「心の割礼」
2023年1月22日説教
申命記 10章12~22節
主の御名を賛美します。昨日は一致祈祷の集いが行われ、ズームによる難しさもありましたが、主の守りと皆さまのお祈りと奉仕に支えられ、何とか会場担当教会としての役割を果たせたことを感謝いたします。今日の聖書箇所の内容は昨日の集会のテキストの内容とよく似ていると思います。
本当に私たちは弱く自己中心に陥り易く、弱い立場にいる人に対する思い遣りの欠けた者であることを痛感させられます。私たちがどのように考え、どのように歩んで行けば良いのか、御言葉を聴かせていただきましょう。
1、幸せになること
モーセはこれまでの荒れ野での40年を振り返って、イスラエルのこれまでの大きな罪である、カデシュ・バルネア事件や金の子牛事件を繰り返し語りました。カデシュ・バルネア事件の裁きの結果として、その時に20歳以上だった人たちはヨシュアとカレブを除いて全員荒れ野で滅びます。金の子牛事件では3千人の犠牲者を出しましたが、モーセの執り成しによってイスラエルは滅びを免れました。
イスラエルはこれから神の約束のカナンの地に入る新しいステージに入って行きますが、それにあたってモーセは、「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。」と問います。私たちは将来のことを考える時に良く、「自分は何をしようか。何をすべきか。」と問いがちです。このような問いは一見、モーセの問いと似ているようで実は全く異なるものです。
「何をしようか。何をすべきか。」という問いは、周りの状況等も見ているかも知れませんが、主体が自分にあって、自分の考えが中心です。しかしモーセの問いは、「主が求めておられることは何か。」であって、主体は自分ではなく主です。
神がイスラエルに求めておられることは5つのことです。①あなたの神、主を畏れること、②主の道をいつも歩むこと、③主を愛すること、④あなたの神、主に心を尽くし、魂を尽くして仕えること、⑤私が今日あなたに命じる主の戒めと掟を守ること、です。
初めになぜ神を畏れるのでしょうか。それは、天も、天の天も、地とそこにあるすべてのものも、あなたの神、主のものです。なぜかというと神がすべてのものを造られたのですから、すべてのものは創造者である神のものです。すべてを造られた神、主は神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神です。畏るべき神なのですから、その神の戒めと掟を守ることは当然のことです。
ここでは5つのことと言ってもこれらは全て同じことです。元旦礼拝で聴きましたヨハネ14:15に、「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。」とあり、愛することと愛する人の戒めを守ることは同じことです。そして神が5つのことを求められる目的は何でしょうか。それはあなたが幸せになることです。これまでも神は色々なことを命じてこられましたが、全ては人々の幸せのためです(8:16等)。これは人間の親が子どもに色々なことを求める目的と全く同じです。
親は子どもに対して色々なことを求めます。人間は不完全ですから、時には親の求めが子どもにとって大き過ぎたり、厳し過ぎたりして負担になってしまうこともあります。親の求めによって親子関係がこじれてしまうこともあります。しかし親が子どもに何かを求める動機は基本的には子どもを愛し、幸せを願ってのことです。親の愛は直ぐには伝わらなくてもいつかは伝わる時が来るものであると思います。
2、心の割礼
ただ、神はイスラエルの先祖にのみ心をかけて愛され、後に続く子孫であるあなたがたを、すべての民の中から今日あるように選ばれました。恵みによって選ばれたイスラエルは何度も罪を犯してもモーセの執り成しによって全員の滅びは免れて来ました。
クリスチャンは主イエスの十字架によって同じく裁きを免れています。だから、あなたがたの心の包皮に割礼を施し、二度とかたくなになってはならないのです。イスラエルは神が契約された神の契約の民として肉体に割礼を施していることを誇りとしていました。
しかし本当に必要なのは肉体の割礼ではなく心の割礼です。ところで心の割礼と言うのはどういうものなのでしょうか。割礼という言葉の意味は、「切り取る、切り捨てる」です。かたくなになっている者は、心を肉の包皮が覆っていて神に対して心を閉ざしています。
かたくなな者はなぜ心を閉ざすのでしょうか。それは恐れがあるからです。恐れがあるので、心を開くと傷付けられると思って、かたくなになって心を閉じて心の包皮を被って自分を守ろうとするのでしょう。
これは本人の責任ではなく、とても不幸なことですが周りから十分に愛されることのない不遇な環境で育った人はとてもかたくなです。それは自分が傷付かないようにするための自己防衛本能でかたくなになっていると思われます。そしていつも恐れているので不安定で、人の関心を引こうとします。
イスラエルのかたくなさも恐れから来ています。なぜイスラエルは恐れてばかりいるのでしょうか。一般論としては、これは全ての人間が誰でも持っている罪の性質であると言えます。しかしイスラエルの特有の理由もあります。それはイスラエルがエジプトで430年間、奴隷であったことです(出エジプト記12:40)。
奴隷としてエジプト人から愛されずに、逆に虐待もされ続けて来たことで、イスラエルはかたくなになりました。そして不満があると神やモーセに対して直ぐにつぶやく、奴隷根性のようなものが身に付いて続いているようです。人は自分がされて来たように他の人にするもので、憐れむべきことですが、虐待をされてきた人は虐待をするようになり易いものです。
イスラエルの最大の失敗である1章のカデシュ・バルネア事件もその原因は恐れです。イスラエルは目には見えない天地を造られた主よりも、目に見える巨人である先住民を恐れて失敗しました。
金の子牛事件も原因は同じ恐れです。モーセが40日40夜いなかったことで民は恐れて偶像の神を求めてしまいました。イスラエルというと神に選ばれた選民という良いイメージがあります。しかし、奴隷根性のために恐れ易いという意味ではイスラエルは最も救いを必要としていた民族と言えます。
クリスチャンはなぜ選ばれて救われるのでしょうか。誤解を恐れずに言えば、それはイスラエルと同じで最も救いを必要とする罪人の頭だからではないでしょうか。人は例えどんなに不遇な環境で育ったとしても、畏るべき全能の神を本当に知るなら、人間よりも遥かに大きな神の愛を受けて恐れから解放されます。恐れから解放される唯一の方法は神の愛を知ることです。
私たちは聖霊によって心に割礼を施していただいて、心の包皮を切り取っていただいて、心を主に開きましょう。そして二度とかたくなにならないためにはどうしたら良いのでしょうか。それはまず過去の罪を悔い改めることです。モーセが繰り返し何度もカデシュ・バルネア事件や金の子牛事件を語るのは、イスラエルがそのことをきちんと悔い改めるためです。心の割礼の証、しるしは悔い改めです。
3、畏るべき神
天地の創造者である畏るべき神は、どのようなことはされず、どのようなことをされるのでしょうか。偏り見ることも、賄賂を取ることもありません。公正であるということです。そしてむしろその逆のことをされます。
孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方です。社会的に弱い立場の人たちを守ります。ここでは寄留者が3回使われて強調されています。イスラエル自身がエジプトでかつて寄留者として辛い思いをして来ました。しかし人間は自分の嫌な過去の思い出は忘れてしまい易いものです。私自身もかつて英国で寄留者でした。
海外でクリスチャンになる日本人の数は、日本国内でクリスチャンになる数とほぼ同じと言われます。人数の割合から言うと、海外でクリスチャンになる日本人の割合は日本国内より圧倒的に高くなっています。私自身もそうでした。その理由は海外で寄留者となりますと、今は少し事情が違いますが、以前は日本国内と全く切り離されて、言葉も上手く通じない中で本当に孤独を感じます。
そのような環境の中で教会に行ったりクリスチャンに出会うと、異国での同胞意識もあって、本当に何から何まで親身に世話をしてくれるクリスチャンが多くいます。使徒言行録18:2、3で使徒パウロはアキラとプリスキラ夫妻に出会って彼らの家に住み込んで一緒にテント造りの仕事をしました。
私たち夫婦にも30年以上前からずっとお世話になっているパウロにとってのアキラとプリスキラ夫妻のような夫婦がいます。私はその奥さんが日本に帰国した時に、ロンドンの家で一か月以上ご主人と一緒に住まわせていただいたこともあります。私もパンと衣服も与えられました。
当時の私は仕事をしておらず、私に何かをしてくれても見返りは期待出来ない状態でした。しかしその夫婦に限らず多くのクリスチャン、そして牧師は見返り等を考えずにとても親身に世話をしてくれました。その時に、これが神を信じる人たちの生き方であることを知った時に、私も神を信じて同じ生き方をしたいと思いました。
神が弱い立場の人を守られるのですから、クリスチャンがそれに倣うのは当然のことです。これは神がなされることですが、それにはどのような意味があるのでしょうか。第一に、弱い立場の人を守らなければ、生活が苦しくなり、かたくなになって心の包皮を厚くして神に心を閉ざしてしまいます。隣人を愛し守ることは主イエスが教えられた大切な戒めであると同時に伝道の第一歩です。
第二に、神が求めておられることは幸せになることでしたが、それは全ての人が幸せになることです。弱い立場の人たちを切り捨てて、見て見ぬふりをして、自分たちさえ良ければそれで良いというのは本当の幸せではありませんし、本当の幸福感は味わえません。
ただ恐れに捕らわれているかたくなな人は、神の言葉よりも恐れによる自分の妄想に縛られています。そして孤児と寡婦の権利を守って、寄留者の世話等をしていたら自分たちの生活が成り立たなくなってしまうという妄想を言い広めます。このことは現代でも全く同じです。
自国ファーストであって自分たちの国にとって都合の良いことだけをして、他の国の人のことなどは「我、関せず」ということを、キリスト教の国と言われる国でも堂々と主張し支持される時代となりました。人間はとても罪深いものです。恐れは人の罪の感情にとても強く訴えるものです。
とても難しいことに、かたくなな人が訴えることというのは全くの嘘ではなく事実も一部含まれています。自国ファーストの主張をする人たちが、他の人のこと等を構っていたら自分たちが困ることになるということにはこの世のことだけを見ていると説得力もあります。
他の人の世話をするならば自分たちの生活で犠牲にする部分も出て来ることでしょう。しかしそれが神の御心であり、御心を行うところには全能の神が祝福してくださるということには目が向きません。心に包皮を被せて、恐れに捕らわれた状態ではいくら考えても真実は見えません。
カデシュ・バルネア事件で12人の偵察隊の内の10人が主張した、神の約束の地であるカナンには巨人の先住民がいるというのは事実です。しかし全知全能の神が共におられて、上って行けと命令されておられるにも関わらず、恐れに捕らわれたイスラエルは神に反抗しました。
金の子牛事件でもモーセが40日40夜帰って来なかったことは事実です。モーセが帰って来ないことで、リーダーがいなくなったと恐れた人々は偶像の神を作ることをアロンに求めました。現代でも心に包皮を被せた状態で恐れに捕らわれた人は、かたくなになって小さな事実に基づいた大きな恐れの妄想を口にします。
そして恐れの妄想は、カデシュ・バルネア事件や金の子牛事件のように、あっと言う間に罪深い人々の心に広まって行きます。そして人々を神の御心とは正反対の方向に簡単に引きずって行ってしまい、人々に罪を犯させます。このことは3千年以上前のこの時にも、また現代でも起こっていることです。どのように対応をしたら良いのでしょうか。
4、主の名による誓い
モーセは、「あなたの神、主を畏れ、主に仕えなさい。主に付き従い、その名によって誓いなさい。」と命じます。誓う内容の第一は、「主こそあなたの誉れ、あなたの神、あなたが目にしたこれらの大いなる恐るべきことを行われた方である。」
カデシュ・バルネア事件での巨人の先住民がいたことや金の子牛事件でモーセが暫くいなくなったことは確かに恐れを感じることかも知れません。しかしそのようなことは全知全能の神の力に比べたら比べ物にならない位に小さなことです。畏るべきは、かたくなさによる妄想ではなく、大いなる恐るべきことを行われた方です。
第二は、「あなたの先祖は70人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを空の星のように多くされた。」です。これは創世記15;5で主がアブラハムに約束された通りです。70人でエジプトに下ったイスラエルは今や、民数記26:51で20歳以上の男子だけで約60万人になりました。
これら二つの誓いの言葉は、現代では私たちが毎週、告白している使徒信条の、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」に集約されています。私たちは毎週、この使徒信条を心から告白する中で、主イエスの十字架による贖いを思い起こし、聖霊の働きによって心の包皮に割礼を施していただき、かたくなさから解放していただきます。
人は罪深く弱い者です。クリスチャンになってもこの世的な見方で恐れてしまい、かたくなになって妄想を口にしてしまうことがあるものです。そして他の人々を間違った方向に引きずってしまいます。
そのような時には、先週の個所にありましたように、お互いが祭司として、畏るべきは神のみであり、世的なことではないことを確認して支え合い、罪に陥ることを避ける必要があります。神が人々の心に割礼を施されるのはすべての人が幸せになるためです。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちの幸せを第一に考えて、そのために私たちがあなたを畏れ、愛し、戒めと掟を守ることを命じられます。しかし私たちは見えない全知全能の神よりもこの世の見えるものを恐れてしまう罪深い愚かな者です。
しかし私たちの罪の贖いのためにあなたは御子イエス・キリストを十字架に付けられました。聖霊の働きによって私たちの心に割礼を施してください。そしてこの世のことではなく、あなただけを畏れて歩み、互に支え合い、全ての人が幸せになれますように、お導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。