「義の冠」

2022年9月11日説教  
テモテへの手紙 4章1~8節

        

主の御名を賛美します。

1、御言葉を述べ伝える

この手紙は1:1、2の挨拶にあるように、使徒パウロから信仰による愛する子であるテモテに宛てたものです。テモテはパウロの第二次宣教旅行で同労者に選ばれてからの協力者です。パウロは62歳位で生涯を閉じたと考えられていて、この時にテモテは30代と考えられていますので、約30歳の年の差があります。

パウロは殉教を目前に控えての最後の手紙のその終りに、愛する子であるテモテに大切なことを伝えます。それは、今、講解説教で聴いている申命記で死を目前に控えたモーセが愛するイスラエルに語っている言葉のようです。

それは「神の前で、そして生きている者と死んだ者とを裁かれるキリスト・イエスの前で」です。キリスト・イエスの出現である再臨と、その時に完成する御国とに思いをはせながら、パウロは厳かに命じます。

その命令とは、「御言葉を述べ伝えなさい」です。しかしそれはあくまでも使徒パウロの宣教者テモテへの命令ですよねと感じられるかも知れません。狭い意味でのこの時の直接の意味は確かにそうです。しかし聖書の御言葉はすべての人に対して、また特にすべてのクリスチャンに対する言葉です。

この後のことは、一つ一つの命令とも考えられますが、「御言葉を述べ伝えなさい」という命令の説明と考えられます。一つ目は御言葉を述べ伝える「時」のことです。時がよい時と悪い時があります。キリスト教の映画や有名なクリスチャン等が話題になっている時はよい時でしょうか。皆が興味を持って聞いてもらい易いので伝え易いものです。

逆に今のように、世間一般ではキリスト教の一派と思われている団体の問題がニュースになっている時は、同じ仲間と思われて悪い印象をもたれたり、コロナウィルスの感染が拡大している時はなるべく接触を避けるようにするとの考えもありますので、悪い時でしょうか。

しかしどんな時にも、それは例え興味を持ってもらえても、もらえなくても、聞いてくれても、くれなくても、今は兎に角、御言葉を述べ伝え続けなさいと命じます。

二つ目は御言葉を述べ伝える「姿勢」についてです。それは忍耐と教えを尽くしてです。御言葉を述べ伝えて、直ぐに受け入れてもらえることは稀なことです。受け入れてもらえなくても、忍耐を尽くして教えを尽くして、続ける必要があります。

そして三つ目に御言葉を述べ伝えるとは具体的にどのようなことをすることなのでしょうか。「とがめ、戒め、勧め」ることです。それは具体的には、2:25のように行うことです。聖書に書いてあることと異なる言動を行う反対する者に対して、柔和な心で教え導き、とがめ、戒め、悔い改めを勧めます。

2、健全な教えを聞かない

先程、パウロは今は兎に角、御言葉を述べ伝え続けなさいと命じていると言いました。しかし時が悪い時には、御言葉を述べ伝え続けるのは効率が悪いので少し休んで、時が良くなるのを待っても良いのではないかとも思われるかも知れません。しかしそのようにはしないのはなぜでしょうか。

それは、誰も健全な教えを聞こうとしない時が来るからです。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集めます。この時に既にそのことは起こっていました。具体的な細かい内容は分かりませんが、Ⅰテモテ1:3、4でも、「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように命じなさい」と異端に警戒するように言っています。

現代でも同じようなことが続いています。聖書の教える健全な教えは聞こうとしないで、自分の興味や好奇心を満足させたり、自分にとって都合の良いことを話す教師の話を寄せ集めます。現代はインターネット等の発達により、自分の家にいながら全世界の教師の話を聞くことが出来ます。

とても便利になった反面、もしかすると不健全な教えの方が多いのではないかと思われる程に大量の不健全な教えが出回っています。不健全な教えの団体のやり方はとても巧妙でネット等のこの世の技術のレベルはとても高く人々の興味を引き易いものです。

また聖書に書いていないことを言うので、人々の好奇心に訴える部分もあるようです。しかしその実態は3:1~7のようです。またそのような不健全な教えのことを良く分からないで、面白いと思って不健全な教えを他の人に広める人もいますので注意が必要です。

しかし聖書の言葉に付け加えてはならない、と聖書ははっきりと言っていますので、それらは明らかな異端です。そのようにして、真理から耳を背け、作り話へとそれて行くようになります。3:13にある通りです。これは二千年前のこの時にもあり、今も続いていることです。

3、4つの命令

周りはそのようになって行きますが、パウロは、しかしあなた、テモテには4つのことを命じます。4つのことと言っても、これは初めの、「御言葉を述べ伝える」ことの説明とも言えます。一つ目は、「何事にも身を慎み」です。御言葉を述べ伝えることは、自分の述べ伝える御言葉にまず自分自身が従って、何事にも身を慎み、変わったことを言う異端に惑わされないことです。

二つ目は、「苦しみに耐え」です。御言葉を述べ伝える者は、パウロもテモテも皆苦しみに遭います。それは3:12にある通りです。しかしどうして耐えられるのでしょうか。それは3:11にあるように、主が助け出してくださることを知っているので、自分の力で苦しみに耐えるのではなく、神の力によって耐えます。

三つ目は、「福音宣教者の働きをなし」です。御言葉を述べ伝える者は、異端の偽教師が教えるような、人々に耳触りのよい、人が考えた教えではありません。御言葉を述べ伝える者が伝えるのはあくまで福音であり、主イエスの十字架による救いです。四つ目は、「自分の務めを全うしなさい」です。御言葉を述べ伝える者は、自分の務めを全うすることに全力を注ぎます。2週間前に創世記16章から御言葉を聴かせていただきましたが、主の使いはハガルに対して、「どこへ行こうとしているのか」と問うた後に、「女主人のもとでへりくだって仕えなさい」と命じました。

聖書がわたしたちに教える「あした」は、何をするかといったような行いではありません。まずそれぞれが置かれた場所でへりくだって仕え、自分の務めを全うする存在になることです。そのような神に従う存在になった時に初めて、何をすれば良いか進むべき御心は示されるものです。自分の務めを全うしていない者には、進む「あした」は示されません。

4、義の冠

テモテに遺言ともいうべき言葉を記したパウロは自分のことについて伝えます。現在、過去、未来の順で書いています。現在のこととして、私、パウロ自身は、すでにいけにえとして献げられています。「いけにえとして献げられている」という言葉は、「献げものとして自分の血が注がれる」ことで、新改訳は、「私はすでに注ぎのささげものとなっています」と訳しています。

そして「世を去るべき時が来ています」と言います。パウロのように御言葉を述べ伝え、自分の務めを全うしている者には、自分の置かれている時、そして進んで行く、「あした」が示されているのでしょう。

パウロは、創世記16:8の問いの、「どこから来て、どこへ行こうとしているのか」の「どこから来て」について、「私は、闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と3つの完了形を使って答えます。

これはこの当時の読者に良く分かるように、古代オリンピックのようなギリシャ・ローマの競技会の様子に例えた表現のようです。パウロはⅠコリント9:26で、「空を打つような拳闘もしません」とボクシングに例えた表現も使います。ただここでパウロが言う闘いは、エフェソ6:10~に書かれている神の武具を着けた霊の闘いのことを言っています。

走るべき道のりは、マラソン等のような決められたコース、道のりを指します。ただこの道のりはすべての人が同じコースを走るのではなくて、一人一人に合った道のりを神が与えられます。そして闘いを闘い抜き、走るべき道のりを走り終えたということは、信仰を守り通したことです。

逆に言えば、信仰を守り通したからこそ、闘いを闘い抜き、走るべき道のりを走り終えることが出来たと言えます。パウロはこの時に62歳位と考えられています。今日は敬老祝福式がありますが、皆が同じことを言えるようでありたいと思います。どのようにしたらそのようになれるのでしょうか。

3:16、17に答えがありました。聖書は神の霊感を受けて書かれたものですので、聖霊によって聖書の霊的な意味を読み、聖霊の力によって生きる、神に仕える人となることです。神に仕える人になることによって、どのような善い行いもできるように、十分に整えられるのです。私たちは「あした」に向かって何をすれば良いかと考えることがあります。順番は、まず神に仕える人になることです。神に仕える人にならなければ、何をしても善い行いはできません。何をするかといった行いが先ではありません。あくまでも神に仕える人になることです。

神に仕える人になる時に、初めて進む「あした」は示されます。神に仕えていない状態で、何をしたら良いかと考えても、何をしてを良い行いとはなりませんので、無駄になってしまいます。

神に仕えるパウロは、「どこへ行こうとしているのか」です。パウロは、「今や、義の冠が私を待っているばかりです」と言います。これも当時の競技会では勝利者に月桂樹の冠が与えられることに例えたものです。競技者の皆が求めるものです。

この義の冠とは一体、どのようなものなのでしょうか。色々な説があって、はっきりとしたことは分かりません。ある節は、完成した完全なる義としての冠であると言います。またある説では、義の冠はこの世の行いへの報いとしての象徴と言います。はっきりとしたことは分かりませんが、私たちの想像を超えた素晴らしいものであるに違いありません。

そして、かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるでしょう。この世の審判者は例え悪意がなくても、ミスによって間違った審判を行ってしまうことがあります。悪意があればなおさらです。パウロはこの後に、皇帝ネロによって処刑されます。

しかし、かの日には、全知全能である正しい主が審判してくださいます。神に仕える正しいパウロにとっては大きな喜びです。そして義の冠はパウロだけではなく、主が現れるのを心から待ち望むすべての人に授けてくださいます。どのようなものであるのかは分かりませんが大きな楽しみです。本当に後の楽しみです。

私たちに義の冠を授けられるために、主イエスは茨の冠を載せられました。それは別の意味で義の冠であったと言えます。感謝をいたしましょう。もしかすると私たちも、主イエスのように、この世で茨の冠を載せられることもあるかも知れません。しかし主は助け出してくださいます。義の冠を楽しみに、神に仕える人として歩ませていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。走るべき道のりを走り終えようとしているパウロは、愛する信仰の子であるテモテに、最後に「御言葉を述べ伝えなさい」と命じられました。そのような中で、私たちも時に何をしたら良いのだろうかという思いになります。

しかしあなたは、まず神に仕える人になり、自分の務めを全うしなさいと言われます。そうした時に初めて進むべき、「あした」は示されると言われます。そして神に仕える人には義の冠を約束してくださいますから有難うございます。どうぞ私たちの歩みをお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。