「大いなる国民」
2022年3月20日説教
申命記 4章1~9節
主の御名を賛美します。私は教会に行く前は、クリスチャンというと宗教を信じている堅物のような否定的なイメージと、それとは逆に真面目で知恵と分別のある少し尊敬の念を抱くような、相反するイメージがありました。
ユダヤ人は自分たちは唯一の神から選ばれた選民であり、律法を与えられた民であるということに高い誇りを持っています。それは若しかすると今日の御言葉等に基づくのかも知れません。御言葉を聴かせていただきましょう。
1、掟と法
モーセはこれまでの1~3章で、過去の40年間を振り返りました。そして自分は神の約束の地には入れないので、3:28の主の御言に従って、ヨシュア、そしてイスラエルに命じ、強め、励まします。モーセは、初めに、「イスラエルよ、今、私が守るように教える掟と法に耳を傾けなさい。」と命じます。
「耳を傾けなさい」と少し遠回りで上品な訳ですが、原語ではただ一言、「聞け(シェマア)」です。申命記では、「聞け(シェマア)」という言葉が44回使われているキーワードですが、まず聞くことが全ての基本です。
「掟」は、「彫る、刻み込む」の派生語で、変わることのない掟と思われます。「法」は、「裁く」の派生語で、権威者による法的な決定と思われます。「掟と法」はセットで使われ申命記の中では17回使われている、主がイスラエルに教えるように命じておられるすべての内容です。
申命記はモーセ5書の最後の結論で、それは120歳になって死を目前としたモーセのイスラエルに対する遺言のようです。
次はこの掟と法の目的です。新改訳ではこの後のことが目的であるとはっきりと分かるために、「~するためである」と訳しています。一つ目は、あなたがたが生きるためです。生きることの一つの意味は肉体的に生きるためです。1:35で、神の命令に聞き従わないで約束の地に上って行こうとしなかった20歳以上の者たちは38年間の荒れ野で死にました。
掟と法を聞くことは、それとは反対に生きることです。また生きるとは、単に肉体的な意味だけで生きるのではなく、霊的にも生きることです。それは8:3に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」とある通りです。
二つ目の目的は、あなたがたの先祖の神、主が与える地に入るためです。イスラエルは38年前に主の命令を聞かなかったために約束の地に入れずに遠回りしました。そして約束の地に入りたいと強い願いを持っているモーセも入れません。しかし掟と法を聞いて守るなら入れます。イスラエルには今度こそは間違いなく入って欲しいモーセの願いが込められています。
そして三つ目は、その約束の地を所有するためです。約束の地に入っても、エデンの園のアダムとエバのように追い出されてしまっては意味がありません。所有し続ける必要があります。約束の地に入り、所有し続けるためには掟と法に聞いて守る必要があります。
2、主の戒め
次は掟と法を聞く上での注意です。「あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。」 「モーセが命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。」とは、モーセが書いたモーセ5書の他に、神の言葉である聖書の言葉を守ることです。
聖書の言葉に何一つ加えても、削ってもなりません。これは大切なことですので、13:1でも繰り返されて、聖書の他の箇所でも言われています。殆どのクリスチャンは2節の内容を知っていると思いますが、その通りに実行されているかというと残念ながらそうでもありません。
「聖書の言葉に何一つ加えてもならない」とありますが、クリスチャンになってから長い人でも言っている本人も気付かない内に加わっていることがあります。
一つ目は、時々、耳にするのが、「あの有名な何々先生が、何々と言っていた、何々をしていた。」と言ってそれを掟と法のようにすることです。何々先生の言っていた、また、していた内容が聖書の言葉に基づくものであるのなら勿論良いのです。
しかし、そうでないなら、それは単なるその人の考えによる言葉や行いです。聖書の言葉以外のものを絶対化して掟のようにすることは偶像であり、聖書の言葉に加えることになります。
二つ目は、聖書に書かれていないことを預言と称して語ることです。以前にノストラダムスの大予言等というものがありました。しかしクリスチャンでも預言と称して、いつ、どのようなことが起こるというようなことを語る人がいます。
主イエスはマタイ24:36で、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」と言われます。これは再臨に限ったことではありません。そのようなことを言うと、「あなたは預言の賜物が無いので妬んで言っているのではないか」と思われるかも知れません。
しかしそうではありません。聖書は明確に、「聖書の言葉に何一つ加えてはならない」と言います。
預言は神から預かった言葉を語ることです。当たるか当たらないか分からないような好い加減なことを、預言と称して丸で神から預かったように語ることは、神の言葉である聖書に言葉を加えることで、それは決して行ってはならないことです。
預言は神の言葉である聖書の言葉から、神から預かった言葉として確実に実現することを語ることです。その意味では本当の預言の一つは、主イエスを信じる者はすべての罪を赦され、永遠の命を得ることを語ることです。
また、「聖書の言葉から何一つ削ってもならない。」のですが、勝手に自分の考えの都合の良いように削ってしまう人もいます。旧約聖書の戒めの中には、主イエスの十字架によって成就をしたために、行われる必要の無くなった祭儀規程等もありますが、削られるものは何一つありません。戒めの中心である十戒の一つでも削るならそれは異端ですので注意が必要です。
3、知恵と分別
5節と6節の1行目は、1、2節の繰り返しです。大切なので繰り返しているのでしょう。120歳で死を目前に控えたお爺さんであるモーセが、これは大切なことだからと繰り返している姿が目に浮かぶような気がします。モーセが掟と法を教えるのは実際に守り行うためです。
そして6節の二つ目の「それ」は知恵と分別ですが、それとは何でしょうか。掟と法ではありません。掟と法を守り行うことです。掟と法は単なる飾りであっては意味がなく、実践される時に知恵と分別になります。
もろもろの民はイスラエルの掟と法を守り行うことを目にして、その掟を聞いて、「この大いなる国民は、知恵と分別の民にほかならない」と言うでしょう。具体的には特にどのようなことでしょうか。
3、4節に書かれています。バアル・ペオルは先週の3:29のベト・ペオルと同じで、ペオルはモアブの神の名前で、バアルは神の意味です。
この出来事は民数記25章に書かれていますので比較的に最近のことで、約束の地に入るあなたがたは、主がなさったことをその目で見ました。ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグの勝ったイスラエルは気の緩みが出てしまったのでしょうか。
モアブの娘たちと淫らなことをしたために、主はペオルのバアルに従った人をすべて滅ぼされ、二万四千人が死にました。しかし神、主に付き従ったあなたがたは皆、今日も肉体的にも霊的にも生きています。この当時もそうですし、現代でも同じですが、性的に乱れた行いを娯楽の一つとするような考え方がこの世にはあります。
しかしローマ1章は、性的不品行は、妬み、殺意、争いに発展し、死に至ると言います。しかし、性的不品行がなぜいけないのかということを論理的に説明しようとすると、神の存在を抜きに説明するのは難しい部分があるように思います。
当事者同士が合意していて他人に迷惑を掛けないのであれば良いのではないかと言われたらどのように反論されるでしょうか。神が禁じておられるからとしか言いようがないように思います。そのような理由から神を信じない人は、そのようなことをしてはいけない論理的な理由はないと考えます。
その意味で、神の掟と法を守り行い、品行方正に生きる姿は、もろもろの民の目に知恵と分別を持つ大いなる国民と映ります。私たちも神の掟と法を知っているだけではなくて、それを守り行って初めて知恵と分別になります。そして私たちは知恵と分別の民として神を証しします。
4、大いなる国民
また私たちの神、主は、私たちがいつ呼びかけても近くにいてくださる、インマヌエルの神です。このような神を持つ大いなる国民が、果たしてほかにいるでしょうか。他の宗教の神は人間とは遠く離れたところにいて、呼びかけても聞いているのかどうか分かりません。しかし私たちの神は父と呼ぶことの出来る親しい近くにいてくださる神です。
しかし厳密に言うと、近くにいてくださる神が大いなる方なのですが、そのような大いなる神を持つという意味で、大いなる国民とされます。
また、今日、あなたがたに与えるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民が、ほかにあるでしょうか。これも同じように考えますと、大いなるものは正しい掟と法なのですが、そのような大いなる正しい掟と法を持つという意味で、大いなる国民とされます。
クリスチャンもこの時のイスラエルと同じ意味で大いなる国民ですが、大いなる国民である理由は、神が近くにいてくださる大いなる方で、与えられている掟と法が大いなるものであるからです。そこを自分自身が丸で大いなる者となったと勘違いしないようにする必要があります。
大いなる国民である理由は、近くにいてくださる大いなる神を持ち、大いなる正しい掟と法を持っているからです。しかし持っているだけでは意味がありません。近くにいてくださる神の言われることを聞いて、正しい掟と法を守り行う必要があります。
そこで、「ただ、あなた自身くれぐれも気をつけ、注意を払い、目で見たことを忘れず、生涯、心から離さないように努めなさい」と言います。これらが努めるだけで出来る位なら苦労はしません。気をつけ、注意を払おうとしようと思いつつも中々出来ず、目で見たことは直ぐ忘れ、心から離し易いものです。
それらのことを子や孫たちに語り伝えたいと思っていても、中々上手く伝わりません。人間の努力には限界があります。しかしそのような弱い私たちのために、父なる神は、子なる神である主イエスを十字架に付けられて私たちの罪の身代わりとされ、主イエスを信じる者の罪を赦してくださいます。
そして私たちのために助け手として聖霊を遣わしてくださいます。聖霊は私たちの近くにいてくださり、私たちが呼びかけるだけでなく、私たちに呼びかけてくださいます。また正しい掟と法を私たちの心に記して思い起こさせてくださいます。
私たち自身に気をつけさせてくださり、注意を払わせてくださり、目で見たことを忘れさせず、生涯、心から離さないように導いてくださいます。子や孫たちに語り伝えるように導いてくださいます。主イエスを信じるものは、大いなる三位一体の神を持つ、大いなる国民です。
大いなる国民は大いなる神の恵みによって生きる者です。大いなる神に感謝し、大いなる神を証し歩ませていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。クリスチャンはあなたの恵みによって、近くにいてくださる神を持ち、正しい掟と法を持ち、知恵と分別の大いなる国民としていただけますから有難うございます。この恵みに多くの人が与かれますようにお導きください。
またそれらはすべてあなたの恵みによるものであることを私たちが謙って覚え、あなたを証する者としてお用いください。またウクライナとロシアとの停戦が一刻も早く訪れることが出来ますようにお導き下さい。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。