「和解の務め」

2021年7月11日説教  
コリントの信徒への手紙二 5章16~6章2節

主の御名を賛美します。私が30年前にロンドンの日本人教会に通っていた時に、私より後からその教会に来ることになった私と確か同じ年齢のMさんがいました。Mさんは関西出身で関西の財閥系銀行のトレーニーで、とても真面目で教会に来るようになって間もなく洗礼を受けることになりました。

Mさんと私は同じ年齢であることもあって、親しく、思ったことはお互いにずけずけと言い合っていました。当時、求道者であった私はMさんに、「おいM、お前は節操が無い奴だな、お前は天理教の先生の様なお祖母ちゃんから洗礼の様なものを受けておいて、今度はキリスト教の洗礼を受けるのか」と言いました。

するとMは、「おい野田、キリスト教は得やで」と言いました。私は後にも先にも、キリスト教は得という台詞はこのMからしか聞いたことがありません。Mは続けて、「だって、信じればタダで天国に入れてくれると言ってるんやで。これを受けない手はないやろ」と言って、その後に洗礼を受けました。

損得勘定で考えて洗礼を受けるとは、流石、関西出身の関西系銀行員であると思いました。そのことを思い出して、「キリスト教はお得です」という伝道方法等もあるのかと思いました。

1、肉に従って知ろうとしない

先週の15節にありましたが、クリスチャンは、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方であるキリストのために生きます。その具体的な内容は、今後は誰をも肉に従って知ろうとはしません。

それは逆に言うと、それ迄は肉に従って他の人を知っていました。肉に従って人を知るとはどういうことでしょうか。肉というのは罪を持って生まれた、生まれながらの人の性質です。これには二つの意味が考えられます。一つ目は他の人の内面を見るのではなくて、外面の上辺を見ることです。

例えば他の人を知る時に、相手の内面の性質等を見るのではなくて、家柄、学歴、資産、社会的地位、人種、性別等で判断することです。

またもう一つの意味は、自己中心的な自分の価値観で他の人を知ろうとすることです。例えば自分と同じ考えを持つ人は良い人と考えて、自分と違う考えを持つ人は悪い人と考えます。例えばあの人は自分と同じ政党を支持しているから良い人、あの人は他の政党を支持しているから悪い人といった具合です。

それはまたかつては肉に従ってキリストを知っていたとしてもです。パウロは使徒言行録9章でダマスコに向かう途中でキリストに出会う迄はキリストに会ったことは無いと考えられています。しかしパウロはそれ迄、キリスト教徒を迫害していたのですから、パウロなりにキリストを肉に従って知っていたはずです。

その知っていた内容は恐らく、外面的にはキリストはナザレの田舎出身の大工の息子で十字架に付けられた者ということです。

パウロを含むユダヤ人にとっては、申命記21:23が、「木に掛けられた者は、神に呪われた者」と言いますので、十字架に付けられた主イエスは木に掛けられたのですから、神に呪われた者であって、キリスト、救い主であるはずが無いと思っていました。

肉に従って知るというのは、他の人の外面を見て、自己中心の思いで知ることです。そして私たちを含めて、生まれながらの人の部分というのはそのような知り方をしてしまうものです。しかしキリストのために生きる者はそのように知ろうとはしません。

だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。キリストにあるならというのは、14節にありますようにキリストの愛に捕らえられていて、キリストの中にあるならということです。英語では in Christ です。キリストにあるなら前とは少しは変わるということではなくて、全く新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じました。クリスチャンを迫害していたパウロの過去は過ぎ去って、逆にキリストを宣べ伝える全く新しい者とされました。救い主キリストを信じて、キリストにあるなら、そのような劇的な新しいものが生じます。しかしそれはパウロが自身が何か秀でていたからではありません。

2、神の和解

これらはすべて神から出ています。主体は神で、神は二つのことをしてくださいました。一つ目はキリストを通して私たちをご自分と和解させられました。創世記2章のエデンの園でアダムとエバは神と平和に暮らしていました。しかし創世記3章で人間が神の掟を破って罪を犯したために神との平和は壊れてしまいました。

ですから和解をする必要と責任は本来は人間にあります。しかし人間には神と和解するための力も手段も持ち合わせていません。罪の要求する刑罰は死ですので、もしも全ての罪人がその刑罰を受けると、人類は滅んでしまうことになります。そこで神は人々に罪の責任を問うことをされませんでした。

人間は元々、罪を持った罪人として生まれて来ますので、罪を犯さないということは出来ません。その様な責任能力の無い人には罪の責任を問うことはしないとここに書かれています。そのためか、現代の多くの国の法律でも、責任能力の無い人には罪の責任を問うことはしないようです。

しかし完全なる義である神が罪を放置して、うやむやにすることは出来ません。そこで神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、キリストにあって世をご自分と和解させられます。神は創世記1章でこの世を創られた第一の創造を言であるキリストによって行われたとヨハネ1:3、4は言います。

同じ様に、人を罪から救って、新しく造られた者にする第二の創造もキリストを通して行われます。それはどの様な方法によるのでしょうか。神は、罪を知らない方であるキリストを、私たちのために罪となさいました。キリストが罪を知らないというのは、神であるキリストは知識として知らないということではなくて、罪を犯したことがないので罪と関りがないという意味です。

私たちの罪の身代わりとなるためには、罪を持っている者では身代わりになることが出来ません。罪を持っているなら自分自身の罪のために罰を受けることになるからです。身代わりとなるためには、キリストが十字架に付けられたのと同じ日である、過越しの祭の時に献げられた小羊と同じ様に、完全なものである必要があります。

キリストは私たちの身代わりとして私たちの罪を引き受けてくださる一方で、ご自身の義を私たちに与えてくださいます。これほど不平等と言いますか、一方的な取引が他にあるでしょうか。普通の取引はギブアンドテイクで、何か価値のあるものを頂いたら、それに相当するものを返します。

しかしキリストは罪による死を引き受けてくださり、義による永遠の命を与えてくださいます。悪いものを引き受けて、善いものを与えてくださる一方的なものです。これこそ神の恵み、神からの一方的な愛です。このような貴重な神の恵みをいたずらに受けてはなりません。

新改訳は、「神の恵みを無駄に受けないようにしてください」と訳します。そしてイザヤ49:8の御言を引用して、「私は恵みの時に、あなたに応え 救いの日に、あなたを助けた」と言います。これは歴史的に近いことでは、バビロンの捕囚からの解放のことと考えられます。

しかし、むしろこれはキリストがこの世に来られた後の救いのことを言っています。この手紙が書かれた時はイザヤ書で言われてから約7百年が経ってやっと実現した救いの時です。正に今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。それは現代でも同じことです。

信じる切っ掛けは人それぞれで良いと思いますが、今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。まずはこの恵みに与かっていただきたいものです。

3、和解の務め

そして神による和解の恵みに与かった者には、他の人が神と和解するための和解の務めが授けられます。神は全能のお方ですから全てをご自身ですることも可能ですが、そうはなさらずに、キリストを通して私たちをご自分と和解させ、和解の務めを私たち人間に授けてくださいました。

神は交わりを大切にされ、また私たちが和解の務めを果たすことによって成長することを願っておられます。神は和解の言葉である福音を私たちに委ねられました。神は独り子であるキリストを犠牲にされて果された大切な和解の務めを、私たちに授けて委ねられました。

その様な大切なものを授けて委ねられるというのは、本当に私たちを愛して信頼してくださっています。手紙一の1:18に「十字架の言葉は、私たち救われる者には神の力です」とありました様に、和解の言葉自身に力がありますので、私たち自身が何かを頑張る必要はありません。

4:2にありました様に、ただ神の言葉を曲げずに伝えるだけです。なぜなら、神が私たちを通して勧めておられるからです。神が私たちを通して勧められるということは、そこに聖霊の働きがあります。神は和解のお働きをキリストによって、聖霊の働きを用いて三位一体の神として働かれ、人間にその務めを委ねられます。

私たちは神に用いられるものですから、私たちはキリストに代わって、代理として使者の務めを果たしています。使者を新改訳は使節と訳していて、英語ではアンバサダー、大使です。使者、使節は、その者を使わした主人の考えに忠実に仕える者です。自分のために生きるのではなくて、使わした者である主人のために生きる者です。

そこで使わした者であるキリストの思いをキリストに代わってお願いします。それは、「神の和解を受け入れなさい」ということです。「神の和解を受け入れなさい」という言葉の第一の意味は、その通りに、福音の言葉を受け入れてキリストを救い主として受け入れてクリスチャンになることです。

しかしこの手紙はクリスチャンであるコリント教会員に宛てた手紙です。そしてこの箇所は、10節で、クリスチャンもこの世で行った仕業に応じて報いを受けるという内容の後に書かれています。それらを合わせて考えると、コリント教会員は神の和解を受け入れてクリスチャンになったはずですが、それに相応しい生き方をしていないということです。

具体的には2:5~には過ちを犯した人を赦していないことが書かれていました。また3:6には文字によって人を生かさずに殺している問題もあったようです。神の和解を受け入れてクリスチャンになったと言いながら、クリスチャン同士が和解していなければ、それは本当の意味で神の和解を受け入れたことにはなりません。

先週のマタイ22:38、39の律法の最も重要な戒めで、第一が神を愛しなさいで、第二が隣人を愛しなさいでした。神を愛しているといいながら、隣人を愛していないなら、それは本当の意味で神を愛していることにはなりません。神を本当に愛する者は神が愛する隣人を愛するものだからです。

クリスチャン同士の和解も同じです。神と本当に和解したのなら、神と和解したクリスチャンと和解するものです。そしてクリスチャン同士の和解も、自分の力で行うのではありません。神が私たちを通して聖霊によって勧められることです。

キリストにある人は新しく造られた者ですから、若いはずです。若いなら和解が出来ます。和解が出来ないことは新しく造られる若さが足りないのかも知れません。

まずは私たちがきちんと神の和解を受け入れましょう。そして次に私たちが隣人との和解を受け入れましょう。その上で、他の人が神の和解を受け入れられるように和解の務めをさせていただきましょう。また他の人同士の和解のために和解の務めをさせていただきましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。神はキリストによる十字架の恵みによって、私たち罪人と和解してくださいますから有難うございます。全ての人があなたとの和解を受け入れられますようお導きください。

そして神と和解した者は隣人と和解し、他の人の和解の務めにお用いください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。