「祝福に応じた贈り物」
2023年7月2日礼拝説教
申命記 16章13~20節
主の御名を賛美します。
1、仮庵祭
前回は内容的にはイスラエルの三大祝祭日の2つである主の過越祭を含む除酵祭と七週祭でした。元は、除酵祭は大麦の収穫の始まる時で、七週祭は小麦の収穫の始まる時で、共に収穫を感謝するす収穫祭です。私たちは収穫などの恵みを与えられる時に、恵みを与えてくださる神をしっかりと覚えて感謝する必要があります。
旧約の時には、主の過越祭の時にイスラエルは奴隷の地エジプトから導き出され、七週祭の時に十戒を授けられたと言われていて、エジプトで奴隷であったことを思い起こす大切な祭りとなりました。それが新約の時代になると、主の過越祭の時に主イエスが私たちに罪の贖いのために十字架に付かれ、七週祭の時に聖霊が降られました。
今日は3つ目の祭である仮庵祭です。仮庵祭はレビ記23:34で、第7の月の15日から7日間です。第7の月は私たちの使う太陽暦では10月頃ですので、丁度、除酵祭から半年後位です。仮庵祭も元は除酵祭と七週祭と同じように収穫を祝う収穫祭です。日本の神道でも収穫を祝う新嘗祭を11月23日に行っています。
仮庵祭は麦打ち場と搾り場からの収穫が済んだ時であると共に、パレスチナの地域では秋は果物の収穫の季節です。レビ記23:40では、「最初の日に、飾りにする木の実、なつめやしの葉、茂った枝と川沿いのポプラの枝を取りそろえて、七日間、あなたがたの神、主の前で喜び祝いなさい。」と言います。
これらの木の実、葉、枝は何に使うのでしょうか。レビ記23:42、43で、「七日間、仮小屋で過ごさなければならない。イスラエルで生まれた者はすべて、仮小屋で過ごしなさい。それは、私がイスラエルの人々をエジプトの地から導き出したとき、仮小屋に住まわせたことを、あなたがたの子孫が知るためである。私は主、あなたがたの神である。」と言われます。
仮庵祭も前の2つの祭の除酵祭と七週祭と同じように、自分たちがエジプトの地で奴隷であったことを思い起こして、主の恵みによる贖いによって救い出されたことを感謝するときです。すべてのイスラエル人は、ただ主の恵みによって救われたのですから、そこには何の違いはありません。
それで、「息子や娘、男女の奴隷、町に中にいるレビ人や寄留者、孤児、寡婦と共に、この祭りの時を楽しみなさい。七日間、主が選ぶ場所で、あなたの神、主のために祭りを祝いなさい。」と言います。仮庵祭は現代でもイスラエルで祝われています。都会であっても簡単な仮小屋を作って祝います。
イスラエルを含めた中東地域の人たちは荒れ野での生活を自分たちの生活の原点のように感じる人が多いようです。時々、荒れ野で簡単な仮小屋のような場所で生活することで自分たちのアイデンティティを確かめることが好きなようです。大切なことであると思います。
仮小屋での生活というのは、今、日本でも流行っているアウトドア的なグランピング等に似ているのでしょうか。ただ皆が仮庵祭のときに荒れ野に行って仮小屋での生活をするというのは難しいので、都会等では簡単な仮小屋のようなものを作って祝っているそうです。このような飾りを見ると、意味は違いますが、何となく日本の正月に玄関に飾る門松や、しめ縄と似ているような感じもします。
このように年に三度、男子は皆、除酵祭と七週祭と仮庵祭のときに、主が選ぶ場所で、あなたの神、主の前に出なければなりません。毎年の春と秋の収穫の時期に、収穫を与えてくださる神、主を覚えて前に出ます。日本でも普段は宗教と関りが無い人でも、正月には初詣に行って、七五三にはお宮参りすることと似ているような気もします。
2、祝福に応じた贈り物
仮庵祭では、「あなたの神、主が、あなたの収穫とあなたの手の業すべてを祝福されます。」 これは少し不思議に感じる御言葉です。収穫は既に済んだことですから、「あなたの収穫とあなたの手の業すべてを祝福されたのだから」と過去のこととして言うのなら分かります。
しかし、「祝福される」という言葉は未完了形で書かれていて、それは祝福されることは現在も続いていて、未来も祝福されるという意味です。そこには二つの意味が考えられて、一つは、既に収穫された物は更に祝福されて用いられて、手の業も更に祝福されて用いられるということです。
更に二つ目の意味として、今、収穫と手の業が祝福されていることは、今後も続いて行くということです。主の祝福を受けるときに、主の御言葉に従い続けるならその祝福は続きますので、だから、あなたは心から喜びなさいと言います。この箇所では仮庵祭を、楽しみなさい(14節)、祝いなさい(15節a)、喜びなさい(15節b)と言います。
仮庵祭も除酵祭と七週祭と同じように、罪の象徴であるエジプトから救われたことを思い起こし、また救われることを記念するときであり、楽しみ、祝い、喜びます。主が収穫と手の業を祝福されるのですから、主の前に何も持たずに出てはならないと言うより、何か感謝を表したいという思いになるのが自然なことでしょう。
「あなたの神、主があなたに与えられた祝福に応じて、おのおの手ずからの贈り物をしなければならない。」 これも義務というよりも、それが自然なかたちです。主から祝福を与えられるのですから、祝福に応じた贈り物を感謝として行います。
与えられた祝福を覚えて感謝の贈り物をすることは毎週の礼拝でも行われることでもありますが、1年に3回の特別な祭りとして記念して祝うことは大切なことです。ところで除酵祭と七週祭は現代のキリスト教界では、イースターとペンテコステとして祝っていますが、仮庵祭はどうなっているのでしょうか。
千葉教区では秋に行って来た千葉聖会が仮庵祭的なものかも知れません。千葉聖会は今年度は教団の夏季聖会に協力というかたちで今月に行われますので、ぜひご参加いただければと思います。
3、賄賂
申命記を続けて読んでいますと、これまでの文章の内容から考えて、なぜこのような内容の文章に続くのだろうかと考えさせられる箇所があります。今回の個所もそうかも知れません。三大祝祭日の記事の後に、「正しい裁き」の内容になっていて、同じ日に語る必要があるのかと初めは思われましたが、聴かせていただきましょう。
イスラエルはこれからカナンの約束の地を与えられて各地を割り当てられますが、「あなたの神、主が部族ごとに与えられるすべての町に裁き人と役人を立てなさい。」と言われます。日本語的に、裁き人は司法、役人は行政を担う人で、時代も国も違うと制度も違いますが大まかには似たような感じです。
彼らは民を正しく裁いて治めなければなりません。正しく裁いて治めるということについて3つのことを言われます。一つ目は、「あなたは裁きを曲げてはならない。」です。なぜ裁きを曲げるようなことが起こるのでしょうか。同じ内容の書かれている出エジプト記23:6は、「あなたは貧しい者の訴訟において、裁きを曲げてはならない。」と言います。
これが現代の多くの国でも、貧しい者、社会的に弱い立場にいる者の裁きは不利な方に曲がり易いことがあり、逆の意味で、豊かな者、社会的立場が強い者の裁きは有利な方に曲がり易いことがあります。
このことは二つ目の、「人を偏り見てはならない。」ということに繋がります。1:17にも、「裁判において偏りがあってはならない。小さな者にも大きな者にも等しく耳を傾けなさい。」とありました。別の意味で、私たちは自分の親しい人には好意的に見て、親しくない人には冷たく見て裁いてしまう傾向があります。
行われたことが正しいか正しくないかではなく、誰がそのことをしたかで判断をしてしまいがちです。極端な場合には、自分が親しい人が行うことはすべて大目に見て、親しくない人が行うことはすべて否定的に見るというようなことが起こります。それは正しい裁きではありません。
三つ目のこととして、「賄賂を受け取ってはならない。」です。その理由は、賄賂は知恵ある者の目をくらまし、正しき者の言い分をゆがめるからです。賄賂には知恵ある者の目をくらます力があるようです。箴言19:6も、「貢ぎ物をすれば誰とでも友となる。」と言います。
創世記32章で、お兄さんのエサウを騙して祝福を奪い取ったヤコブがエサウに再会するときに、まず先頭にエサウへの大量の贈り物を配置したのはとても印象的です。
このように御言葉を聴かせていただきますと、三大祝祭日の後に正しい裁きのことが書かれている意味が分かるような気がします。それは特に三大祝祭日には主の祝福に応じた贈り物がすべきことですが、人への賄賂は受け取ってはならないものです。
そうしますと贈り物と賄賂の違いはどのようなことなのかと考えさせられます。贈り物は主が与えてくださった祝福に対する感謝を表します。
主に対して贈り物を直接に贈ることもありますが、主の御言葉に従って他に人に贈ることもします。14節に、「息子や娘、男女の奴隷、町に中にいるレビ人や寄留者、孤児、寡婦と共に祝いなさい。」とありますので、これらの人たちに贈ることもします。
贈り物が主の祝福に対する感謝を表すものであるのに対して、賄賂は自分が望む見返りを期待、要求するものと言えます。サラリーマンが行っている接待は贈り物か賄賂かというと微妙な感じもしますが、社会通念上の常識的な範囲内であれば認められることになっています。
思い出話としまして、私が商社に入って数か月後のことですが、勤めていた会社が取引先のロシアの会社から賄賂を要求されたことがありました。そのときに私の会社のロシアの支店のユダヤ系ロシア人の担当者が、取引先の賄賂の要求には応じずに、その代わりとしてその会社の業務の効率が上がる贈り物の提案をしました。
会社の業務効率が上がる贈り物の提案をされたら相手もそれを断るのは難しいものです。更にその会社の業務効率が上がれば、その結果としてその利益は自分たちに帰って来て、贈り物の費用以上の利益を得ることが出来るかも知れません。この人は知恵のある賢い人だと私は尊敬すると共に、正しい仕事の仕方を教えられたように思いました。
4、主の祝福に応じた贈り物
「あなたは、ただ正義のみを追い求めなさい。」と命じます。正義を追い求めるとは、民を正しく裁いて治めると共に、主の祝福に応じた贈り物をすることです。主の祝福に応じた贈り物ということを考えるときに、主イエスを信じる者には十字架による罪の赦しと永遠の命を与えられ、更に聖霊が導いてくださいます。
このような計り知れない大きな祝福に応じた贈り物に相応しいものはどのようなものなのでしょうか。それぞれが主の御言葉に従った精一杯の生き方になるのではないでしょうか。聖霊の導きの中で、正義のみを追い求め、主への贈り物を献げることです。またそれは主が与える地を所有し続けることとなり、更なる祝福へと繋がって行きます。
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたはイスラエルの歴史の中で特別な祭りである除酵祭、七週祭、仮庵祭を通して罪の地であるエジプトから救われたことを思い起こし、楽しみ、祝い、喜びなさいと言われます。私たちが主から与えられている大きな祝福を覚えて、聖霊の力によって贈り物を献げさせてください。そして正義のみを追い求め祝福の道を歩み続けさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。