「聖霊による新しい命」 

2022年7月3日説教 
ヨハネによる福音書 3章1~8節                                                   野田栄美

  • はじめに

最近、我が家のベランダで、芋虫がさなぎになり、そしえ羽化して蝶になったのを見ました。芋虫は、見ていてあまり気持ちの良いものではありません。けれども、育ってさなぎになり、そのさなぎから羽化した蝶は、芋虫からは想像もできないきれいな色の蝶になり、空を飛んでいきました。

新しい命が生まれるのは、とても神秘的です。どうやってあの芋虫が美しい蝶になるのでしょうか。神の造られるものは、不思議と美しさで満ちています。今日は、私たちの中に与えられる、新しい命について、聖書から聴いていきましょう。

  • 失敗を記す聖書

 聖書は、イスラエルという国の歴史書としても読むことができますが、一般的な歴史書とは大きく違う点があります。それは、歴代の王やリーダーの失敗を堂々と記載していることです。本来なら一国の上に立つ人のことは、良いところは表に出しても、失敗については表沙汰にせず隠すものです。現代でも政治家の不祥事でもあれば、それを隠すために、周りにいる秘書などがその責任を被ることが当たり前のようになっています。けれども、聖書では正反対で、リーダーの失敗を隠す様子がありません。それは、なぜでしょうか。

今日、お読みした聖書には、ニコデモという人が主イエスとお会いした時のことが書かれています。この話の直前の2:23、24には、「イエスがエルサレムにおられたとき。そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスを信じた。しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。」とありますが、ニコデモは、その「イエスに信用されない人」の代表として、ここで取り上げられています。

5月のメッセージでお話したように、弟子たちをはじめ、奇跡を見て主イエスを信じた人たちは、主イエスが政治的なリーダーになって、イスラエルを再興する人だと思っていました。そのような人たちは、一向に政治的な働きをしない主イエスに幻滅し、主イエスが十字架にかかられる時に一人残らず彼を捨てていきました。そのような彼らの心の中をご存知だった主イエスは、彼らを信用されておられませんでした。

主イエスが政治的なリーダーになるという人々の考えは、その頃大きな影響力のあったファリサイ派の教えの影響でした。この頃のファリサイ派は、自分を清く保つように行動することにより、政治的に神の国であるイスラエルが復興されると考えていました。つまり、人の行動が国を救うと考える宗派でした。勿論、この時のニコデモもファリサイ派の教師ですから、主イエスを政治的な救い主だと考えていました。

私は、一日に三度神殿に行き祈りをお献げている。十分の一の献金を穀物に至るまで細かく、厳密に献げている。汚れた物に触れた時には、清めの水で全身を清めていると、彼は考えていました。そして、熱心に律法を学び、そして、教師としてそれを人々に教えていました。更に、ニコデモは、それに加えて、ユダヤの指導者であったとありますから、サンヘドリンと呼ばれる70人の代表から成るユダヤ人議会の議員でした。国のトップ集団に君臨していた人です。

  • 主イエスの答え

今日の聖書の場面では、ニコデモは、地方都市出身の一介の若者である主イエスに会いたいと思い、人目を避け、夜の闇に隠れて、主イエスのところへ出向きました。2節では、「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がおられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことができないからです。」と言っています。ニコデモは、主イエスが多くの人を癒やしたり、奇跡を起こされたのを見て、これはただ者ではない、神から送られた人だと信じたことが分かります。

 けれども、主イエスの返事は、予想外のものでした。「よくよく言っておく。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節) ニコデモの挨拶に対する答えになっていないような返答です。しかし、「何が人の心の中にあるかをよく知っておられる」(ヨハネ2:24)主イエスは、ニコデモの言葉に対してではなく、彼の心の中の質問に直接答えられました。それは、ファリサイ派において、議論になっていた一つの疑問です。それは、どのようにしたら永遠の命を得て、神の国を見ることができるかというものでした。

  • 新しく生まれる

 主イエスは、「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節) よく聞きなさい、とても大切な真理を話すよ。人は、自分の行いでは救われない。今、見ている世界でいくら功績を積んでも、神の国に入るための永遠の命を得ることはできないよ。新たに生まれなければならないんだと、答えてくださいました。

 でも、新たに生まれるとはどういうことでしょう。ニコデモは、何のことか分からず「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」(4節)と返事をしました。ニコデモは年を取っていたと考えられていますので、自分が永遠の命を得ることはできないのかと、慌てたのでしょうか。このニコデモの反応は、滑稽なほど慌てる十二弟子のペトロに似ているように感じます。

 主イエスは、更に続けました。「驚かなくてもいいよ、新たに生まれるとは、もう一度肉体的に生まれ直すことではなく、聖霊によって生まれることを言っている。聖霊によって新たに生まれた者は神の国に入ることができるよ。」(5、6節) 神の国を政治的に理解しているファリサイ派の人にとっては、聖霊によって生まれるとは何のことか、また、新しく生まれることと国の復興はどんな関係があるのかと、理解できないことばかりでした。

  • 聖霊の働き

 では、主イエスがおっしゃっている「新しい命」とは、どのようなものでしょうか。それは、水と霊という言葉が表している聖霊によって生まれる霊の命です。聖霊は神ですから、神の子としての命です。勿論、神の国に入ることができます。これは、天国の国籍を持つ命だと言い換えることもできます。また、その命は、永遠に続く霊の命で、肉体のようにいつか朽ちることはありません。罪に汚されることもない命です。

 それは、どのように生まれるのでしょうか。それは、神の霊である聖霊によってです。聖霊の働きは目には見えませんし、新しい命が生まれる時も、どうやってそれが生まれるかも分かりません。8節には、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」とあります。

 聖霊は神ですから、私たちがコントロールすることはできません。いつ風が吹くのかは、父なる神のみが定められます。神だけがご存知です。いつ、どうやって、どのように生まれるのかは、私たちには分かりません。この事実こそが、私たちを自由にします。

  • 新しい命に生きる

 聖霊から新しい命をいただいた人たちは、その命が自分の行動によって得られたのではなく、聖霊が与えて下さったことを知っていますから、人の行動を見るのではなく、神が何をしてくださったかに目を向けます。そこに神が働いておられることに感謝します。そして、神のみ業を喜びます。そのような生き方をする人たちは、主イエスが神の子であると告白し、主イエスから離れません。それは、聖霊によって、神の愛が注がれているからです(ローマ5:5)。

そのは、蝶が風にのって空高く飛んでいく姿に似ています。地を這うことしかできない芋虫は、罪に縛られ、罪の上を這っている肉に生きている人間です。聖霊は、私たちを新しく生まれさせてくださり、ご自身の風によって、新しい魂を自由に蝶のように舞わせてくださる方です。

  • 行動を見る生き方

私は忘れっぽい方なので、最近、その日にやることを朝に、まとめて書いておくようにしました。すると、スケジュール帳に、どんどんやったことが残っていくので、達成感も味わうことができます。けれども、いつの間にか、何かをこなすことに心が向いていき、これをした、あれもしたと、自分が何かをやったことで自分が頑張っていると思うようになっていました。これでは、新しい命をいただいた者の生き方から、迷い出てしまっていると気が付きました。

私たちは毎日、この世で生きるために働きます。やらなければならないことを、一生懸命にやることは大切なことです。けれども、自分が何をしたか、自分は正しいことをしているかということに心を奪われていくと、この世で何かを成し遂げることを目指す生き方になっていきます。それは、まるで、ファリサイ派の人たちが、自分たちの行動で、政治的な神の国を復興しようとしたのと同じです。

 そして、そのような思いは、行動を測る物差しを作り上げます。そして、その測りで、人の行動を測り、時には人を非難するようになります。ファリサイ派の人たちは、いつも主イエスの行動が律法に反していないか監視していましたし、弟子たちの行動を批判していました。これは、聖書で言われる「肉に生きる」という生き方です。

ニコデモは、ヨハネの福音書でこの後2回登場します。1つは、サンヘドリン議会で主イエスを弁護する場面(7:51)、そして、主イエスが十字架で亡くなられた後、その遺体を引き取ったアリマタヤ出身のヨセフのところへ、何百万もする没薬などを持って行って、一緒にご遺体を安置した場面です(19:39、40)。彼は主イエスを信じるように変えられていったことが分かります。

そして、この福音書の著者ヨハネに、彼がこの主イエスとの会話を伝えたこと、そして、それを福音書に記すことを許したことからも分かります。彼は、あれほどの地位や名誉を得ていたのに、自分を誇る人ではなく、自分の愚かさを公にしてでも、主イエスの真実を人に伝えたいと願う者に変えられました。

  私たちも、もう一度、自分を振り返ってみましょう。自分がしてきたことや手に入れたことを誇ってはいないでしょうか。そうではなく、神からいただいた恵みを誇りましょう。ただ、聖霊の風が吹いて、私たちを新しく生まれさせてくださったことに感謝しましょう。また、新しい命をいただきたいという方がいらっしゃったら、何もする必要はありません。自分はふさわしくないと思う必要もありません。ただ、神に願ってください。求めるところには必ず、聖霊の風が吹きます。神の時はいつなのか分かりませんが、一番善いときにその風は吹いてきます。私たちは祈りつつ希望を持ってその時を待ちましょう。