨日は強風のために、この地域でも睦沢町、長南町で被害が発生して、教会も少し被害が出ました。早い回復をお祈り致します。また先週の11日で東日本大震災から10年となり、テレビ等でも色々な特集が行われています。被害に遭われた方々に神からの慰めと必要な助けが与えられますようお祈り致します。

さて誰でもこの世の死は通る必要はありますが、クリスチャンは復活を信じています。復活を信じているクリスチャンですが、復活する時は大体、何歳位の体になるのだろうかという話がされたりします。同じ人でも例えば10歳の時と60歳の時では体も顔も違うからです。

復活の体は30歳位ではないかと良く言われるのは、主イエスが約30歳で十字架に付けられて甦られたからでしょうか。しかし高齢で召される場合に私たちが覚えているのは、その人の高齢の時の顔です。召された方のアルバム等を見せて頂くと、若い時の顔は少し違った感じの時があります。果たして天国で再会する時に30歳位の顔だと誰が誰だか分かるのだろうかと思ったりしてしまいます。

1、死者の復活

パウロはここまで、キリストにあって亡くなった死者は復活すると話して来ました。しかし死者の復活はないという考えの人に対して、二つの質問を想定します。一つは、「死者はどのように復活するのか」、そしてもう一つは、「どのような体でくるのか」です。

この二つの質問は二つではありますが、区別し難い一体の様なものです。それはどのように復活するのかで、どのような体でくるのかが決まるからです。ただ今日の箇所はどちらかというと後の、どのような体で来るのかということが中心です。

この質問は、死者の復活はないという人だけではなくて、お話ししましたように、死者の復活を信じるクリスチャンでも気になる質問でもあります。しかしここでそのような二つのことを「聞く者」というのは、死者の復活を信じていて真面目に聞くのではなくて、信じていなくて冷やかし半分に聞く者のようです。

それは墓に葬られた遺体が、そのままの体でゾンビの様に生き返ることを想像して冷やかしているのかも知れません。クリスチャンが真面目に考えているように聞きたい訳ではなさそうです。それもあってかパウロは「愚かな人だ」と一蹴します。

2、種の譬え

また「愚かな人だ」ということには、死者の復活は何か難しい話ではなくて、あなたであるコリント教会員が普段の生活で行っている種蒔きのことを考えれば分かるはずだからという意味もあります。これはヨハネ12:24で主イエスが麦の譬えを用いられたことによるのかも知れません。

あなたが蒔くものである種は、死ななければ命を与えられることはありません。確かに種は植物が枯れて死んで出来るものです。種は植物が枯れて死ぬことによって、飛ばされたり地面に落ちて蒔かれます。植物の種を見ると植物が死ぬことによって新しい命が与えられることが分かります。

蒔くものは、後にできる体である植物ではなくて、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。クリスチャンはこの世の死を通して種粒になると言えます。またクリスチャンは肉体の死の前にも自分に死ぬことによって、この世においても命を与えられることもあります。

クリスチャンはどのようにして種粒になるのでしょうか。それはヨハネ15:5にあるように、ぶどうの木である主イエスに枝としてつながっているからです。クリスチャンは主イエスにつながることによって御霊の栄養を頂いて豊かな御霊の実を結びます。そして御霊の実の中に種粒は出来ます。神は、御心のままに、これである種粒に体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。

3、復活の体1

種粒も種類によって麦には麦の体、米には米の体が与えられます。そしてどの肉も同じというわけではなくて、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。この箇所を読むと、若しかするとスーパーでも、牛肉と豚肉と鶏肉と魚肉は肉の種類が違って味も値段も違う様な意味かと思われるかも知れません。

しかしここはその様な肉質の違いを言っているのではありません。ここの肉は前の38節、後ろの40節の体と同じ意味です。ですから肉を体と読み替えると分かり易いです。種類により違いはありますが、植物の種粒からは成長した後の植物の姿が想像することが出来ない様に、クリスチャンの体は復活の前と後では大きく違います。

また、その体には天上の体もあれば、地上の体もあります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。この天上の体というのは霊的な体という意味と考えられなくもありませんが、どちらかというと、次の41節を見ても、天上の体とは天上にある天体のことと考えられます。

天上の体の輝きである、太陽の輝き、月の輝き、星の輝きと、それぞれ違いますし、星と星との間にも、輝きに違いがあります。これはどれが優れているということではなくて、一人一人が違う個性と多様性があるということです。天体も一つ一つは違っていますが、そこには調和があって綺麗です。

地上の体で輝きがあるのは、この当時は人工的な電気の光はありませんので、炎であったり、自然では蛍等位のものでしょうか。そうすると天上の体の輝きは地上の体の輝きとは比べものにならない程に大きいものです。

死者の復活もこれと同じですと言って、復活の前と後でどの様に違うのか4組の表現で表します。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し、自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。

復活の後の体がどの様なものなのか具体的には良くは分かりませんが、何か素晴らしいものであることは分かります。復活前の自然の体は2:14で口語訳では「生まれながらの人」です、教会共同訳では、自然の人という訳になりました。

復活の後は霊の体ですが、霊の体というのは、霊でできている体という意味ではありません。霊の支配する体という意味ですが、どういうものであるのかは良く分かりません。

4、自然の体

創世記2:7は「最初の人アダムは生きる者となった」と言います。神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれて生きる者となりました。最初の人アダムは土からできた者ですから地に属します。私たち人間はアダムを頭とする子孫ですから土からできた者です。

ですから私たちは土からできたその人、アダムに等しく、土からできた人であるアダムのかたちを持っています。アダムのかたちを持つとはどういう意味のことでしょうか。かたちは原語でイコンと書かれています。イコンはプロテスタント教会にはありませんが、カトリックや正教会で聖画の意味で使われています。

私たちがアダムのかたちというのは、まず外見の姿の意味があります。しかし男も女もアダムのかたちですから、かたちは外見の姿だけではなくて魂や性質等全てを含みます。そうするとアダムは朽ちるものであり、53節の表現では死ぬべきものです。

しかしここで一つの疑問が浮かびます。アダムの体はエデンの園の善悪の知識の木の実を食べる前から、元々死ぬべき存在だったのでしょうか。皆さんはどの様に思われるでしょうか。今日の聖書個所から言えることは、アダムの体は土からできていて、地に属し、朽ちるものであり、死ぬべきものです。

しかし22節には、「アダムにあってすべての人が死ぬことになった」とあります。ですから善悪の知識の木の実を食べたのが原因で死ぬことになったのであって、食べる前は死ぬことはなかったのではないかと思われるかも知れません。

しかし善悪の知識の木の実を食べたために死ぬことになったといわれる死は霊的な死です。アダムの体は元々一度は死ぬべきものでした。そうでなければ創世記2:9でエデンの園の中央に善悪の知識の木と一緒に命の木が生えている意味がありません。

5、復活の体2

アダムは私たち人間の最初の人で、命の息を吹き込まれて生きる者となりました。しかし神の命令に逆らって、善悪の知識の木の実を食べたために、その命の息を失ってしまいました。そこで最後のアダムである主イエスが命を与える霊となりました。主イエスは永遠の命を与えてくださる霊であり、命の木であるぶどうの木です。

自然の体であるアダムが最初で、それから霊のものである主イエスです。第二の人である主イエスは天に属する方です。イエス・キリストは神の子ですから天に属する方というのは分かりますが、主イエスのそのお体そのものはどうだったのでしょうか。

主イエスは人間である母マリアからお生まれになりましたので、肉体的には完全な人間で私たちと同じです。では十字架の死から三日目に復活された時のお体はどの様だったのでしょうか。ヨハネ20:27によると、主イエスのお体の脇腹には槍で刺された穴があり、手には釘を打たれた穴がありました。

つまり復活された主イエスのお体は死ぬ前の体と同じでした。それでは私たちも復活する時は死ぬ前と同じなのでしょうか。歯が無くなっていた人は歯が無いままで、怪我をしていた人は怪我をしたままなのでしょうか。そうではありません。栄光あるものに復活するとある通りです。

ではなぜ主イエスは死ぬ前と同じ体で復活されたのでしょうか。それはヨハネ20:27のトマスの様に、脇腹や手の傷を確認しなければ信じないという弟子もいました。復活されたのが確かに十字架で亡くなられた者と同一人物である主イエスであると証明するためです。

では現在の主イエスのお体はどの様なのでしょうか。脇腹と手に傷後はあるのでしょうか。恐らくありません。ではどの時点で主イエスのお体は変わられて傷跡は無くなったのでしょうか。使徒言行録1:9で、天に上げられた時だと思います。ここで主イエスはお体も天上の方となられました。

6、天上の方のかたちを持つ

そしてこれは主イエスだけのことではありません。クリスチャンはこの世の死から復活させられる時には天上の方である主イエスのかたちをも持つようになります。主イエスのかたちを持つとは、とても楽しみなことです。しかしそれは一体、何年先のことやらと思われるかも知れません。

確かに神の子とされて、主イエスのかたちをも完全に持つようになるのは死から復活させられる、四重の福音の栄化させられる時です。しかし、最後のアダムである主イエスは、命を与える霊となって、クリスチャンに霊を与えて、神のかたちを持つ歩みをこの世において既に始めてくださいました。

ですから洗礼を受けてクリスチャンになることは、神のかたちを持つ歩みを始めることです。その歩みは拙いものかも知れません。よちよち歩きであったり、躓いたり転んだり、三歩進んで二歩下がる様なものかも知れません。しかしそれは自分の力で歩む歩みではありません。

命を与える霊である主イエスが導いて成長させてくださる歩みです。そして少しづつ神のかたちへと近づかせてくださいます。四重の福音の聖化の歩みです。人間が神のかたちを持つことは、この世で「既に」始まっていますが、「今だ」完成していないことです。

私たちは、復活、また復活による栄化が今だ完成していないことを嘆く必要はありません。この世において神のかたちをも持つ歩みは既に始められています。この恵みに感謝して与からせて頂きましょう。そして復活と神のかたちを持つ将来を楽しみに期待して歩ませて頂きましょう。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたを信じる者は復活されますが、どのような体であるのかは私たちには良く分かりません。しかし栄光あるもの、天上の方のかたちをも持つようになると約束してくださいますから有難うございます。

この世においては色々なことがありますが、この世においても、あなたが私たちを天上の方のかたちをも持つ歩みを始めさせてくださいます恵みを感謝致します。どうぞ全ての人がこの恵みに与かることが出来ますようにお導きください。また先に救いの恵みに与かった者をお用いください。

昨日の強風の被害に遭われた方々、10年前の東日本大震災の被害に遭われた方々、また様々な困難の中におられる方々にあなたの慰めと助けがありますように、主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。