「守り行う義」

2022年7月24日説教  
申命記 7章1~5節

        

主の御名を賛美します。先週の月曜日と火曜日に教団の夏季聖会が行われました。サテライトの会場として教会で参加された方もおられますし、自宅から参加された方もおられるかも知れません。私は奉仕もあり会場で参加しました。

最近はオンラインでも参加が出来るものが多く、会場に行く手間が省けるので、ついそちらを選びがちでした。聖会は自分を聖別する機会ですので、一人で参加しても良いのですが、自分を聖別したことを人々の中で実践するという意味では人の集まりに参加することも意味のあることだと思います。ただ今は難しい状況にあります。

1、滅ぼし尽くす

モーセは今、4:44から始まった第二の説教の途中ですが、内容は4:40の第一の説教の結論を繰り返し告げています。同じような話を繰り返しながら少しづつ内容を深めて行っています。螺旋階段条に上に上っているとも言えますし、下に深堀しているとも言えます。

モーセは、6:18b、19の言葉を深堀します。18b、19節には4つの約束があり、幸せになり、良い地に入り、所有して、敵をあなたの前から追い払う、でした。良い地に導き入れられて入りとは神の民とされることですから、今日の内容もクリスチャンになった後の内容になります。

6:18b、19ではまだ将来の約束でしたが、7:1では、主が、あなたが入って所有する地にあなたを導き入れて、あなたの前から追い払うとき、と前提条件になっていて当然に起こることとなっています。神の言は出来事となります。

しかし入って所有する地には七つの国民、先住民がいます。几帳面な私たちは、そうか入って行く地には七つの先住民族がいるのかと思います。しかし聖書の他の個所を見ると、民族の数は10と書いてあったり、6民族と書いてあるのが10回と多くなっています。

そうしますとここの個所は正確な民族の数を書いているというよりも、七つの国民という数字の意味が強いと思われます。七つという完全数を使って、それは多くの国民、すなわち、あなたより数が多くて力の強い完全な国民という意味なのでしょう。

しかしそのような数が多くて力の強い完全な国民を、主があなたの前から追い払うとき、と言って、約束を越えて前提条件になっています。敵を追い払うときには、どのような手続きがあるのでしょうか。第一段階として、あなたの神、主が彼らをあなたに渡します。そして次にあなたが彼らを討ちます。

勿論、全能の神はイスラエルの手を借りる必要はありません。しかしイスラエルが神の命令に従って実際に自分で行うことも大切です。

ヨシュア記1:3に、「あなたがたの足の裏が踏む所をことごとくあなたがたに与える」とある通りに神の言葉を実践することによって祝福を得ます。そして主の御約束は必ず出来事になります。そしてそのときに行うべき命令がこの後に続きます。

それは一言で言うと、「必ず彼らを滅ぼし尽くさなければならない」です。原語ではシンプルに、「必ず彼らを滅ぼし尽くせ」です。このときのイスラエルにとってこの命令は、この文字通りの意味です。少し先住民が可哀そうな気もしますが、それは現代を生きる私たちにとってはどのような意味があるのでしょうか。

先日、あるクリスチャンでない人と話をする機会がありました。その人はすべての宗教に反対の意見を持っていました。その人が宗教に反対する理由は、宗教を持っている人は他の宗教の人と戦争をするのが理解できないからだと言っていました。理解が不十分なところもあると思いますが、一般の人が宗教全般に持っているイメージだと思います。

歴史的には中世にキリスト教の国がエルサレムをイスラム教の国から奪還するために戦った十字軍が有名です。また20世紀でも英国に対して攻撃を行ったアイルランドのテロ組織であるIRA等が有名です。英国の聖公会は一応プロテスタントに入っていますので、アイルランドのカトリックとの宗教戦争とも言われました。

どの宗教でも大多数の真面目な人は平和を求めますので、宗教が違うからといって戦争をするような愚かなことはしません。しかしどの宗教でもその宗教の内容を良く理解していない人は、「敵を滅ぼし尽くせ」のような言葉を拡大解釈して戦争を正当化します。

また政治家は戦争を正当化するための大義名分として、宗教を利用します。しかし戦争に宗教を利用する人は宗教を良く理解していませんし、宗教で扇動される人も理解していません。ここで滅ぼし尽くせと言われている、彼らとは何を指しているのでしょうか。

直接的には七つの国民ですが、七つの国民はなぜ滅ぼし尽くす必要があるのでしょうか。人種が違うからでしょうか。宗教が違うからでしょうか。そうではありません。これらの諸国民が悪かったからです(9:4)。つまりここで滅ぼし尽くせと言われているのは悪、罪であり、それは自分も持っている悪、罪です。滅ぼし尽くすべきは悪、罪であって他人ではありません。

2、3つの命令

「悪を滅ぼし尽くせ」の命令をその通りに行うのであれば、この後の3つの命令は必要ありませんが、色々な誘惑がありますのでモーセは説明をします。一つ目は、「彼らと契約を結んではならない」です。悪との契約というとどのようなことを思い浮かべるでしょうか。

マタイ4:9の荒れ野の誘惑で、悪魔は主イエスに世のすべての国々とその栄華を見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう」と契約を持ち出しました。ここの聖句から、「悪魔に魂を売る」という表現ができたようです。

私たちも主イエスと同じように、一見、この世的には魅力的に見えますが、悪魔に魂を売る契約のような誘惑に遭うことがありますので注意が必要です。

二つ目は、「彼らを憐れんではならない」です。ヨシュア記9章では、イスラエルの近くに住むギブオン人がイスラエルを恐れて、ぼろぼろの服を纏って自分たちは遠くから来たと嘘をついて、イスラエルの憐れみを請うて契約を結んで生き延びました。悪は憐れみを含めてあらゆる手段を用いて私たちに取り入ろうしますので要注意です。

三つ目は、「彼らと婚姻関係を結んではならない」です。婚姻関係を結ぶ一つの理由は、異教人がエキゾチックで魅力的に見えるからです。悪は人間の肉的な欲求に答えるものですので、一見、魅力的に見えます。しかし箴言20:17は、「偽って取ったパンはうまいが 後には口が砂利で満たされる」と言います。

悪と婚姻関係を結んではなりません。聖書で婚姻関係は神と人との関係に譬えられて、神への不従順は姦淫と言われます。「あなたの娘を悪の息子に嫁がせたり、その悪の娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない」ものです。

あなたの子どもである娘、息子は悪と婚姻関係を結ぶなと言っているのですから、あなた自身が悪と婚姻関係を結ばないのは当然のことです。しかし申命記の内容を知っているはずの知恵者ソロモン王も悪の象徴である多くの異教人を妻や側室として娶り失敗を犯しました。

3、滅ぼし尽くさないと

そのように悪を滅ぼし尽くさず、契約を結んだり、憐れんだり、婚姻関係を結ぶとどういう結果になるのでしょうか。それはあなたの息子を私、神から引き離すことになり、彼らは他の神々に仕えるようになります。そうすれば、主の怒りがあなたがたに、娘、息子だけではなくてすべての人に向かって燃え上がり、たちまちあなたを滅ぼすことになります。

そうはならないように、あなたあがたが行わなければならないことは、彼らの祭壇を壊し、石柱を砕き、アシェラ像を切り倒し、彫像を火で焼くことです。この後も、祭壇、石柱、アシェラ像、彫像を取り除く命令が繰り返されます。これらは偶像礼拝の象徴ですが、アシェラは女神で豊穣を願う性的な傾向を持っていました。

列王記上18:19で、エリヤがカルメル山でバアルの預言者と対決する時に、アシェラの預言者も4百人集められましたのでアシェラの礼拝がいかに広まっていたかが分かります。この時のイスラエルもオグ・シホン・コンビを討ち破って順調なときに、ベト・ペオルでモアブの娘たちと淫らなことをして失敗しました。

このような問題は今から3千年前のこのときにもありましたし、今もあります。主はそのような問題を引き起こすものは取り除きなさいと命じられます。

ここの御言を読むと、自分が他の宗教の人と結婚することや、自分の子どもが他の宗教の人と結婚することを気にされるかも知れません。

しかしここの聖書箇所は悪と婚姻関係を結んではならないと言っているのであって、他の宗教の人と結婚することについて言っているのではないことを正しく理解する必要があります。確かに同じクリスチャンの方が安心できる部分もあるかも知れません。

またこの箇所は他の宗教の祭壇、石柱、偶像、彫像を破壊せよと命令しているのでもありません。ただあなたに悪い影響を与えるものを取り除きなさいと言っています。

4、守り行う義

先週は、私たちが救われて義とされ、新生するのは行いによるのではなくて、主イエスを信じる信仰のみによることをお話しました。そして、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』ということはできません」(Ⅰコリント12:3)ので、新生の義は聖霊の働きです。

そして私たちは救われて義とされて、それで終わりではありません。その後には主の戒めを守り行う義、聖化の義があります。それは天に宝を積む義と言えるでしょう。しかし聖化の義も自分の思いで行うものではありません。

ローマ7:15は、「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。」と言います。聖化の義も聖霊の働きです。私たちは聖化の義を求めて教団聖会に参加したりしますが、聖会とはどういうものなのでしょうか。

レビ記23:3は、「六日間労働し、七日目は完全な安息の日として、聖なる集会、聖会を開きなさい。」と言います。聖会の基本は毎週日曜日に行われる主日礼拝です。教団聖会や千葉聖会等は特別な聖会ですので、どちらも大切なものです。

神は私たちに聖会を行うように命じられ、新生の義、それに続く聖化の義に与ることができるように、私たちの身代わりとして主イエスを十字架に付けられ、聖霊に私たちに遣わしてくださいます。この恵みを感謝して新生の義、聖化の義に与らせていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちを妬むほどに愛し、私たちを救うために主イエスを十字架につけられました。私たちが聖会を通してその恵みを知り、あなたの愛に応え、新生の義、聖化の義に与らせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。