神の栄光を悟る光

2021年6月13日 
コリントの信徒への手紙二4章1~6節

主の御名を賛美します。子どもの頃に外で遊んでいて、暗くなって来たなと思いつつも遊んでいると急に真っ暗になったように感じたことが何度かありました。暗くなると周りが良く見えなくなって、不安になるものです。逆に明るい時は周りも良く見えて安心出来ます。光は大切なのだなと改めて感じます。そういえば、安井先生のお名前は光と書いて、「ひかる」と読むと思い出していました。

1、憐れみを受けた務め

先週の16節で、人が主に向くならば、主によって覆いは取り去られますとありました。パウロ自身もそうでした。パウロが何か立派だったから使徒の務めに就いたのではありません。逆にパウロはクリスチャンを迫害する反キリスト者でした。

しかしただ主の憐れみによって、使徒言行録の9章で、主がパウロに現れてくださりパウロの目からうろこのようなものが落ちて、顔の覆いを除かれて使徒の務めに就けられました。それはパウロに限ったことではなくて、全てのクリスチャンも同じです。

クリスチャンは何か立派だったから何かの務めをしているのではなくて、ただ主によって憐れみを受けて、色々な務めに就けられます。主によって務めに就けられているのですから、例え何があったとしても落胆しません。

なぜなら、この務めである霊に仕える務めは、永続する栄光を帯びた務めであり(3:11)、人を主と同じかたちに変える務めであるからです(3:18)。落胆することはそれぞれを務めに就けられた主に対して落胆することに繋がりますので、主に対して失礼なことです。

かえって主の忠実な僕として、恥じて隠したりしません。恥じて隠すとは、パウロに反対する偽使徒がしていたことです。具体的にまず一つ目は、真理を隠して謀によって歩まないことです。謀に歩むとは新改訳では、「ずる賢い歩み」と訳しています。

それは3:1で、コリント教会に対してパウロに推薦状の提出を求めさせたりすることでしょう。他の人を陥れて、自分が優位に立とうとすることです。

二つ目は、神の言葉を曲げないことです。神の言葉を曲げるとは、神の言葉に混ぜ物を入れることです。それは福音の信仰による救いに、律法の混ぜ物をして、割礼であるとか色々な行いをすることを求めることです。

謀によって歩んだり、神の言葉を曲げることによって、人の関心を買うことを求めるのではなくて、ただ福音の真理を明らかにします。そして福音の真理を明らかにする務めは神の栄光に包まれています(3:11)。ですからわざわざ人の前で他の人の関心を買うことを求める必要はありません。

ただ神の前で、自分自身をすべての人の良心に推薦します。そこでは自分で自分を推薦することを考える必要はありません。なぜなら神の栄光を帯びて、鏡のように主の栄光を映していますので、神の栄光が輝いてくださるからです。ですから自分自身を推薦するというのは、どちらかというと、そこに映っている神の栄光を推薦することです。

2、信じない者の心をくらます

私たちが他の人に福音を語る時に、相手に届く場合とそうでない場合のようなことがあります。その時に、まず私たちがすることは、自分は恥じて隠したりせず、謀によって歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにしているか確認をすることです。

もしそうしているにも関わらずに、福音が覆い隠されているとするなら、それは、滅びる者たちにとって覆い隠されています。勿論、コヘレトの言葉3:1に、「すべての出来事に時がある」とある通りに、それぞれの人によって救われる“時”がありますので、中々、信じない人が滅びる者たちであるとは限りません。

ただ滅びる者たちの場合には、この世の神が信じない者の心をくらまします。この世の神と訳されている言葉は、直訳では、「この時代の神」で、悪魔のことです。悪魔はこの時代だけは神のように信じない者の心をくらますことが出来ますが、この世の終わりには真の神のさばきに従うものです。

この世の神である悪魔は、どうして信じない者の心をくらますことが出来るのでしょうか。福音は光を持つものです。人間が安全に神の祝福の道を歩めるように、進むべき道を照らす光です。そして福音は、神のかたちであるキリストの栄光に関するものです。

キリストは神のお独り子ですから、神のかたち、性質をお持ちで、栄光に輝くお方です。そして福音の最も大切なことは、手紙一の15:3、4にありましたが、「キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために、死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、現れたことです」。ですから福音を語る者はこのことを語ります。

しかしある反論が思い浮かぶかも知れません。この世の神である悪魔が、信じない者の心をくらまし、福音の光が見えないようにしたのであれば、悪魔にそのようにされた人間にはどうしようもないのではないかということです。皆さんはどのように思われるでしょうか。

ただ注意していただきたいのは、この世の神である悪魔は、全ての者の心をくらますのではありません。悪魔だけにあくまで、信じない者の心をくらまします。心が主に向いている者には、主の栄光の光、福音の光が届いていて、主が守られますので、悪魔としても手を出し辛いものです。

しかし主に心が向いていない者は、主の光に背を向けていて光が届いていませんので、悪魔としてはその者の心をくらましたり、福音の光が見えないようにするのは簡単なことです。具体的にはどの様な方法で心をくらますのでしょうか。貪ぼろうとする欲に訴えます。

金銭、権力、快楽等に対する欲でしょうか。主イエスを裏切ったイスカリオテのユダも会計係でしたが、普段から金銭欲に負けて会計を誤魔化していたために悪魔に見入られてしまいました。

3、神の栄光を悟る光

そのようにならないためにも、主イエスを信じてクリスチャンになったパウロを含めて私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えます。しかしパウロに反対する偽使徒は自分の推薦状をひけらかして、自分自身を宣べ伝えていました。

主イエス・キリストを宣べ伝えるのではなくて、自分自身を宣べ伝え始める兆しが見えたら、心をくらまされている証拠ですので要注意です。しかしこれはクリスチャンになっても難しいことです。クリスチャンであろうがなかろうが、人は誰でも他の人から良く見られたいという思いがあります。

本当にいつも心が主に向いていないと、いつの間にか、主イエス・キリストを宣べ伝えるのではなくて、自分自身の栄光を宣べ伝えるようになってしまい、悪魔に心をくらまされてしまいます。

パウロを含めてクリスチャンは、主イエスのためにすべての人に仕える僕です。クリスチャンはどのようにしてすべての人に仕える僕となるのでしょうか。パウロはこの世の初めに光が創られた創世記1:3に立ち返ります。闇の中で、神が「光あれ」と言われると光がありました。

神が私たちの心の中を見られると、創世記1:2と同じように闇でした。闇では暗くて何も見ることが出来ません。そこで神はイエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

福音の光、神の栄光を悟る光は太陽の光に例えることが出来ます。太陽の光は24時間、365日いつでも輝いて地球に届いています。これは福音が全ての人に語られていることと言えます。しかし地球で実際に太陽の光が届いて明るいのは太陽の方に向いている、地球の半分の地域だけです。

これは主に向いている人を現わします。太陽の強烈な明るい光の中では心をくらませません。そして神が与えてくださる光によって私たちは神の栄光を悟ることが出来て、また自分自身の罪に気付くことが出来ます。この神の与えてくださる光は聖霊と言えます。

神は私たちの罪を赦して、神の栄光を悟る光を私たちに与えるために、御子イエス・キリストを十字架に付けられました。物質としての光は創世記1:3で創られましたが、霊的な光は聖霊が降られたペンテコステに与えられたと言えます。

自分自身に聖霊が降られて、神の栄光を悟る光を与えられるのが自分のペンテコステです。また主イエスはマタイ5:14で、「あなたがたは世の光である」と言われました。それは神の与えられた光が輝いているからです。クリスチャンは光の子です。

しかし地球で太陽と反対向きになっている地域は真っ暗闇となってしまいます。悪魔が心をくらまします。正に暗闇の世界です。しかしただ心を主に向けるならば、「光あれ」と言われた神が私たちに心に神の栄光を悟る光を与えてくださいます。

パウロは救われることについて、使徒言行録26:18で、「それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせるため」と言っています。人は神に行くのではありません。人は元々、エデンの園で神と共に光の中で生きていました。

しかし初めの人であるアダムとエバが罪を犯したために、光から闇の世界へと出されてしまいました。しかし愛である神は、光である主イエス・キリストをこの世に遣わして、私たちの進むべき道をお示しになってくださり、神に立ち帰らせて戻してくださいます。

この世の闇の中では、人々は2節の御言葉とは反対に、自分のしていることを恥じて隠し、謀によって歩み、神の言葉を曲げて、真理を明らかにせず、人の前で自分自身を推薦しています。闇の中ですから自分がしていることが良く分からず、他の人のしていることも良く分からず、さらに悪魔が心をくらまして、福音の光が見えないようにしたので混乱しています。

主イエス・キリストを救い主と信じることは、このような闇から光に移されて、サタンの支配から神に立ち帰ることです。全てが白日の下に晒されるように、福音の光、神の栄光を悟る光に晒されて、覆いが除かれて明白になります。そのような明るい、安全・安心な(?)道をぜひ歩みたいものです。

トルストイの小説に「光あるうち光の中を歩め」というタイトルのものがあります。確か実家にあって、教会に行く前の若い時からタイトルが気になっていましたが、「光あるうち」と言われると、光の中を歩みたくても、光が無くなってしまう時が来るぞみたいな、何か脅迫的なタイトルのようにも思われて、ひねくれ者の私は反発して読んでいませんでした。

当分、読む暇は無さそうですが、機会のある時に読んでみたいと思っています。ただ聖書的には、光の中を歩みたいと思った時が、その人の時です。遅すぎることも、早すぎることもありません。聖書的には、「思った時に光の中を歩め」です。

神は私たちが光の中を歩めるように御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、神の栄光を悟る光を与えてくださいました。そのことに感謝して素直に光の中を歩ませていただきましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この世には多くの闇があり、また私たちの心の中もあなたがおられなければ闇です。しかしあなたは救い主イエス・キリストをこの世に遣わされ、信じる者の心に光を与えて、光の道を歩ませてくださいますから有難うございます。

どうぞ全ての人があなたに心を向けて、神の栄光を悟る光を受けることが出来ますようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。