「通らねばならないところに」

2023年1月8日礼拝説教
ヨハネによる福音書4章1~6節                                                  野田栄美

  • 新しい年

新しい年になって2回目の日曜日です。よいお正月をお過ごしになったでしょうか。2023年はどんな年になるのでしょう。未来を見ることは誰にもできないことです。見えないことで、つい、私たちは不安になったり、心配したりします。更に、今ある状況の問題点を探して、きっと、未来に悪いことが待っていると想像してしまうこともあります。勿論、人生は良いことばかり起きるわけではありません。けれども、神が共にいてくださる人生には、神が用意してくださる恵みがあります。今日は、私たちが通らなければならないところに、神が用意してくださる恵みに目を留めましょう。

  • ファリサイ派を避ける

主イエスは、この時ユダヤ地方にいました。神殿のあるエルサレムがある一帯です。そこでの活動が、人々の中で広まり始めていました。当時、たくさんの弟子を作っていたバプテスマのヨハネよりも多くの弟子を持つようになりました。そこまで、多くの人に影響を与えるようになると、それをよく思わない人たちがいました。ファリサイ派の人々です。

この時代のユダヤ社会は、階級社会でした。祭司の家系に連なるサドカイ派が上流階級でした。富裕層です。その次に力を持っていたのが、ファリサイ派の人々です。サドカイ派には及ばぬものの、経済的にも安定し、人々に影響力を持つ人たちでした。このファリサイ派は、イエスの活動が多くの人々に影響を及ぼし始めたのを見て、恐れを感じました。自分たちの立場が揺るがされるのではないかと考えたからです。

 主イエスは、多くの弟子を持ち、その弟子たちは、人々に洗礼を授けていました。この洗礼は、将来に救いをいただけることを保証するようなバプテスマだったと思われます。これらのことが、ファリサイ派の人々の耳に入りました。そして、主イエスはそのことを知ると、ファリサイ派の人々を避けるために、一度ユダヤを去ってガリラヤ地方へ行かれました。

  •  目的の違い

この移動は、喜びの中での旅ではありません。いわば、敵に追われて退却している道のりです。心が躍るはずもなく、足取りは重いものであったでしょう。また、弟子たちの中には、なぜ、今、ガリラヤへ戻るのか、納得がいかない者もいたかもしれません。やっと、活動が大きくなって来たところなのにと、考えている人もいたかもしれません。

主イエスの活動は、常に、十字架に向かっていました。その時を迎える準備をして、時が来たら十字架にかかることが目的でした。ですから、この世での成功を願っている弟子たちには、理解できないことがたくさんありました。

私たちもこの弟子たちのような思いに、入り込んでしまうことがあります。この世での成功を一番に求めて、神のご計画から離れて行ってしまうことです。

例えば、自分が子どもを持つ親だと考えてみてください。子どものためにお金を稼がなければなりません。育てるためにはお金が必要ですよね。子どもを1人育てるのに、平均で3000万円ほどかかるという試算もあります。勿論、その額はどんな教育を受けさせるかで大きく変わってきますが。いずれにしても、経済的な必要があります。けれども、もし、親がお金を稼ぐことだけに、時間を注いでしまったらどうでしょう。物質的には満たしてあげられますが、「あなたが大切だよ」ということを、伝える時間がなくなってしまいます。愛が置き去りにされてしまいます。

人間は、目に見えることを、大切にすることはできても、目に見えないことを、置き去りにしやすいものです。この時の主イエスの行動は、その目に見えない神の計画に目を留めていたからこそ出た行動でした。

  • サマリヤ

更に、主イエスは、ガリラヤに帰るために、サマリヤを通るとおっしゃいました。これを聞いて弟子たちは、大きな荷物を負ったような気持ちになったでしょう。

当時、ユダヤとガリラヤを行き来するとき、ユダヤ人は、ヨルダン川の渓谷沿いの険しい道を選んで通りました。ユダヤとガリラヤは高地とすれば、ヨルダン川流域は低地です。ヨルダン側沿いの道を行くには、高いところから、低い川まで降りていき、川沿いを進んでから、また、上り坂を登って行かなければなりませんでした。場所によってはその高低差は1000mを超えます。簡単な道のりではありませんでした。

一方、低地に下ることなく高地をそのまま進んでいく道もありました。それが、ユダヤとガリラヤの間にあるサマリヤを通って行く道です。この道は高低差もなく、なだらかな道でした。なぜユダヤ人は、この楽な道を使わなかったのでしょうか。そこには理由がありました。

それは、4:9にあるように「ユダヤ人はサマリヤ人とへ交際していなかったからで」す。ユダヤ人とサマリヤ人は、犬猿の仲でした。元々彼らは1つの民族でした。けれども、歴史の中で、サマリヤ人は宗教的にも人種的にも、他の国の影響を受けました。純粋なユダヤ教から離れてしまった人たちでした。また、歴史的にもサマリヤ人とユダヤ人は敵対した過去を持っています。そのため、両者の溝は、深くなりました。要は、仲が悪かったのです。サマリヤなんて通るもんじゃない、サマリヤ人とは付き合えない、というような思いがありました。

 けれども、この時、主イエスはそのサマリヤを通る道を進まれました。なぜでしょう。余程のことがあったはずです。4節には「しかし、サマリヤを通らねばならなかった」とあります。サマリヤを通りたかったから通ったわけではありません。通らねばならない理由がありました。単純に考えれば、急いでいたからかもしれません。サマリヤを通れば、何日も速くガリラヤへ着くことができます。主イエスと弟子たちは急いでいたのでしょうか。

けれども、この後、主イエスはスカルの町でサマリヤの人たちに願われて2日間、予定外の滞在をしています(4:40)。急いでいるのならこのようなことはできなかったはずです。

 では、急いでいないのなら、何が理由で、サマリヤを通らねばならなかったのでしょうか。マタイ4:1には、主イエスが「霊に導かれて荒れ野に行かれた」と書かれています。神が聖霊を通して主イエスをサマリヤの道へ行くようにと語られたのかもしれません。主イエスは常に、神の御心に従い行動されます。主イエスにしなければならないことがあるとすれば、それは、神のご計画です。

 

  • 神のご計画

神のご計画は、私たちの想像をいつも超えています。それは、神の目的が、この世での成功ではなく、私たちが神の愛を知ることだからです。あなたがどんなに神に愛されているか、どんなに大切にされているかを知らせたい、そのために全てをご計画されているからです。

皆さんが、この地球上のたくさんの国の中で、日本という小さな島国にいることは、神の導きです。その島国の中の、千葉県に導かれ、幾つもある教会の中で、茂原教会に足を踏み入れたこと、これも神の導きです。これは、単なる偶然ではなく、神の支配の中にあることです。そして、一人ひとり、家族や友人、仕事、体調、年齢など、様々な状況の中に置かれています。これらはみな、神が与えられたものです。

その中で、「これは、サマリヤを通るようなものです。針の筵です」と言いたいような辛さを負っておられる方もいらっしゃるかもしれません。そのような思いを持った方は、この後の主イエスに起きたことを見てみましょう。神は、ご計画の中を進む人たちを決して見捨てることはありません。

  • ヤコブ

ここで、主イエスは2つの重荷を負っています。1つ目は、自分の活動がこれからだと言うときに邪魔が入り、撤退しなければならなくなったことです。2つ目は、自分たちを嫌っている人たちの中を通らねばならなかったことです。この2つの重い荷を背負った一行が、まず、たどり着いたのがシカルでした。そこは、千年以上前にユダヤ人の祖先であるヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くでした(5節)。

ヤコブが、この土地を買った時、彼もとても辛い旅をしていました。彼の人生は、波瀾万丈です。実の兄を騙して追われる身になり、一度は故郷から逃亡しました。更に、逃亡先で、今度は自分が血の繋がった叔父であり、義理の父である人に騙されました。そして、財産を繰り返し奪われてしまいました。とうとう、そこにはいられないと、兄に殺されるかもしれないという恐れを持ちながらも、故郷に戻ることを決心しました。

そのヤコブが故郷に戻ったときに、最初に宿営したのが、当時シェケムと呼ばれていたシカルです。この時、ヤコブはその宿営した土地の一部を買いました。そして、その土地を息子のヨセフに与えました(創世記48:22「分け前」=「シェケム」)。5節にある通りです。

不思議なことですが、主イエスとヤコブには共通点があります。心血を注いでやってきたことを断念したこと、そして、その時に会いたくない人がいる所を通らねばならなかったことです。その2人がシカルに着きました。そして、主イエスはそこで休まれ、ヤコブはそこで宿営をしました。休みを与えられた場所、それがシカルです。

  • 休息が与えられる

私たちは休む時、何をするでしょうか。ちょっと休憩しようという時は、お茶を入れて一服しますね。水は、私たちの渇きを癒やしてくれます。そして、体を回復させてくれます。主イエスにも、この時井戸が用意されていました。そして、そこでお休みになることができました。旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられました(6節)。

主イエスがお休みになった井戸は、千年以上前にヤコブが掘った井戸でした。神は、千年以上前から主イエスがお休みになる場所を用意しておられました。人間が考える計画は、到底このような神の業に及びません。

マタイによる福音書11:28には、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」とあります。これは、主イエスの言葉です。主イエスは約2千年前に十字架におかかりになり、全ての準備をしてくださいました。私たちは今もあるヤコブの井戸にまで、行く必要はありません。ただ、この主イエスのみ言葉を思い出し、信じる時に、休むことができます。渇くことのない水を心にいただくことができます。

あなたは、様々なことに追いかけられるように毎日を過ごしておられるでしょうか。これから何があるのか不安があるでしょうか。進むところに嫌なことが待っていると感じておられるでしょうか。神は、あなたが通らなければならないところに、あなたのためのシカルを用意されています。井戸を、そして、水を用意してくださっています。疲れても、そこに座ることができるようにしてくだっています。今から、あなたが通らねばならないところで、その休息をいただきましょう。それは、主イエスがあなたに与えてくださる、体も心も休むことができる休息です。