「泉となる水をくださる方」

2023年2月5日礼拝説教
ヨハネによる福音書4章7~15節                                                野田栄美

  • 人間の習性

年末に紅白歌合戦を見た方はいらっしゃるでしょうか。そこにSEKAINOOWARIというバンドが出ていました。彼らが歌った曲は「habit」という曲でした。Habitとは、英語で「習慣」や「習性」と言う意味です。その曲は、人間は人を分類する習性があると歌います。あの人はちゃんとやる人だ、この人はやらない人だとか、あなたには素晴らしい才能があるが、私は普通だとか、いつも、分類していると歌っています。そして、その習性にとらわれないで生きる時に、自分の価値が見えてくると歌っていました。

それを聞いた時に、そうだなぁと思いました。私たちは分類することで、自分の状況を理解しようとします。そして、理解することで安心したいのだと思います。でも、その分類は私たちを、いつの間にか束縛していくことがあります。それは、人の持つ基準で分類するからです。その基準自体が不完全であるからです。

今日は、人の作ったどんな分類にもとらわれずに、私たちを見てくださる方がおられることを、皆さんと見ていきましょう。そして、私たちを分類することのない方が、私たちに与えてくださるものを見せていただきましょう。

今日の聖書に登場するのは、サマリヤの女性です。この女性は昼の12時頃に井戸に水を汲みに来ました。一日の内、一番暑い時間です。人目を避けていたのでしょう。水を汲むことは重労働です。11節では、この井戸は深いと書かれています。深い井戸から水を汲むのは、時間がかかりますし、力も必要です。楽しい家事だととても言うことはできない作業です。

この女性が、なぜ人目を避けるのか、その理由は、18節に書かれています。彼女は、5人の夫を持ったことがあり、今は夫ではない人と暮らしています。後ろ指さされるようなこともあったのでしょう。できれば、そのような思いをしないように、町から離れた井戸に暑い最中に水を汲みに来ていました。

彼女にとって、その人生は、順風満帆ではなく、幸せいっぱいでもなかったでしょう。彼女の過去知っている周りの人は、彼女の陰口を言い、避けていました。その心はいつも渇いました。

  • ユダヤ人ラビ

その女性に、あるできごとが起こりました。驚くようなできごとです。人はいないだろうと思っていたのに、井戸に先客がいました。それは、ユダヤ人、それも、男性で、宗教の先生であるラビでした。決して声を掛けて来ないであろう人です。その人が、彼女に声を掛けてきました。これは、彼女にとって、世界がひっくり返ったようなできごとです。

9節にあるように、当時、サマリヤ人とユダヤ人は交際していませんでした。物を買う時など最低限の会話をすることは別として、お互いに話しかけることはありませんでした。歴史的にも宗教的にも、互いに憎しみ合っている仲だったからです。

更に、当時は女性の地位が低かったため、一般的に男性が女性に話しかけることは殆どありませんでした。宗教の先生、ラビであれば、更に、女性とは距離を置きます。自分の身を清く保つために、万が一汚れを被らないように、女性とは話さないからです。

  • 人を分類しない

 けれども、この時、全ての予想を裏切って、このユダヤ人のラビは、この女性に声を掛けてきました。彼女がサマリヤ人だと気が付かないのでしょうか。また、女性だと分からないのでしょうか。そんなはずは、ありません。それらのことを全て分かっていながら、「水を飲ませてください」と、とても自然に頼みました。ただ普通に頼んできました。それが主イエスでした。主イエスは、何のわだかまりもなく頼みました。むしろ、自分を低くして、水をくださいますかと願い出ています。

この願いそのものも、驚くようなことでした。水を飲むには器が必要です。この時代、ユダヤ人は、異邦人と同じ器を使うことはありません。同じ容器を使うと汚れると考えるからです。けれども、主イエスは、そのことも気にもせず頼んでいます。

ユダヤ人とサマリヤ人という分類、男は尊く、女は卑しいという分類や、清いものと汚れたものという分類にも縛られることなく、ただ、一人の人間としてこのサマリヤの女性を対等に扱われています。

更に、先程お話したように、彼女は、律法を守っていない汚れた女性です。神である主イエスがそのことをご存じでないはずがありません。でも、主イエスは、律法を犯していることを責めてはおられません。律法を守っているか、守っていないという分類さえもせずに、声を掛けてくださいました。

  • あえて声を掛ける

この時、主イエスが、サマリヤの女性に声を掛けることはできないと差別しても、全くおかしくない状況でした。むしろ、彼女自身も、そして、その時代の人たちも、それが正しい振舞いだと思っていました。そして、更に言えば、主イエスの行動は、ユダヤのラビとして相応しくない行動でした。宗教の教師が、サマリヤ人に声を掛けるなどしてはいけないことです。もし、そのようなことがあれば、誰でも批難していいことです。それが、当然のことでした。それも、女性に声を掛けるなんて、ラビ失格と言っていいのです。ここで、サマリアの女性に話かけないことが、当時の基準では正しいことです。

主イエスは、こんな型破りなことばかりされる方だったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。マルコによる福音書7:27では、主イエスは、ユダヤ人を人間の「子ども」に例え、ギリシヤ人のことを「小犬」に例えています。これは、先ずユダヤ人から神の国を受け取るという順番を伝えるためでした。主イエスの中には、ユダヤ人と異邦人の区別は存在しています。また、子どもの時から律法に従って、神殿に献げものをする家庭で育ってこられました。十字架におかかりになる前の裁判においても、律法において、主イエスに罪を見つけることはできませんでした。

けれども、主イエスは、あえて、この一人の女性に声を掛けてくださいました。

9節では、「サマリヤの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリヤの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った」とあります。これは、言葉通りの意味です。びっくりしたのです。あなたは、ユダヤ人、私はサマリヤ人、あなたは男性、私は女性、水を同じ容器を使って飲むことなど、全部ありえません。そう思いました。

  • 生ける水

すると、主イエスはこう答えました。10節「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水をください』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたのほうから願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。」この「生ける水」とは、湧き出て泉をつくる水のことを表す言葉です。それは貯められた水や井戸の水と区別して用いられました。「生ける水」とは、泉となる水を示す言葉でした。

それを聞いて、女性はこう答えます。11、12節「主よ、あなたは汲む物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生ける水を手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子どもや家畜も、この井戸から飲んだのです。」その生ける水はどこにあるのだろう。この人は誰だろうと、興味をそそられています。

すると、主イエスはこう答えられました。13、14節「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」

主イエスが敢えて、この世の常識を超えて、人々の批難を恐れずに行動されたのは、この言葉を伝えるためでした。飲んだら決して渇かない水、そして、その人の内側で泉になる水、それも、永遠の命に至る水が、その人の中で湧き出るようになるためです。

これは、物理的には存在し得ない水です。飲んだら、もう、水を飲まなくていいようになる「水」は、この自然界の秩序の中では存在しません。また、人の体内から水が湧きだしたら、息ができなくなってしまいます。そして、永遠の命は、この世には無いものです。主イエスは明らかに、この世の水のことではなく、霊的なことを話されています。この水とは聖霊です。

  • 神の賜物

子どもの頃、教会学校の先生に暗唱してみようと言われて、詩編1篇を暗唱したことがありました。とても思い出深い聖句ですが、そこには、木の譬えがあります。1:2,3「主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人。その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。」これが、正に、主イエスから水である聖霊をいただいた人です。その人は、生き生きと空に向かって伸びていく、川のほとりの木のように生きることができます。その人生には、多くの実が生り、葉も枯れることはありません。

よく、川沿いに美しい桜並木がありますが、あのように美しい人生を送ることができたら、どんなに素晴らしいでしょうか。主イエスから聖霊をいただくと、そのように生きることができます。それは、私たちの心が渇かないだけでなく、心自体に泉が湧き出るからです。いつでも清らかな湧き水が心の中で泉をつくるようになります。

そして、そのような人生だけでなく、それが、この世の人生を終えた後にも、続いていきます。湧き出た水は、永遠の命を私たちに与えてくれます。天である神の国で生きることができる命が与えられます。これが、10節にある「神の賜物」です。神からの私たちへのプレゼントです。

  • 生ける水

主イエスは、なぜ、井戸に水を汲みに来たサマリヤの女性に、声を掛けられたのでしょうか。なぜ、敢えて、通常ではしない行動を取られたのでしょうか。それは、この女性に、生ける水である聖霊を与えるためでした。

主イエスは、人を分類されません。どんな人にも、神の賜物を与えてくださいます。主イエスの目には、人の常識や価値観という物差しはありません。あなたが、人にどう言われているか、どう思われているかを主イエスは問題になさいません。あなたのありのままの姿を受け入れてくださる方です。そして、あなたにも聖霊をくださいます。それはどのようなことでしょうか。それは、あなた自身が主イエスのように、人を分類しないように変えていただけるということです。主イエスから、生ける水である聖霊をいただきましょう。主イエスがくださる聖霊は、泉となる水です。聖霊は、あなたの心に永遠の命に至る水が湧き出るようにしてくださいます。