信仰による歩み

2021年6月27日説教 
コリントの信徒への手紙二 4章16節~5章10節

主の御名を賛美します。今、私は実家である横須賀の家の物の片付けをしています。色々とある物を眺めて、どうしたら良いか途方に暮れてしまう感じです。そのような片付けをされた方の話を聞いて本当に大変だということが分かりました。

横須賀の家は45年前位に引越しをしてから住んでいて、家にある物の一つ一つに思い出等も刻まれています。それらの物だけに目を注いでいたら、処分しようとする気持ちにはなれないものです。元々、私はものを捨てることが出来ない性格です。しかし今回の聖書個所を通して、ほとんどのものは思い切って処分しようという踏ん切りが付きまして感謝です。

1、落胆しません

パウロは1節に続いて、2回目の「落胆しません」と宣言します。落胆しない理由は先週の箇所で、普通なら落胆するような苦しい状況ですが、そのような苦しい時にこそ、土の器である信仰者に納められている主イエスの命が現れるからです。

私たちが受ける苦難には色々ありますが、最大の苦難は何でしょうか。やはり何と言っても死だと思います。そして全ての人はこの最大の苦難である死を必ず通ります。しかし最大の苦難である死を通っても信仰者はそれでも落胆しません。何故かと言いますと、14節にありましたように復活の希望があるからです。

私たちは年齢と共に外なる人は、若い内は成長しますがその後には衰えて行きます。新改訳は「衰える」と訳していますが、協会共同訳の「朽ちる」というのは中々、凄い訳だと思います。「外なる人」というのは具体的にどのようなことを意味しているのでしょうか。

それは土の器である人間の脆い肉体と精神を意味していて、年齢と共に衰えて行きます。今日の聖書個所にはいくつかの対になっている言葉がありますが、一つ目は、「外なる人が朽ちる」のに対して、「内なる人は日々、新たに」されていきます。

内なる人は新たにされるというのは3:18にあるように、人が主に向くならば主の霊の働きによって、霊的に主と同じかたちに変えられていくことです。これは四重の福音の聖化の歩みです。外なる人が朽ちるのと、内なる人が新たにされることのバランスが取れていれば落胆しないですみます。落胆とは逆に安心していられます(5:6、8)。

パウロは8、9節にも書いていたように、多くの重い苦難を受けていますが、それを、このしばらくの軽い苦難と言います。これはパウロの瘦せ我慢でしょうか。もしそうでなければ、なぜこのように言えるのでしょうか。それは土の器である私たちが苦難を受ける時に、主イエスの栄光が現れるからです。

苦難の重さということで言うと、主イエスの重みのある栄光に比べたら、私たちの受ける苦難は軽いということです。また苦難の時間ということで言うと、主イエスのもたらされる栄光の永遠に比べたら、私たちの受ける苦難はこの世の間のしばらくのことです。二つ目の対の言葉は、「しばらくの軽い苦難」に対して、「重みのある永遠の栄光」です。

私たちもそれぞれに苦難を抱えていますが、過去の苦難の時に、どのように主イエスが現れてくださったかを思い出して、また復活の希望を持って、今の苦難は、このしばらくの軽い苦難と言える者でありたいです。

結論として、「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」。見えるものとは、朽ちる私たちの外なる人であり、しばらくの軽い苦難です。それに対して私たちが目を注ぐ見えないものとは、日々、新たにされる私たちの内なる人であり、主イエスの重みのある永遠の栄光です。

なぜなら見えるものは一時的であるからです。一時的というのは変わって行くということです。確かに私たちの外なる人である肉体と精神は、一時的にはどんなに優れた状態になったとして、いつかは必ず衰えて死を迎えます。衰えて行くものだけに目を注いでいたら落胆してしまいます。それに対して見えないものは永遠に存続するので、安心して目を注いでいられます。

2、天からの住まいを上に着る

「私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても」というのは、「私たちの外なる人が朽ちるとしても」と同じことで、私たちの肉体のことで、この世だけのものです。幕屋はテントのような物で、移動をする仮の住まいです。パウロは天幕造りを職業としていましたのでこのような譬えを使ったのかも知れません。

しかし私たちには神から与えられる建物があります。この建物は天国ではなくて、地上の肉体に対応するものですので、天のからだです。天のからだは、人の手で造られて時間が経つと壊れてしまう仮の住まいである幕屋とは対照的に、しっかりとした建物である天にある永遠の住まいです。四重の福音の栄化されることです。

私たちは天から与えられる住みかである天のからだを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋である肉体にあって呻いています。なぜなのでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、地上の幕屋である肉体の上に、天からのからだを上に着たいということは、地上の肉体を持って生きている間に、主イエスが再び来られて、天のからだを上に着たいという呻きです。そうすれば地上の幕屋である肉体が壊れても、天のからだを上に着ているので裸ではないことになります。重ね着をしていれば安心ということでしょうか。

二つ目は、この幕屋である肉体に住む私たちは重荷を負って呻いています。それはどのような呻きなのでしょうか。それは土の器である肉体を持っているが故の重荷で、一つ目は罪の欲です。それはローマ7:15で、「自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしている」ことです。

そして二つ目は、衰えて行く肉体と精神と言えます。以前は出来たことが段々と出来なくなって行く衰えの中で、早く天のからだを着たいと呻いています。これは年齢を重ねてゆく中で誰もが感じることです。パウロ自身も衰えとは違うかも知れませんが、12:7で、体に棘が与えられて、棘が離れ去ることを願っています。

ただだからと言って、神から与えられたこの幕屋である肉体を脱ぎたいからではありません。死ぬべき肉体は命に呑み込まれてしまいます。私たちはこの世に生きている間は、土の器の中に主イエスを納めています。しかし来るべき時には、主イエスの中に私たちが納められます。

そして天からの住まいである主イエスの義の衣を、私たちは上に着ることになります。私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。天国である婚宴は、マタイ22:12にあるように、ドレス・コードが厳しくて、礼服である義の衣を着ていないと入ることが赦されません。

そこで神は私たちを婚宴である天国に招くために、主イエスを十字架に付けられて、主イエスを信じる者には義の衣を着せてくださいます。神は土の器を脱がせて、義の衣に着替えさせるのではありません。私たちが土の器、そのままで全てを受け入れてくださり、義の衣で纏ってくださいます。

クリスチャンはこの世の後には天国があると信じています。では天国がある証拠はどこにあるのかと聞かれたら皆さんは何とお答えになられるでしょうか。聖書に書いてあるからというと、それはクリスチャンが信じているだけで、若しかすると本当は無いかもしれないではないかと言われたら、どのように答えられるでしょうか。

神は天国があり、天のからだがあると言葉で言われるだけではなくて、その保証を与えてくださいました。それは霊を与えてくださったことです。天国は神の霊が完全に支配されるところです。そのことの保証として、この世においても霊を与えてくださっています。霊がこの世においても与えられていることは、霊の完全なる支配が行われる天国があることの保証となります。

3、信仰による歩み

国があって、復活を保証する霊が与えられていますから、私たちは落胆しないで、いつも安心しています。今の日本でも良く安全安心という言葉が使われていますが、まず本当の安心を手に入れていただきたいと祈るばかりです。

ただ肉体の体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。それは肉体の目で見えるものに目を注いで、その影響を受け易いからです。人類の一番初めに罪を犯してしまったエバもそうでした。 

エバは、「善悪の知識の木の実は食べてはいけない」という見えない神の言に注意を注ぐのではなくて、食べてはいけないと言われた、見える木の実に目を注いでしまいました。その結果、目には美しく、また、賢くなるには好ましく思ってしまって罪を犯してしまいました。

私たちもこの世の見えるものに目を注いでしまうと、欲望に引かれて誤った判断をしてしまいます。この世の物質、金銭、財産、肩書等は、4:18にあったように、見えるものは一時的なものです。信仰によって歩むとは、そのような見える一時的なものに目を注ぐのではなくて、見えない永遠に存続するものに目を注ぐことです。

若しくは、見えない永遠に存続するものに目を注ぎつつ、見えるものを見ることです。見えないものに目を注ぎつつ見えるものを見るとはどういうことでしょうか。

例えば、旧約聖書の律法は聖なる神の戒めですが、見える文字で書かれていて、3:6にあったように、文字は使い方によっては人を殺すことになります。

しかし新約の時代に入って、クリスチャンには聖霊が与えられます。霊は人を殺すのではなくて、人を生かして、教会を造り上げます。Ⅰコリント14:4に霊の働きは教会を造り上げるとあった通りです。ですから私たちは旧約聖書の律法を読む時には、見える文字だけを読むのではなくて、見えない福音の霊の働きを通して、福音の光に照らして読む必要があります。

4、仕業に応じた報い

来るべき日には天のからだが与えられる保証として、今のこの世にあって霊を与えられていることで安心出来ます。そしてパウロは、そうであれば願わくは、この世の体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています、とまで言います。パウロは本当に天国の確信を持っているのだと思います。

ただ主によって、この世で命を与えられている間は、主によって与えられている、この世で果たすべき役割があります。ですから大切なことは、この世の体を住みかとしているか、この世の体を離れているかではありません。ひたすら主に喜ばれる者であることです。

私たちは皆、クリスチャンであってもなくても全員、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされます。そこでは、善であれ悪であれ、めいめいが体を住みかとしていたときであるこの世で行った仕業に応じて、報いを受けます。

さらっと読むと、ああそうかという感じですが、よくよく考えますと、ここでいう報いとはどのようなものなのでしょうか。まずこの手紙はコリント教会員に宛てたものですので基本的にクリスチャン向けの内容です。そして報いは行った仕業に応じて受けるものです。

クリスチャンは救われて天国に入ることは約束されていますし、救いは信仰によるのであって、行った仕業は関係ありません。そうしますと、天国に入るクリスチャンでも、この世で行った仕業に応じて報いを受けるということです。これは勿論パウロの考えではなくて、主イエスが福音書で言われていることです。

ただその報いが具体的にどのようなものかということは言われていません。見えないことです。しかし信仰者とは、見えないものに目を注いで歩むものです。主イエスはマタイ5:12で、「天には大きな報いがある」と約束されますので、私たちの想像を超えた大きな報いがあるはずです。

報いが何であるかは天国に行った時のお楽しみです。聖霊の導きに従って、ひたすら主に喜ばれる者として歩ませていただき、見えない報いを期待しましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは見える確実なものに目を注ぎ易いものです。しかしあなたは、見えない永遠に存続するものに目を注ぎなさいと言われます。そしてキリストは行った仕業に応じて報いを与えられると言われます。それがどのようなものであるのかは私たちには分かりませんが、聖霊の導きによりあなたの言に従って、信仰によって歩む者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。