「約束の地の占領」

2022年元旦説教  
申命記 1章1~8節

主の御名を賛美します。新しい年となりました。今年も宜しくお願い致します。新年にあたって、今年はどのような年にしたい、しようかと色々と考えて抱負を持たれると思います。ぜひぶどうの木に抱負等を書いて皆で分かち合いたいと思いますが、その時にどのように考えたら良いのでしょうか。御言葉を聴かせていただきましょう。

1、申命記

コリントの信徒への手紙の講解説教が終わり、今年は申命記から御言葉を聴かせていただきたいと思います。日本語の申命記の名前は漢訳聖書から来ていて、神の命令を申したものを記したものという意味です。

申命記のヘブル語の聖書の題名は、初めの言葉である「言葉」です。申命記は主なる神が、モーセを通してイスラエルのすべての人々に対して語った言葉です。モーセは神の命令によって、イスラエルの人々を奴隷の地エジプトから導き出した預言者です。

モーセが申命記の言葉を語り始めたのは第四十年の第十一の月の一日です。第四十年はイスラエルがエジプトを脱出したのが第一年です。その時にモーセは80歳で召命を受けて、四十年経ちましたので今は百二十歳で、この後で約一か月後に天に召されます。

しかしモーセは最期まで、目はかすまず、気力もうせていなかったと書かれています(34:7)。モーセが天に召されるとイスラエルは30日間、喪に服した後に神の約束の地であるカナンの地に入ります。神の約束の地に入る二か月前に、もう一度、神はモーセを通して言葉、また言葉を纏めた律法を説き明かします。約束の地に入る前に語る必要のある内容です。

申命記は創世記から始まる5つの文章を書いて来た百二十歳のモーセが、天に召される約一か月前に語った最後の言葉であり、集大成でとても重みがあります。じっくりと味わわせていただきたいと思いますし、とても楽しみです。

モーセが申命記の言葉を語った今いる場所は、1節ではヨルダン川の向こうで、ここで言う「むこう」は東側です。そして細かい説明が書かれていますがアラバの荒れ野は死海の南の辺りで、5節のモアブの地は死海の南東の辺りということです。

「ホレブ(シナイ山)から、セイルの山の道を通り、カデシュ・バルネアに至るには十一日を要した」とは何を意味しているのでしょうか。単なる地理的な説明だけではないようです。イスラエルがホレブから約束の地に入るカデシュ・バルネアに至るには十一日で行けるということです。その十一日で行ける距離をイスラエルは実際には何日掛けたのでしょうか。何と四十年です。どうしてその様なことになったのか、その経緯は民数記に書かれていて、またこの後に申命記でも振り返りますが、その意味は一体どういうことなのでしょうか。

私たちは神を信じて、洗礼を受けてクリスチャンになって、神の子とされます。その後には、どのような人生を歩むことになるのでしょうか。神を信じて神の子とされるのですから、神の祝福の約束を頂くことになります。祝福は色々ありますが、永遠の命を頂きます。それ以外はどうでしょうか。

何不自由の無い、至れり尽くせりの楽園のような人生が待っているのでしょうか。そうであったら良いなと思う気持ちもありますが、しかしそうでもないようです。神の祝福に与かりますが、むしろ私たちの歩む人生は荒れ野を歩むものです。それはなぜなのでしょうか。

私たちは神を信じても何か困難に遭うと神から目を離してしまう弱い者です。洗礼を受けて十一日後に、そのままで直ぐに神の約束の地、楽園に入るには相応しくない者です。荒れ野を歩む中で神に信頼して従うことを学ぶ必要があるようです。

イスラエルは四十年前にホレブを出発して十一日後に神の約束の地に入る機会を一度手にしましたが、結果として失敗しました。しかし、四十年後の今、再びその機会を手にしました。今度こそ間違いの無いように、モーセは主が命じられたとおりに語りました。

それは、モーセがヘシュボンに住んでいたアモリ人の王シホンと、アシュタロトに住んでいたバシャンの王オグとをエドレイで討ち破った後のことでした。この話は2章の後半から詳しく出て来ますが、それはイスラエルが主の命令に完全に従う従順な良い状態の時です。

2、出発命令

初めにお話しましたが私たちが何か新しいことを始める時等にはどの様に考えたら良いのでしょうか。聖書は何と言っているのでしょうか。創世記16:8は、主の使いがサラの女奴隷ハガルに尋ねた、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」、そして創世記3:9は神がアダムに言われた、「どこにいるのか」です。

私たちはいつも、過去にどのようなところを通って来たのか、そして今どこにいるのか、そして将来にどこに行こうとしているのかを良く考える必要があります。それによって今がどういう状態にあって、何をする必要があるのかが見えて来ます。

モーセはまず1:6から3章で、イスラエルがどこから来たのかについて、荒れ野での過去の四十年を振り返ります。まず私たちの神、主が、ホレブ(シナイ山)で四十年前に告げられた言葉です。「あなたがたは長くこの地にとどまっている」。確かにイスラエルはホレブに約1年とどまっていました。

その1年の間に十戒を中心とした律法を授けられ、祭司や祭儀についての規定が定められて、神と会見する会見の天幕が作られ、12部族の編成も出来ました。確かにこの期間には色々とすることがありました。また民数記10:11によるとそれまで神の臨在を示す雲が昇らなかったのでイスラエルはとどまっていたと思われます。

申命記は民数記等に書かれていることと同じ出来事を違う視点から見ています。イスラエルがホレブに約1年とどまっていたことについても違う視点から見ています。人には変化を求めずに今いるところに安住をしてしまい易い怠惰な部分があります。

本来は神が約束された地があるにも関わらずに、そこまでは行かなくて、まあこの辺で良いかと妥協してしまい易い部分があります。しかし神は、向きを変え、出発しなさい、そして約束の地にまで行きなさいと命じられます。「向きを変える」という言葉は、「準備する、移動する」という意味です。

「出発する」は、「杭を抜く」という意味で、天幕の杭を抜いて出発することです。私たちも住み慣れた環境にとどまっているのではなくて、向きを変えて出発する必要があります。そして目指すのは、神が命じられる乳と蜜の流れる約束の地です。

しかし向きを変えて出発してもどうせ荒れ野なのでしょうと思われるかも知れません。しかし神は約束の地に行きなさいと言われます。「行きなさい」という言葉は原語で「入れ」と書かれています。「行きなさい」「入れ」ということは、行けば入れるということです。どういうことなのでしょうか。

神は、「さあ、あなたがたにこの地を与える」と言われます。「与える」と訳されている言葉は完了形ですので、「与えた」と訳しても良いと思います。神の側では既に約束の地をイスラエルに与えています。しかしこれは私たちが他の人に何かを与える時も同じですが、与える側が与えるものを差し出していても、受け取る側が手を出して受け取らないと実際に与えることは出来ません。

英語の諺に、「馬は水飲み場まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」というものがあります。神がいくら恵みを備えてくださっても受け取るかどうかは本人次第です。

そこで神は、「あなたがたは行って、主があなたがたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブとその子孫に与えると誓われた地を占領しなさい」と命じられます。神は約束の地をイスラエルに既に与えていますが、実際に受け取るには自分で行って、占領する必要があります。

3、約束の地の占領

この言葉はこの当時のイスラエルに対する神の言葉としては分かります。しかしそれは現代を生きる私たちに対してどのような意味を持つのでしょうか。それは単なるイスラエルの土地のことではありません。なぜなら私たちが今イスラエルに行って約束の地を占領することなどは有り得ないことだからです。

神の約束の地は私たちにとってどのようなものなのでしょうか。それは神が神として完全に支配されるところである神の国です。神が完全に支配される場所、そして人が神の支配に完全に従うところが、この世における約束の地である神の国です。

それはこの世においても、神が支配され、平安と安息を与えてくださる神の国があります。主イエスは、マタイ12:28で、「私が神の霊で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ」と言われました。しかし先程、この世は荒れ野と言っていたのではないかと思われるかも知れません。確かにこの世は荒れ野です。

荒れ野のこの世ですが、荒れ野の中にもオアシスがあるように、荒れ野のこの世の中にも神の支配される神の国があります。ではその神の国はどこにあるのでしょうか。主イエスはルカ17:21で、「神の国はあなたがたの中にある」と言われました。

「あなたがたの中」とは一人一人の中とも考えられますし、人と人との中とも考えられます。神の国は、マタイによる福音書13章にある、からし種やパン種のようにとても小さく目立たないかたちでこの世に来ました。しかし確実に存在していますので、見る目のある者の目には見えるものです。

神は私たち自身を約束の地として罪を追い出して、聖霊によって占領しなさいと命じられます。また神の国は、あなたがたの中ですから、人と人との関係においても罪である自己中心的な思いを追い出して、聖霊による御心によって占領しなさいと命じられます。

私たちは約束の地の占領を武器無しに戦うのではありません。私たちが約束の地を占領するために主イエスは十字架にかかられて罪の赦しを与えてくださいました。そして聖霊という強い武器を与えてくださいました。

この世にある神の国は、小さいままではありません。からし種やパン種が成長すると元の大きさからは考えられないような大きさになるように、主イエスが再びこの世に来られる時には完成して、全世界を支配されます。今は小さく目立たない神の国ですが、確実に私たちのところに来ました。

この世に流されてとどまるのではなく、今年も、聖霊の導きに従って、向きを変え、出発して、神が約束された地の占領を目指して歩んで行きましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。神はイスラエルに山地にとどまっていないで、向きを変えて、出発して、主が与えると誓われた地を占領しなさいと命じられました。私たちもイスラエルと同じように中途半端なところでとどまり易い弱い者です。

この新しい年に、とどまっているところから、向きを変えて、出発して、聖霊の力によって私たちの心の中の罪を追い出して占領してください。そして隣人との関係も聖霊によって占領して神の子として相応しい歩みをさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。