「神を愛する」

2022年7月10日説教  
申命記 6章1~15節

        

主の御名を賛美します。ぶどうの木の先月号の巻頭言に私の母について書かせていただきました。母は以前はクリスチャンではありませんでしたが、私たち子どもに良く、「弱い人の立場になって物事を考えなさい。困っている人を見かけたら助けなさい。」と言っていました。母なりに大切だと思っていることを子どもたちに繰り返し告げていました。今でも覚えている程に意識の中に教え込まれました。

1、行うべき十戒

1~3節は5章の纏めです。それで初めの1節の「これは」は5:6~21の、律法の中心である十戒のことです。そして十戒は何のために存在するのかと言いますと、「行うべきもの」です。ユダヤ人は神の律法が自分たちの先祖に与えられたことをとても誇りとして大切に思っています。

それはそれで尊重されるべきことであるとは思います。しかし与えられただけでは意味がありません。また十戒の内容を知っていて告白することも大切なことではあるとは思います。しかし知っていて告白するだけでも意味がありません。律法の中心である十戒は、あくまで行うべきものです。行われない十戒は、絵に描いた餅で意味がありません。十戒は飾りではありません。

そして私たち自身も、子も孫も、神、主を健全に畏れる必要があります。5:29にありましたように、主を畏れるとは主の戒めを守ることです。自分のお父さんを畏れ敬うとはお父さんの言うことを守ることです。神を畏れるとは神の掟である十戒を守り行うことです。

そしてその結果はどうなるかと言いますと、長く生きることになります。長く生きるとは究極的には永遠の命を与えられることですが、この世においても長く生きることに繋がります。そしてそのようになるためには、聞いて、守り行う必要があります。

ローマ10:17の、「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。」とある通りに、キリストの言葉である聖書に聞いて守り行うことによって長く生きます。イスラエルはこれまで神の言葉を聞くことよりも自分たちが考える正しさを優先して失敗して来ました。愚かとは聖書の言葉を聞くことをしないで、自分の考える正しさで進んで行くことです。

今回もイスラエルが受け入れ易いように、命令と約束を交互に繰り返します。3節の前半は「聞いて、守り行いなさい」の命令で、後半はそれに伴う約束で、幸せになります。最近、自分の人生に幸せが足りないと感じる方はおられるでしょうか。ここに解決方法があります。

5:6~21の十戒を聞いて、守り行えば幸せになると聖書ははっきりと約束しています。十戒を守り行うこと自体が人間にとっての幸せです。十戒を守り行うことに伴う約束は幸せだけではありません。「乳と蜜の流れる地であなたがたは大いに増える。」と言います。

これまでイスラエルは乾き切って何もない荒れ野を40年間、彷徨って来ました。そのようなイスラエルにとって乳と蜜の流れるパラダイスのような地をどれほど望んでいたことでしょうか。更にそこで大いに増えると繁栄の約束です。ぜひ皆さんで一緒に十戒を実行して幸せになり乳と蜜の流れる地を目指しましょう。

2、主を愛する

約束の次は命令で3節にありました、「聞く」ことの具体的な内容に入って行きます。まず、「聞け(シェマー)、イスラエルよ」と言います。4~9節は、「シェマー」と言って、ユダヤ教徒が1日2回、朝と夕に祈る祈りです。その初めは、「私たちの神、主は唯一の主である」と、5:7の十戒の一つ目の戒めと同じ内容ですが、これから異教の地に入って行くイスラエルにとって、一番に大切な戒めです。

それはまた異教の地に住む私たちにとっても大切な戒めです。そして次に、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」です。心と魂と力を尽くすとは、全身全霊、自分のすべてを尽くしてということです。

この5節の御言は、主イエスがマタイ22:37で、律法の最も重要な戒めはどれかと問われた時に、お答えになられたものです。これは5:6~15の十戒の前半の4つの戒めを纏めたものとも言われます。神、主を愛するとは具体的にどのようなことをすることでしょうか。

私たちは人を愛します。人を愛するとは具体的にどうようなことでしょうか。色々なことがあるとは思いますが、その一つとして、本当に愛する人の言葉は真剣に心に留めます。申命記の原語の題名は言葉です。聖書で言葉は、その言葉を発した人の人格の延長と考えます。

私たちも愛する人の言葉は、愛する人と同じように大切に心に留めます。そして自分が愛する人の大切な言葉は、自分が愛する他の人にも大切に伝えて行きます。そこで、自分の愛する子どもたちに繰り返し告げなさいと言います。「繰り返し告げる」を新改訳は、「よく教え込む」と訳しています。

幼い頃の私は、私の母も含めて、なぜ同じことを何度も言う人がいるのだろうと不思議に思っていました。一度言えば分かるのだから同じことは二度も言う必要はないのではないかと。しかし一度だけ告げたのでは忘れてしまうこともありますし、一度だけでは印象として深く残らないこともあります。そこで、「繰り返し告げなさい」と言うことはとても大切なことです。

繰り返し告げるとはもっと具体的にどういう時に行うのでしょうか。それは、家に座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているときも唱えます。それは耳にタコができるほどにいつもです。子ども礼拝では暗唱聖句を毎週行っていますが、ここの御言にある通りにとても大切なことです。

ユダヤ人は旧約聖書の全部を覚えて口伝えで後世に伝えて行きました。勿論一人で全部を覚えたのではなくて、それぞれが覚える箇所を分担したようです。良くユダヤ人は他の民族より優秀な人の割合が多いと言われます。その理由の一つは若い時から聖書を覚えることと関係があるのではないでしょうか。

私は物事を覚えて暗記するのが苦手であるのと好きではなかったので文系の科目は苦手でした。誰でも得手不得手があります。しかし繰り返し行うことによって誰でも能力を伸ばすことができます。教会に通っている子が神の言を暗記する暗唱聖句を通して能力を伸ばすことは祝福の一つであると思います。人によって暗唱聖句の長さは違っても良いと思いますがチャレンジしたいものです。

更にその言葉をしるしとして手に結び、記章として額に付けなさいといいます。ユダヤ教徒は朝の祈りの時に、ここの文字通りに革紐の付いたテフィリン(聖句箱)を左手と額に結んで祈ります。テフィリンの中には申命記6:4~9を含めた4か所の聖句が入っています。

イスラエルに行ったことのある方は、嘆きの壁の奥でユダヤ教徒の人たちがテフィリンをつけて祈っている姿を見られたかも知れません。また家の入り口の柱と町の門に書き記します。こちらはメズーザー(門柱)と言って自分の家の入り口の右側の柱に聖句の入った円筒形の容器をつけます。

ただこれらは聖書の書かれた時代に実際に行われていたという記述はありません。むしろ後の時代になって行われ始めたようです。確かにその当時に文字が使われていたか分かりませんし、また文字があったとしても読み書きをできる人は少数だったと思われますので、現在のように文字通りには行われていなかったと思います。

そうであるなら、しるしとして手に結び、記章として額に付け、家の入り口と町の門に書き記すとはどのような意味なのでしょうか。聖書で手は力を表します。日本語でも、助け手、働き手等と手を使って力を表します。私たちが何かをする時には手を使うことが多いものです。その時に神の言葉の掟を守る者のしるしとして、手に紐等が結ばれているのを見て神の掟を思い出したのかも知れません。

また記章として額に付けるのは原語では、「両目の間に」と書かれています。インドのヒンドゥー教では額に赤いしるしを付けます。ヒンドゥー教では眉間は特別な場所で、物事の真実を見極める第三の目と言われるそうです。この時もヒンドゥー教のように額にしるしを付けて、それによって自分の目で見ることだけではなくて、神の掟を通して見ることを意識したのかも知れません。

ヒンドゥー教の眉間のしるしは聖書のこの箇所の影響を受けたのかも知れません。家の入り口の柱と町の門のも何らかのしるしを付けて神の掟を思い起こすようにしたと思われます。

3、相続

命令の次は約束で、そのように全身全霊を尽くして神を愛し、神の掟を守り行う者には、どのような祝福が与えられるのでしょうか。その約束が10、11節にあります。「あなたの神、主が、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地にあなたを導き入れ」ます。神の約束の地に導き入れられます。

そしてそこにあるものは、「あなたが築いたのではない大きくてすばらしい町、あなたが満たしたのではないあらゆる財産で満ちた家、あなたが掘ったのではない水溜め、あなたが植えたのではないぶどう園やオリーブ畑を得」ます。自分が労したものではない他の人の労働の果実を恵みとして与えられます。

3節で乳と蜜の流れる地とありましたが、それは単に土壌が豊かであるだけではなくて、既に色々なものが備えられています。これまで何も無い荒れ野を歩んで来たイスラエルにとって正にパラダイスです。そのような恵みは私たちにも与えられています。

自分の先祖から直接に遺産の相続のように与えられる人もいますが、先祖とは関係なく先人たちの働きによって多くの恵みを私たちは引き継いでいます。

私たちの茂原教会も神によって先人たちの働きを通して今日の恵みがあることは感謝なことです。神を愛し戒めを守り行う者はこのような恵みを得て、食べて満足します。

4、満足するとき

約束の次はまた命令、注意です。「食べて満足するとき、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出した主を忘れないように注意しなさい。」 これまでのイスラエルは荒れ野の生活で、余り十分に食べて満足することができなかったことでしょう。しかしこれからは、ぶどう園やオリーブ畑で実を得て、またあらゆる財産で色々な物を買えます。

しかし人が失敗を犯し易いのは一見、順調に見えるときです。上り坂の先には真坂という思いがけない坂があります。イスラエルも2:24~3:11で、オグ・シホン・コンビを討ち破って順調なときに主を忘れてベト・ペオルでモアブの娘たちと大きな過ちを犯しました。

満足するとき、主を忘れないように注意しなさいということは、私たちは満足するときに、主を忘れやすいものです。「苦しい時の神頼み」で、私たちは苦しい時には神に必死に祈りより頼み易いものです。しかし恵みをいただいて満たされて満足するときには、主を忘れてしまいがちです。

そしてそのようなアップダウンを繰り返してしまいます。何とかそのような連鎖から抜け出たいものです。13節は、「あなたの神、主を畏れ、主に仕え、その名によって誓いなさい。」と言います。しかし歴史上で最大の知恵者と言われたソロモン王でさえ、そのようなことは実践できませんでした。神から知恵を受けたソロモン王ですが、食べて満足し、外国から多くの妻等を娶り、その影響で他の神々に従ってしまいました。

その結果として14,15節に、「他の神々、あなたの周りにいる民の神々に従ってはならない。あなたの中におられる、あなたの神、主は妬む神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向けて燃え上がり、あなたが地の面から滅ぼされることのないようにしなさい。」とあったにも関わらず、その通りになってしまいます。

知恵者であるソロモン王にできないことは、私たちが、いくら手や額に聖句箱を付けたり、家の入り口の柱や町の門に書き記しても守るのは難しいでしょう。しかし私たちはソロモン王よりも恵まれています。私たちは身体の外に聖句箱を付けるのではなくて、神が律法を私たちの心に書き記してくださいます。そして聖霊が私たちに律法を守り行わせてくださいます。

神は、「神を愛しなさい」と言われますが、まず神が私たちを愛してくださいました。そして私たちの救いのために、お一人子である主イエスを十字架に付けてくださいました。十字架は神の私たちへの愛です。そして神は私たちが神を愛することができるように聖霊によって導いてくださいますので、素直にその導きに従いましょう。私たちが神の愛に応えて神を愛するなら、幸せになり長く生きる道が備えられています。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちが幸せになり、長く生きることができるように、主イエスを十字架に付けられ救いの道を造られました。そして聖霊の力によって律法を成就する者へと私たちを造り変えてくださいますから有難うございます。私たちがあなたの愛に応えてあなたを愛する者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。