「悪を取り除く」

2023年7月16日礼拝説教 
申命記 16章21節~17章13節

        

主の御名を賛美します。皆さんは天体をゆっくりと眺めることはありますでしょうか。私は学生の時に特に自分が希望していた訳ではありませんが、何となく成り行きのような感じで航海士の養成コースに入ることになって練習船に1年間、乗っていたことがあります。その時にシンガポール、マレーシア、オーストラリア等の外国に初めて行くことになって、後に英国に行く切っ掛けになった感じがしますので不思議な導きです。

船では24時間を3交代で見張り等を行います。外洋に出て夜になると月と星以外の光がありませんので満天の星空となって眺めているが好きでした。本当にプラネタリウムのようでした。また海上での日の出、日の入りの光景は絶景でした。

1、悪、悪事

今日の聖書箇所では、「悪、悪事」という言葉が4回使われて(2、5、7、12節)強調されています。一般的には悪は善の反対の言葉ですが、聖書で悪は罪を原因とする倫理的に低いことやその行動を指します。2節では「主の目に悪とされることを行い」と言われますので、悪は勿論、主の御心に適わないことであり、反対に前回の16:20にありました正義とは主の御心に適うことです。

今日の聖書個所には「正しい礼拝」の小見出しが付いています。16章の3大祝祭日でも主を礼拝して、主のために祭りを祝うのですが、礼拝においても悪を行うことがあるということです。3つの悪い例が挙げられていますが、1つ目は、「主の祭壇の傍らに、いかなるアシェラの木造も主の憎まれる石柱も立ててはならない。」ことです。

イスラエルがこれから進んで行くカナンの地には、五穀豊穣や多産を願うための木造や石柱が多く立てられています。その願い自体は悪いことではありませんが、五穀豊穣や多産であることを性行為の結果として生まれるものとして、官能的な肥沃の女神のアシェラの木造を立てたり、それに対応する男性の象徴としての石柱が立てられました。

日本でも古くからある観光地の宗教的な木造や石柱等には、現代的な感覚では卑猥と感じるような木造や石柱が立てられていて驚くことがあります。五穀豊穣や多産を願うと言いつつ、そこには人の罪が含まれているように感じます。日本でも有名な神社や寺の近くには大抵、花街があるものです。

現代でも異端と言われる宗教では、宗教を口実にして猥褻なことを行うところがありますので注意が必要です。石柱自体は色々な記念としてモーセ自身も立てていますので悪いものではありませんが、主が憎まれる石柱は悪であり立ててはならないものです。1つ目の悪は次の2つ目の悪に繋がるのでしょう。

2つ目は、「欠陥のある牛や羊を、あなたの神、主に、いけにえとして献げてはならない。」ことです。このことは、15:21でも、「また、もし初子が足や目にひどい傷を負っている場合は、あなたの神、主にいけにえとして献げてはならない。」とありました。

この御言葉に私は以前は少し躓きを覚えていました。それは少し差別のように感じていたからです。今回、改めてそのことを考えてみました。欠点のある動物だって自分で好き好んでそのように生まれた訳ではないですし、それをいけにえとして献げてはならないというのは酷い感じもします。

ただ動物としては欠点があれば、いけにえとして献げられずに済むのでラッキーな部分はあるかも知れません。ここで、いけにえとして献げられる動物は、十字架で献げられるイエス・キリストの雛型の意味があります。すべての人の罪を贖うためには、イエス・キリストは罪も汚れもない完全である必要があります。

そのことを考えますと、いけにえとして献げられる動物は欠点、欠陥のないものというのも分かる気がします。欠点、欠陥のある動物は主へのいけにえとしては相応しくないと言っているのであって、存在自体を否定しているのではありません。これらの2つの悪は主の目に適う正しいことを行うよりも、自分が正しいと見なす罪による行いです。

2、天体

3つ目の悪は、主の目に悪とされることを行い、契約に背き、他の神々のもとに行って仕え、その神々や、主が命じたこともない太陽や月や天の万象などにひれ伏すことです。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。

まず主の目に悪とされることを行いというのは、1つ目のアシェラの木造や主の憎まれる石柱を立てることや、2つ目の欠陥のある牛や羊をいけにえとして献げることなどでしょう。その時で既に主を軽視した行いです。

人は主から目を離してしまうと、主の目に適う正しいことを行うのではなく、自分が正しいと見なすことをどんどんと行って行くようになります。それは十戒を中心とした主の契約に背くことになり、主ではなく他の神々のもとに行って仕えることになります。イスラエルの中にも太陽や月や天の万象である星等の天体にひれ伏す者がいます。

富士山の山頂等から見る日の出はご来光と呼んで拝んだりして宗教的な意味を持ったりします。神の存在を認めなければ、それらの天体に超自然的な力を感じて、ひれ伏してしまう気持ちも分かるような気もします。しかし天体が本当に素晴らしいのは神が造られた被造物だからです。全能の神が造られた被造物は神が見て良しとされたように素晴らしいものです。

しかし私たちがひれ伏すべきは、被造物ではなく、素晴らしい被造物を造られた神ご自身です。神以外の被造物にひれ伏すことは偶像礼拝であり、十戒の2番目の戒めで禁じられていることです。

3、悪を除き去る

「天体にひれ伏す者がいて、そのことが伝えられ、それを聞いたならば、よく調べなさい。」と言います。これは何かを判断するときに、とても大切な3段階の手続きを私たちに教えています。それは第1段階として何かを伝えられたら、第2段階として聞くことです。

せっかちな人は何かを伝えられると聞くことをしないで、自分の思い込みで勝手に判断してしまい、後になってから事実を知って、「ああ、そういうことだったのか」ということになったりします。そのような失敗は誰にでもあることですが、同じような失敗は何度も繰り返さないようにする必要があります。

第1段階として何かを伝えられ、第2段階として聞いたとしても、まだ判断するには早いものです。聞いたとしても、当事者の一方だけの話ですと正しい判断をすることが出来ません。箴言18:17(新改訳)は、「最初に訴える者は、相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。」と言います。

確かにそのようなことはあります。当事者の1人だけの話を聞いているとその人が正しく見えますが、もう一方の話を聞いてみると、そちらにも確かに言い分があるということは良くあることです。正しい判断を行うには第3段階として、良く調べる必要があります。

そして良く調べた上で、偶像礼拝が確かな事実であり、偶像礼拝という忌むべきことがイスラエルの中で行われたのだとしたら、彼らは死ななければなりません。とても厳しい裁きです。ただこの文章の内容も正しく理解をする必要があります。

現代でも世界のいたるとことで天体等にひれ伏す偶像礼拝は存在します。偶像礼拝を行う人は皆、死ななければならないのでしょうか。そのようなことは言っていません。偶像礼拝という忌むべきことが、イスラエルという神の民の共同体の中で行われたのだとしたら、彼らは死ななければならないと言っています。

イスラエルの外で天体にひれ伏す者に対しては特に何も言われていません。天体にひれ伏す者が死ななければならないのは、死によってイスラエルの中から悪を除き去るためです。

4、判決の言葉

偶像礼拝は、それが行われたのか行われていないのか、ある意味で分かり易いものです。その意味で裁きも行い易いものです。しかし中には、訴訟や流血事件、権利争いや傷害に関わるもので、判断の難しいものもあることでしょう。

そのような場合には、「直ちに、あなたの神、主が選ぶ場所に上り、レビ人である祭司、およびその時、任に就いている裁き人のところに行って尋ねなさい」と言います。日本の裁判でも一審で解決しないものは、高等裁判所、最高裁判所と上級の裁判所で裁かれることになります。

ただここでは、訴訟の判断が難しいので上級の祭司等に尋ねることの出来るのは、訴えられた被疑者ではありません。それは16:18で定められた裁き人や役人が判断することです。そして彼らはあなたに判決の言葉を告げます。申命記のヘブル語の題名を覚えておられるでしょうか。それは言葉です。

主が選ぶ場所から彼らが告げる言葉のとおりに実行する必要があります。このことはとても大切なことですので、10、11節で4回言って強調します。11b節の、「彼らが告げる言葉から、右にも左にもそれてはならない。」は同じような文章が5:32にありました。それは主の命じられた言葉についてでした。

レビ人である祭司、およびその時、任に就いている裁き人は神の命令によって立てられた人たちです。神によって立てられた人の言葉は神の言葉として、すべて彼らがあなたに教えたように守り行わなければなりません。

現在、教区長の奉仕をさせていただいていますが、教区で色々な話合いの場面に立ち会います。一つの課題に対して色々な意見が出て、時には正反対の意見が出て来て真っ二つに割れてしまうこともあります。その後にも色々な議論を行いますが、どうしても意見が纏まらないときには、教区長が決めてくださいと決断を求められます。

それは教区の方々が野田信行という個人を信頼しているという訳ではないと思っています。私よりも牧師の経験が長く、年齢も上の人もいます。それでも最終判断を私に求められるのは今は教区長の任に就いているからです。

そこには教区長は、その場では皆に話すことも出来ない色々な裏事情等もあって、それらを含めて総合的に判断をするだろうという期待と、その上で今、任に就いている教区長の判断が御心に適うという信仰に基づいていると感じられますので、とても信仰的な姿勢であると思っています。私もそのような信仰の期待を裏切ることのないようにと御心を求めて歩みたいと願っています。

5、悪を取り除く

最後に、「あなたの神、主に仕えるために立っている祭司、あるいは裁き人の言うことを聞かずに、傲慢に振舞う者は、死ななければなりません。」 「傲慢に振舞う者、傲慢な振る舞い」と2回出て来て強調されていますが、傲慢な振る舞いとは、主に仕えるために立っている者の言うことを聞かないことです。

傲慢に振舞う者は自分が知っていることが全てであると思い込んでいて、聞くことも、よく調べる(4節)こともしません。そのような者は死ななければなりません。「死ななければならない」は完了形で書かれていますので、「死ぬだろう」という意味ではありません。完了形ですので、北斗の拳風に言うと、「お前は既に死んでいる」という意味です。

傲慢に振る舞う者は、どのように死ぬのかといいますと、「こうしてあなたはイスラエルから悪を取り除きなさい。」と言いますからイスラエル自身が悪を取り除きなさいということです。それは5~7節の手続きによってということです。

「死ななければならない。」は完了形であり、全能の主が宣言されて既に完了していることですので、何があっても必ず実行されることになります。傲慢な振る舞いは偶像礼拝と同列のイスラエルから取り除かなければならない悪です。それによって、民は皆、聞いて恐れ、二度と傲慢な振る舞いをすることはなくなります。

この箇所を読んで、聖書の書かれているとおりに偶像礼拝を行う者と傲慢に振る舞う者を取り除きますと言われても困ります。悪を行う者を取り除いていったら誰が残るのでしょうか。悪は取り除いたけど、そして誰もいなくなったでは仕方がありません。

そのようにはならないために神は私たちの身代わりとして主イエスを十字架に付けられました。その結果、主イエスを信じる者の悪は主イエスの十字架の血により取り除かれることとなりました。取り除くべきは悪を行う者ではなく悪そのものとなりました。

主イエスを一度信じればそれですべての悪は取り除かれるでしょうか。そうではありません。先週、安井先生が礼拝とは悔い改めと献身であることを教えてくださいましたが、毎週の礼拝での聖霊の導きの中で、悔い改めと献身を新たにして、悪を取り除き続ける必要があります。私たちの悪を取り除くために十字架に付かれた主イエスに感謝し、力をいただいて今週も歩ませていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちに悪を取り除きなさいと命じられます。私たち自身には悪を取り除く力はありませんが、主イエスの十字架により信じる者の悪を取り除いてくださいますから有難うございます。

すべての人がこの恵みに与り、また既に恵みに与った人たちも正しい礼拝によって悔い改めと献身を新たに今週も歩ませてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。