「先立たれる神」

2022年10月16日説教  
申命記 9章1~7節

        

主の御名を賛美します。

1、先立たれる神

先週の個所でモーセは、荒れ野での40年間には色々な苦しみ、試みがあったけれど、主が守ってくださったことを忘れないように、訓練は最後にはイスラエルを幸せにするためであったことを語りました。今日は、これからイスラエルに起こることを語ります。

モーセはまず、「聞け(シェマア)、イスラエルよ」と命じます。大切なのはまず神の声を聞いて理解することです。何事においてもまず初めは良く聞いて理解することが大切です。愚かとは聞くことをしないで、自分の考え、思い込みといった先入観、妄想の中で間違った方向に進んで行くことです。

これから起こることとして、「あなたは今日ヨルダン川を渡って行こうとしている。」 几帳面な日本人等は、イスラエルは今日中にヨルダン川を渡って行くのかと思いますが、これは今日にも渡って行く状況にあるという意味です。実際、イスラエルはこの日にはヨルダン川を渡りません。この後にはモーセが天に召されて、30日間、喪に服したりしますので、ヨルダン川を実際に渡るのはずっと後のことです。

そこでは、あなたよりも大きく、強い諸国民を追い払おうとしています。町は大きく、城壁は天に届くほどです。「城壁は天に届くほど」というのは強調するための大袈裟な表現なのは分かりますが、凄い表現だと思います。そこには、あなたも知っている、大きくて背の高い民、アナク人の子孫がいます。

当時は、「誰もアナク人の子孫には立ち向かえない」と言われていたようです。スポーツをされている方は良く分かると思いますが、競技によって違いはあるものの、背が高いことは有利な場合が多いものです。バレーボールやバスケットボール等です。小柄な選手も活躍はしていますが。格闘技では身体が大きくて背が高いと圧倒的に有利になるので、体重による階級制にしているものに、ボクシング、柔道、レスリング、空手等があります。

38年前にイスラエルはカナンの地に12人の偵察隊と送りましたが、アナク人の子孫を見て怖気付いてしまいました。この世の状況だけを見ているとそのようになってしまいます。しかし今日、あなたの神、主があなたたに先立って渡ります。これはイスラエルの戦いではなく、主の戦いです。

主が焼き尽くす火となり、彼らを滅ぼし、あなたの前に屈服させてくださいます。戦われるのは主であって自分ではありません。そのことを、「知りなさい」と命じます。ヘブル語で「知る」とは単なる知識としてだけで知るのではなく、体験として知ることです。イスラエルはこれから体験として知ることになります。

しかしいくら、「知りなさい」と命じられても、これから体験として知る前に、主が先立ってくださることを前もって知っておかないとやはり怖い感じがします。どうすれば良いのでしょうか。それには過去に主が先立ってくださったことを思い起こす必要があります。7:17、18に同じようなことが書いてありました。

私たちは神が色々な御業を行ってくださっても、つい忘れ易いものです。神の成してくださった御業をいつも思い起こし忘れないためには、証し等の文章を書いておくと良いと思います。それも一度書いたら終わりではなく、時々、読み返して思い起こし忘れないようにすることが大切です。

主が敵を滅ぼし、屈服させてくださいますので、あなたは敵を速やかに追い払い、滅ぼすことができます。主が敵を滅ぼしてくださいますので、これはある意味で簡単なことであり、順調に進みます。

2、悪を裁く

さて、あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるときに、どのようなことを考えるでしょうか。私たちも、自分の前から主が敵を追い出される時に、どのようなことを思うでしょうか。このようなときには心が驕り易いときです。そして、「私が正しいから」と考えてしまい易いものです。

そして、「主が私を導いてこの地を所有させてくださった」と。しかしそのようには考えてはなりません。そうではなくて、むしろ、この諸国民が悪かったから、主はあなたの前から彼らを追い払われるのです。主は悪を裁かれるために、あらゆるものをお用いになられます。

これよりずっと後のことですが、イスラエルは南北の二つの王国に分かれて、北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされて、南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされます。これはアッシリアとバビロンが正しいから北イスラエル王国と南ユダ王国を滅ぼすのではありません。北イスラエル王国と南ユダ王国が悪かったからです。

これらの例からも悪いものを滅ぼすものが正しいとは限りません。主は悪を滅ぼすのに悪を用いられることもあります。しかし私たちは自分に敵対する者に勝利すると、心が驕りやはり自分が正しいからと考えてしまいがちです。しかしそうではないと主はモーセを通して3回繰り返して説明され強調されます。

2回目として、あなたが正しく、心がまっすぐだから、彼らの土地に入り、それを所有するのではない。この諸国民が悪かったから、あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出すのです。諸国民を追い出す理由は彼らが悪かったからで、追い出される主体はあくまで神、主です。イスラエルはただその駒として用いられるだけです。

こうして主は、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を果たされるのです。これは主の誓い、約束の成就です。しかしアブラハムのときから、このときに諸国民が追い出されることがもしも決まっていたのだとしたら、何か可哀そうな運命の人たちであるという気もします。

しかしそうではありません。諸国民を追い出すことを数百年前に神が運命的に決められたのではありません。創世記15:16で主はアブラハムに、「そして、四代目の者たちがここに戻って来る。それまでは、アモリ人の悪が極みに達していないからである。」と言われました。

全知全能の主は、このときに諸国民の悪が極みに達することを予知されていました。そしてそのときには主ご自身が裁かれて追い出されることになることをご存じでしたので、父祖たちに誓われたと考えられます。

3回目として、「だからあなたは、自分が正しいから、あなたの神、主がこの良い地を所有させてくださるのではないことを知りなさい」と言います。ヘブル語で「知る」は体験によってですが、どのように知るのでしょうか。「あなたの神、主を荒れ野で怒らせたことを思い出し、忘れないようにしなさい。」です。

ヘブル語の「知る」という言葉の意味する、単なる知識ではなくて、自分の体験によって知るには、自分の過去の体験を思い出すことによって知れます。エジプトの地を出た日から、この場所に至るまでのことを思い出すと、どんなことが思い出されるのでしょうか。

イスラエルは主に逆らい続けてきました。約束の地へ行けと言われればアナク人の子孫がいるから嫌だと言い、水や食物が無いと言ってつぶやき、逆らい続けてきました。そのようなイスラエルが、自分が正しいから良い地を所有できるのだと考えるなど、図々しいにも程があるというものです。

自分がしてきたことを良く思い出し、実にかたくなな民であることを忘れないようにしなさい、と言います。これはとても耳の痛い言葉で、私たちも自分のこれまでの歩みを思い出せば、自分が正しいから主から恵みをいただいているなどとは到底言えるものではありません。

3、悪を追い出す

しかしそのように思えることは、ある意味で正しいことです。もしも自分の過去を思い出して、自分は何一つ間違いなく正しく歩んで来た、今日の自分があるのは自分の正しさの賜物だと思うなら、そのような人は主イエスの十字架が必要だとは思わないことでしょう。

私たちは自分の過去を思い出し、自分のかたくなさを思い知るからこそ、主イエスの十字架による罪の赦しが必要であり、聖霊による導きが必要であることを知ります。本当に感謝なことです。ところでクリスチャンになる人は素直な人が多くおられます。そして聖書を文字通りに素直に読んでしまうこともあります。

この聖書箇所も文字通りに読めば、主を信じない諸国民を追い出し、滅ぼせと命じているようにとれます。確かにこの聖書箇所で追い出すべき直接のものは先住民である敵ですが、その理由は悪かったからです。

テモテへの手紙二 3:16は、「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれているもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です」と言います。その意味から、私たちは聖書を文字通りの意味を理解すると共に、その霊的な意味を読み取る必要があります。

この聖書箇所が現代の私たちに語る霊的な意味は、敵対する先住民を追い出すことではなく、先住民が象徴する悪、それは自分の中にもある悪を追い出し滅ぼすことです。追い出すべきは敵ではなく悪です。先週の中心聖句8:16bで、神は私たちに色々な訓練を与えられますが、それは最後には私たちを幸せにするためであったとありました。

クリスチャンでも今日の聖書箇所等から、自分が幸せになろうとして、自分に敵対する者を滅ぼすとは言わないまでも、追い払おうと考えてしまうこともあります。そうすれば自分は幸せになれると思うのでしょうか。しかし神が私たちに願われる幸せは自分の敵を追い出すことではなく、自分の中にある悪を追い出すことによって得られるものです。

自分が幸せになるためにと思って、自分に敵対する者を追い出そうとして増々不幸になる人がいます。なぜなら自分に敵対する者を追い出すことは主の御心ではなく、そこには主が先立っておられないからです。

4、先立たれる神②

今年度の茂原キリスト教会の標語は、「恐れるな、神が共におられる」でとても心強いものです。神は共におられますが、どこにおられるのでしょうか。今日の御言は、私たちの前に先立っておられると言います。先立ってくださるというのはとても安心です。

マラソンの戦略の一つとしてあるのが、途中までは先頭集団に入って走るけれども一番前の先頭は走らないそうです。なぜかというと、一番先頭は風の抵抗もあって体力を奪われ易く、また精神的にも先頭を走るのはきついそうです。

それよりも先頭を走る人の直ぐ後を走ると風の抵抗もなく、また先頭を走る人をペースメーカーとして後に付いて行く方が楽なのだそうです。そしてゴールの少し前になったところで、先頭の人を抜いて優勝するという戦略があって、皆、色々な駆け引きをしながら走っているようです。

神が先立ってくださいますから例え色々な障害があったとしても取り除いてくださるので安心です。モーセも荒れ野の40年の間、色々な問題があって本当に大変だったことと思います。しかし神は昼は雲の柱によって、夜は火の柱によって先立って進まれ、イスラエルを導かれました。モーセにとって大きな励ましだったことでしょう。

使徒パウロもそうです。私たち普通の人間からすると、なぜパウロはあのような艱難の中を進んで行くことができたのだろうと思います。それは神が先立っておられたからでしょう。神が先立っておられたので、何があってもパウロは夢中で喜んで付いて行ったのかも知れません。

逆に言うと、どんなに楽そうに見えても、神が先立っておられないところには進むべきではありません。あらゆる障害が直接に自分に降り掛かってくることになります。また逆に進むのを聖霊が止められようとされるかも知れません。それを無理に進んで行けば心も身体も共に傷付くことになりかねません。

神がどこに先立って行かれ、どちらに進むのが御心であるのかを求めましょう。御心に従うなら、神はいつも私たちの幸せを考えてくださり、私たちに先立って進み守ってくださいます。そのときに驕り高ぶり、自分が正しいからと考えて、敵対する者を追い出すのではなく、聖霊の働きによって自分のかたくなさを忘れずに、自分の中にある悪を追い出し滅ぼしていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちに先立って進まれ私たちをいつも守ってくださいますから有難うございます。そのときに私たちがそれは自分が正しいからと驕り高ぶることがないように、聖霊の導きの中でいつも謙らせてください。

そして自分に敵対する者を追い払うのではなく、自分の中にある悪を追い払い滅ぼさせてください。そしてあなたが先立たれる祝福の道を歩ませてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。