「安息と恐れ」

2022年3月6日説教  
申命記 3章18~22節
        
主の御名を賛美します。私たちは神から多くの恵みを与えられていますが、つい忘れ易いものです。そのことにどの様に対応したら良いのでしょうか。聖書では、神から恵みをいただいた時に、その恵みを覚えるために記念碑を立てたり、その日を記念日にして毎年、お祝いをしたりします。

キリスト教界では聖書の伝統に従って、色々な記念日を作って教会歴としています。今年の教会歴では、主イエスが十字架の死から復活されたイースターが4月17日です。その前の40日間が準備期間として40日に因んで四旬節、受難節(レント)と言われます。

40日間はマタイ4章で主イエスが荒れ野で試みを受けられたこと等に基づきます。この期間にはマタイ6章で天に宝を積むこととされる、施し、祈り、断食が特に奨励されます。ただこの期間にある主日は主イエスが復活された喜びの日ですので除かれて、46日前からレントに入ります。

今年のカレンダーでは先週の水曜日である3月2日からレントに入りました。初日の水曜日は灰の水曜日と呼ばれますが、灰の水曜日の灰は前年の棕櫚の主日に使った棕櫚の枝を燃やした灰で、その灰を信者の額に十字に記して罪を悔い改めます。

ロシアにはロシア正教会を初めとした色々なキリスト教会があります。戦争自体がキリスト教として有り得ないことですが、特に節制を意識するレントの期間に他の国に対して攻撃を行う等は有り得ないことです。プーチン大統領のお母さんもロシア正教の熱心な信仰者だったと言われます。

レントの暦や儀式等がただの形式だけでは意味はありませんが、先人の知恵による教会歴も、信仰を深めるため、また悔い改めの一つの切っ掛けとして用いたいものです。

1、ルベン、ガド、マナセへの命令
前回の箇所で、モーセはヨルダン川の東の地域をルベン人、ガド人、マナセ族の半数に領土として与えました。今日の個所でモーセはその時、あなたがたに命じました。ここで命じた相手である、「あなたがた」というのは領土を与えた、ルベン人、ガド人、マナセ族の半数です。

彼らへの命令の内容は18~20節です。私たちは何かを命じる命令というのは、「ああしなさい、こうしなさい」という指示する命令のように思います。しかし主がモーセに命じられた時には、2:24~25や3:2にありましたように、命令を受け入れやすいように、指示だけではなくて命令と命令に伴う約束を交互に繰り返して諭しました。

モーセは自分が主にしていただいたように、同じ様に3部族に対して行います。自分がされて良かったことは、良かった良かったで終わるのではなくて、次は自分が他の人に対して行います。モーセは自分が主にされた命令よりもさらに丁寧に行っています。

主はモーセに対して、命令から始まって、次に約束でした。しかし、モーセは彼らが受け入れ易いように、まず1番目に神の恵みの事実を語ります。「あなたがたの神、主は、あなたがたにこの地を所有させてくださる。」 
ここは原語では完了形で、「この地を与えた」と書かれています。私たちはいつでもまず神が私たちに与えてくださっている恵みを覚えることが大切です。他の人に何かを命じる時にもまず神の恵みの事実を語ります。

2番目にモーセは、「すべての勇敢な者たちよ」と呼び掛けます。彼らは自分たちに割り当てられた地には、神の命令に従って勇敢に自分たちで行って占領しました。「すべての勇敢な者たちよ」という呼び掛けは神の命令を実行したことに対する誉め言葉です。

山本五十六大将の言った、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」の、「させてみせたことをほめてやる」ことです。ほめてやることが次の動きの原動力にもなります。

3番目の本題の命令は3つの分部からなります。一つ目は、「あなたがたは武装して」です。あなたがたは神の命令に従う勇敢な者たちなのだから、武装しなさい、ということです。これは現代のクリスチャンがエフェソ6:11のいう神の武具を身に着けることです。

二つ目は、「同胞であるイスラエルの人々の先に立って」です。神の命令に従う勇敢な者たちは、同胞の後ろに付いて行くのではなく、人々の先に立って先導します。三つ目は、「進んで行く」です。神の命令に従う勇敢な者たちは、留まっていないで御言葉に従って進んで行きます。命令は、武装して、先に立って、進んで行け、です。

2、命令に伴う約束
19、20節は命じた内容に伴う約束等です。一つ目は、「ただし、妻子と家畜は、私が与えた町にとどめておきなさい。」 戦闘に行くのに、妻子と家畜を連れて行くと危険に目に遭うかも知れません。人に何かを命じる時には相手に対する配慮も必要です。相手の身になって不必要な危険は取り除く必要があります。

二つ目は、「あなたがたには多くの家畜があることを知っている。」 人に何かを命じる時には、まず相手のことを良く知る必要があります。原語の「知る」という言葉は、単なる知識として知るということではなくて、人格的な交わりを持って知ることです。

それは実際に家畜のいる現場に行って話す等して、多くの家畜があるということは実際にはどういうことなのかということを知ることです。多くの家畜があれば、その家畜を養うために多くの餌や水等の他にも色々なことが必要になることでしょう。

何事においても物事の現実を実際に見ないで机上の空論だけをしていると、真実を知ることが出来ません。人格的な交わりを持って知る時に真実が見えて来ます。

三つ目は、彼らがモーセを通して神から与えられたヨルダン川の東側の所有の地に帰ることができることです。ただ所有の地に帰るためには、条件を満たす必要があります。

3、安息
それは、主があなたがたと同じように同胞にも安息を与えることです。「安息」と訳されている言葉は、「休ませる」という意味です。聖書には、安息、休ませる、という言葉が数多く使われています。

主イエスもマタイ11:28で、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と言われ、主イエスは信じる者に安息を与えることを約束されます。

神は創世記1章の6日間でこの世のあらゆるものを創られ、私たちもその6日間の創造に目を奪われがちです。しかし神は創世記2:2、3で、第7の日に休まれて、その日を祝福し聖別されました。神のかたちに造られた私たちは、神と同じように休み、安息を得ることが大切です。

そしてこの安息は自分だけが得れば良いのではありません。自分と同じように同胞にも安息を与えられるようにします。そのためには、既に安息を得た勇敢な者たちは、武装して、先に立って進んで行きます。ところで安息はどうしたら与えられるのでしょうか。

それは、ヨルダン川の向こう岸で、あなたがたの神、主が与える地を彼らが所有するようになることによってです。今はヨルダン川の東側にいますので、ヨルダン川の向こう岸はヨルダン川の西側です。イスラエルの人々は神の約束の地である嗣業を所有することによって安息を得ます。

この時のイスラエルは自分たちの土地を持たず、他の人たちの土地を通らせてもらう度に、食べ物や水を売ってくださいとお願いをして、その願いも受け入れて貰えずに、攻撃を受けたりしていました。そのような状況では全く休めませんし安息を得ることが出来ません。

このことの現代における霊的な意味はどのようなことでしょうか。ヨルダン川の向こう岸に行くことは、川を渡って水を通ることですので、水によるきよめの洗礼、聖化を象徴します。そして洗礼、聖化の恵みに与かる者には、主の約束の地が象徴する永遠の命、また聖霊が与えられます。

永遠の命、聖霊が与えられることによって私たちは本当の休み、安息を得ます。日本語で安息は安らかな息と書きます。旧約聖書が書かれたヘブル語でも新約聖書が書かれたギリシャ語でも息という言葉には霊という意味があります。安息は、神と交わり、創世記2:7で神から吹き込まれた息と霊を安らかにすることです。そこに真の安息があります。

4、ヨシュアへの命令
その時、モーセはヨシュアにも命じました。それは1:38で、モーセが主に命じられた通りです。ここでも1番目に、モーセは神がなされた恵みの事実から始めます。「あなたがたの神、主がこの二人の王たちに行われたことをすべて、あなたは自分の目で見た。」

二人の王たちに行われたことはすべて、神、主がなされたことです。人の手によるものではありませんが、モーセはリーダーとしての役割をヨシュアに対して、山本五十六大将の言う、「やってみせ」をして見本を見せました。

2番目は、「言って聞かせて」です。「あなたがこれから渡って行くすべての王国に対しても、同じようになさるだろう。」これは預言による約束と言えます。3番目だけが本当の命令です。「彼らを恐れてはならない。」 聖書では旧約、新約を通して、何度も「恐れてはならない」と繰り返されています。

「恐れ」には色々な種類がありますが、ここの恐れの対象は「彼らを」です。彼らとは、これから渡って行くすべての王国ですので、ここの恐れは王国、王国の人に対するものです。なぜ人は人を恐れるのでしょうか。人というのは、良くも悪くも、多かれ少なかれ同じ様なものです。

人と人とがお互いに人の力で戦えば勝つこともあれば負けることもあるでしょう。負けることもあるのであれば、負けることや負けることに繋がる戦うこと自体を恐れることでしょう。ここで言う、「恐れ」の反対の言葉は何でしょうか。

それは安息です。安息は恐れとは反対の安らかな息(霊)の状態です。安息している人は、神に従って、神の約束を与えられて神に信頼しているので、神が安息を与えられます。それに対して恐れる人は神を見て信頼するのではなくて、人を見て恐れます。恐れている人は息(霊)が乱れています。

別の言い方をすると、神を信じる信仰を持つ者は神から安息を与えられますが、神から目を離して不信仰な状態になると人を恐れます。そこでモーセは4番目に、「あなたがたの神、主があなたがたのために戦ってくださる。」と言ってヨシュアを励まします。

この文章は直訳すると新改訳の、「あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、主であるからだ。」です。戦われるのは私たち人間ではなくて、あくまでも主、ご自身であって、主の戦いです。それで人は恐れずに、主を信じて安息していられます。

元々、人は神のかたちに造られ、神との交わりの中で安息していました。しかし初めの人であるアダムとエバは罪を犯したために、彼らは神の足音を聞いただけで恐れました。しかしその様な神との断裂も、主イエスが私たちの身代わりとして十字架に付かれて、主イエスを信じる者はその罪を赦されることになりました。

私たちは安息に生きることも、恐れて生きて行くことも出来ます。主イエスをまだ信じておられない方、またまだ信じると告白されていない方は、主イエスの「あなたがたを休ませてあげよう。」と言われる約束の言葉を信じる告白をして主にある安息を得てください。

既に告白して安息を得ている方は、神との交わりを通して安息の中を歩んでいただきたいと思います。このレントの期間、特に主イエスの十字架によって私たちに安息が与えられた恵みの意味に思いを巡らし、感謝して過ごさせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは誰でも恐れて生きるのではなく、安息に生きることを願うものです。しかし私たちはあなたから与えられている恵みから目を離してしまい、恐れてしまう弱い者です。

先人の知恵によって作られた教会歴も用いながら、聖霊の力によってあなたの恵みに心を向けて信頼し、安息に生きる者とさせてください。今、苦しみの中におられる人々、特にウクライナの人々にあなたからの安息が一刻も早く与えられますように、主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。