「祝福の神に感謝しよう」
2023年7月9日 礼拝説教
テモテへの手紙二 1章1~5節 安井聖牧師(西落合キリスト教会)
「私は、夜も昼も祈りの中で絶えずあなたのことを思い起こし、清い良心をもって先祖以来仕えている神に感謝しています」(3節)。ある人はこの「絶えず」を、最後の「神に感謝しています」につなげて訳している。絶えず、いつも神に感謝するなんて、パウロは何と神に感謝する心が豊かなんだろうか。テモテやその祖母ロイスと母エウニケを思い起こしながらこの手紙書いていたパウロは、そういうすばらしい人たちに取り囲まれていたから神に感謝することができたのか。そうではない。実はパウロはこの手紙を、ローマの牢獄で書いた。そしてこの手紙を書いた数か月後に処刑されたと言われている。パウロは大変な心細さを覚えながら、この手紙を書いたのである。
パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ第1章4節でも、「私は、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みのゆえに、いつも私の神に感謝しています」と書き送り、絶えず神に感謝する心を表した。ところがコリントの教会、パウロを最も悩ませ、心配させた教会であった。それならどうしてパウロは、そんなコリントの教会の人たちのことを思い起こしながら、絶えず神に感謝することができたのか。「あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みのゆえに」。罪を重ねるコリントの教会の人たちの罪と弱さを、主イエスが背負って十字架に死んでくださった。そして死から復活してくださった。だからこそ神は彼らのどのような罪をも赦し、その罪から立ち直る力を与えてくださる。パウロはコリントの教会の人たちがどんな姿であったとしても、決して揺るがずに注がれている神の恵みをじっと見つめていた。だから絶えず神に感謝することができた。
礼拝式の中で、この神の揺るがない恵みを思い起こすプログラムこそ、牧師の祝祷を聴く時である。そこで牧師は、神に代わって祝福を告げている。その祝福の言葉を聴く時、わたしたちは神の揺るがない祝福の中に立って歩み始めさせていただける。たとえ礼拝式で神の祝福を受けて歩み始めたその週の歩みの中で、わたしたちがこの地上のいのちを終えたとしても、この神の祝福は決して揺るがない。神の祝福が死に勝つ力ある祝福であると信じるからこそ、死で終わらないいのちの希望に生きることができるのである。
わたしたちは何と豊かな祝福を神から与えられていることだろう。この豊かな祝福に十分に見あう感謝を、わたしたちはどうやっても表すことできない。神の祝福の前では、わたしたちの感謝はいつも貧しくなる。しかしそうであれば、自分の感謝の貧しさに気づかされるたびに、それほど大きな神の祝福の中には立たせていただいている恵みを思い起こせばいい。そしてそこで精一杯させていただける感謝を、神にささげればそれでいい。パウロもそのような感謝に生きたのである。