「主が命じたように」

2024年1月21日礼拝説教  
申命記 24章1~9節

        

主の御名を賛美します。

1、離縁した妻

結婚と姦淫については22章の後半にもありましたが、これはいつの時代でも色々な問題のある難しいものです。そこで具体的に色々と命じる必要がありました。先週の、「憐れみと聖」ということで言いますと、一つ目は聖の内容です。ある人が妻をめとり、夫になったものの、彼女に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせることができます。

これも考える必要のある内容です。考える一つ目のことですが、妻の恥ずべきこととはどのようなことならば離縁の正当な理由になるのかです。不倫であれば死刑ですので、それ以外のこととなりますが、正確な内容は分かっておらず、身体的な問題から性格の問題まで色々な考えがあります。

考える二つ目は、妻を気に入らなくなったら、離縁状を書いて渡せばそれで良いのでしょうか。この問題については、ファリサイ派の人々に質問をされた主イエスがマタイ19:8で、「あなたがたの心がかたくななので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。」とこの箇所のことを説明されています。

DV等の深刻な問題で離縁をせざるを得ない場合もあります。しかし、離縁は本来は御心ではありませんが、人の心がかたくななので、認めざるを得ないので許したまでのことです。

次に、その女が家を出て、他の男の妻となったが、次の夫も彼女を嫌い、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせるか、あるいは、彼女を妻に迎えた男が死んだ場合です。そのどちらの場合でも、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再びめとり、妻にすることはできません。

厳しい命令であると思います。多くの人は最初の夫が彼女を再び妻にすることは、元の鞘に収まることで、それ程に悪いことではないのではないかと感じるのではないでしょうか。しかし再び妻にすることができない理由は、彼女が汚された後だからです。これはどのような意味なのでしょうか。

女は二人の男と離縁した後、又は二人目の夫が死んだ場合に汚れるのでしょうか。そうではありません。この女は誰か他の三人目の男とは結婚ができますが、最初の夫とは再び、結婚はできません。それは、この女は2回目の結婚の後は、最初の夫にとっては汚れた存在になるということです。

それはどうしてなのでしょうか。結婚は創世記2:24の、「二人は一体となる」ものです。しかし離縁をするとマタイ5:32の、「淫らな行い以外の理由で妻を離縁する者は誰でも、その女に姦淫の罪を犯させることにな」ります。姦淫の罪を犯させた妻は、その男にとっては汚れた存在になるということです。

再び妻にすることはできないことには、そもそも一度は離縁した妻を再び妻にしようとするような、そのような好い加減な気持ちで初めから離縁をしてはならないという意味も含まれているのでしょう。これは主の前に忌むべきことですので、主が相続地として与える地に罪をもたらしてはなりません。

2、妻をめとる者

二つ目は、結婚をするときの憐れみの内容です。ある人が新妻をめとったときは、一年間は兵役に就かなくてよく、他にも何の義務を課されません。一年間は自分の家のために自由ですので、その間にしっかりと家、家庭を作って、めとった妻を喜ばせて良い夫婦関係を築きます。

兵役に就くことは命を落とす危険もありますので、結婚をした夫婦にはせめて一年間は自由にさせて、楽しむ期間を与えるということです。そしてその間にしっかりと家庭を作る必要があります。これは教会に限らずに、職場等でも新婚の人がいたら、過度な仕事は回さずに、家庭をしっかりと作れるような配慮が必要です。そのような配慮によって土台のしっかりとした家庭ができることは、本人たちにとって祝福であり、また周囲にとっても大きな祝福となって返ってきます。

3、悪を取り除く

三つ目は、引き続き憐れみの内容です。石臼、あるいは、その上石を質にとってはなりません。石臼は蕎麦屋にあるように、上下2個の円盤状の石からなっていて、上石を回して殻粒を挽いて粉にします。石臼は毎日の食事であるパンを作るのに必要な物です。

石臼は上下でセットですので、上石だけでもとったら、家族全員が食事を食べられなくなってしまい、命を質に取ることになります。そのようなことをしたら返す物も返せなくなってしまいますので、家族全員を破滅に追い込むような残酷なことはしてはならないことです。

また同胞であるイスラエルの一人を誘拐して、奴隷のように扱ったり、売ったりしてはなりません。創世記37:28で、兄弟から憎まれていたヨセフが奴隷として売られてエジプトへ連れて行かれました。誘拐は、誘拐される人の人生を奪い、またその家族の人生も奪う卑劣な犯罪です。

日本でもそのような犯罪が起こりることがありますし、国家ぐるみで拉致を行うところもありますが、決してあってはならないことです。そのようなことを行う盗人は死ななければならないのは当然の報いであって、こうして悪を取り除きます。

4、規定の病

四つ目は、規定の病についてです。聖書を以前からご存じの方は、規定の病とはあのことですねと思われるでしょうが、初めての人は何の病だろうと思われるでしょう。皮膚に病的な変化が起こるハンセン病と似ている部分があるようですが違うようで、聖書協会共同訳は規定の病と訳して、新改訳は原語のまま「ツァラアト」とカタカナの表記にしています。

重い症状を引き起こす病ですので、十分に気をつけて、レビ人である祭司があなたがたに教えることをすべて守り行う必要があります。レビ記13、14章で6ページの長きに渡って細かく教えられています。現代では殆ど掛かることのないこの病について、聖書の中でこれだけ細かく書かれていることの現代的な意味はどのようなことなのでしょうか。

この当時は勿論、この病が重い症状を引き起こし、治療法も無く、とても深刻でした。この病の「患部」という言葉は、「打つ」という意味と考えられて、病の患部は神から打たれたと考えられていたようです。そこで主が命じたようにイスラエルは守り行わなければなりません。

主が命じられることは、すべて祭司に命じていますので、祭司が教えることは、すべて神が命じたこととして守り行います。しかし神である主が命じられても中々、人は守り行うのが難しいものです。ましてや人である祭司の教えを守り行うことは更に難しいものです。

そこで主は、「あなたがたがエジプトを出た後、その途上であなたの神、主がミリアムにされたことを思い出しなさい。」と言われます。これは民数記12:1~10の内容を思い出しなさいということです。

5、主がミリアムにされたこと

ミリアムはアロンとモーセのお姉さんで、アロンはモーセのお兄さんです。二人はモーセがクシュの女を妻にしたことで非難しました。「ミリアムはアロンと共に」という書き方から、姉のミリアムが主導して弟のアロンが従ったようです。

クシュ人と結婚することは律法違反ではありませんので、それは口実であり、完全な言いがかりで、目的はモーセを非難することです。二人の本音は2節の内容で、末っ子のモーセが自分たち上の二人の姉と兄を差し置いてリーダーであるのは面白くないということです。

二人の気持ちは分からないではありません。全く自分たちと関係の無い人なら兎も角、自分たち兄弟の末っ子がリーダーであり、しかも長女のミリアムは預言者であり、アロンは大祭司と賜物も与えられて色々と出来る人たちです。しかし神はモーセを選ばれました。二人はモーセのお陰でそのような大きな役割を与えられたのですから、本来は感謝をすべきです。

主はミリアムのような預言者とは幻によって自らを示し夢によって語るけれど、主の僕モーセとは面と向かって語りますが、そのようなモーセを恐れもせずに非難する二人に対して主の怒りが燃え上がりました。神の選ばれたモーセを非難することは、モーセを選ばれた神を非難することです。このことを主導したミリアムは規定の病にかかりました。

6、規定の病とは

聖書は規定の病のことについて詳しく書いていますが、聖書は過去の病の歴史を教えるものではなく、読者に霊的な糧を与えるものです。現代において規定の病はどのようなことを意味するのでしょうか。これは明らかに罪の象徴です。

罪に感染すると規定の病のように重い症状を引き起こし、最終的には死に至ります。それで罪は規定の病のように徹底的に感染の予防をして、感染した場合には徹底して清める必要があります。

現代のすべての病が必ずしも罪と関わっている訳ではありません。とても信仰深い人も病になります。しかし、病が罪と関わっているような場合もあります。教会員に限らず色々な病にかかられた人とお会いして癒しのために祈ることがあります。しかし正直なところ、その人の状況的に癒しが難しいように感じるときもあります。

それは、ガラテヤ5:19の肉の行いである、「敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派」等に支配されている人や、またはそのような人に囲まれている人です。私たちの周りには信仰の有る無しに関わらず色々な人がいます。人は周囲の人から色々な影響を受けるものです。

肉の行いである罪に支配されたり、囲まれているのは、規定の病の菌に囲まれているようなものです。良くなりようがなく、悪くなる一方です。霊的に罪の病に侵されると身体も病に侵されて行きます。四重の福音の神癒の正反対です。ミリアムが正にそうでした。二人共に肉の行いに走って、二人揃って盲人を手引きする盲人となって、二人とも穴に落ちてしまいました(マタイ15:14)。

しかしそのことに気付くのであれば、癒しは難しくはありません。良い状況に自分を置けば良いのです。自分自身が肉の行いの罪を捨てるのは勿論ですが、霊的に悪い影響を与える人から離れて、良い影響を与える人に近付いて関わることです。

7、主が命じたように

しかし主が命じたように守り行い、悪を取り除くということは、一体どのようにしたら行うことができるのでしょうか。「悪を取り除きなさい」ということはこれまでも何度も命じられています。文字通りに読みますと、「悪を取り除きなさい」と命じているのですから、1番目に、自分で出来ることは自分で守り行い、悪を取り除いて行きます。

しかし2番目に、どうしても自分だけでは出来ないこともあります。例えば過去に行ってしまった過ちは、遣り直しは利きませんので神に赦していただく以外に方法はありません。しかしそのような私たちの取り返しの付かない過ち、罪の赦しのために、主イエスが既に十字架に付いてくださっておられますので心から悔い改めるなら赦されます。

3番目に今後の将来についても、主が命じたように守り行う自信が無いということでも大丈夫です。主イエスを信じる者には聖霊が働いてくださいますので、主が命じたように守り行う力を与えて導いてくださいます。自分の思いを捨てて聖霊の導きに従うなら御心を行う者とされて行きます。

自分自身が主が命じたように守り行い、悪を取り除くことでも大変なことです。4番目にそれが更にモーセにとって、先程のミリアムとアロンのように他の人の問題となると解決は不可能なようにも感じます。モーセがいくらミリアムとアロンは自分たちの分を越えていると言っても聞く耳を持つことは無いでしょう。

なぜかと言いますとミリアムとアロンは自分たちの方が正しいと思い込んでいるからです。問題を起こす人は、質の悪いことに、自分は正しいと妄想的に思い込んでいますので厄介です。そのような時の問題の解決はどのようの行われるのでしょうか。主は、「主がミリアムにされたことを思い出しなさい」と言われます。

そのような問題の解決は主、ご自身が介入されて悪を取り除かれます。私たちは主が命じたように私たち自身が守り行う必要がありますが、難しい場合には主が命じたように、主ご自身が行ってくださいます。民数記12章では、ミリアムが規定の病にかかった姿を見たアロンが、自分たちの罪に直ぐに気付いて、モーセに執り成しを願って、ミリアムは七日後に癒されました。

もしアロンが悔い改めていなかったらアロンもこの後に規定の病にかかったのかも知れません。ミリアム自身の言葉は一言も書かれていませんが、自分の罪に気付いて悔い改めたのでしょう。解決の困難な問題には、誰の目にも罪が分かるように主が明らかにされます。

ミリアムとアロンは自分たちの罪を認めることによって、それ以上の裁きは受けずに済みました。何か間違いを犯したと気付いたら直ぐに悔い改めることです。それによってダメージは最小限で済みますし、そのために主イエスが既に十字架に付かれています。主イエスの十字架に感謝し、聖霊の導きに従って、主が命じたように守り行い、悪を取り除いていただきましょう。

8、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは、「私が命じたように守り行い、悪を取り除きなさい」と命じられます。私たちが主イエスの十字架による罪の赦しを信じて、聖霊の導きの中で、罪を悔い改めさせてください。

また私たち自身では守り行い、悪を取り除けない場合には、あなた自身が命じられたように行ってくださいますから有難うございます。私たちがいつもあなたの御心に直ぐに気付いて、素直に従うことができますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。