「死から命へ」

2024年10月13日礼拝式説教
ヨハネによる福音書5章24~30節                                          野田栄美

中心聖句:ヨハネによる福音書5章24節
「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、
永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。」

① 始めに
「豚に真珠」という言葉がありますが、子どもの頃は、この言葉は日本のことわざだと思っていました。けれども、これは聖書の言葉です。(マタイによる福音書7:9)豚は、真珠の価値が分かりませんから、与えても足で踏みつけるだけです。聖書を読んでいると、その価値をよく分かっていなかったと気が付くことがあります。豚のように踏みつけてはいなくても、感謝しきれていないことはたくさんあります。今日の聖書箇所は、主イエスによって、私たちに何がもたらされたのかを語っています。この世の人生を終えた後のことも解き明かされる場面です。この大切な真理をみなさんで聞いていきましょう。

② 父への道
前回のメッセージでお話ししたように、「よくよく言っておく」という言葉は、大切な真理を明らかにされる前に言われる言葉です。24節「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。」今日は、この聖句の言葉の意味を、一つ一つ聞いていきましょう。

最初に「私の言葉を聞いて」とあるように、すべては、主イエスの言葉を聞くことから始まります。聖書で「聞く」とは、ただ聞くのではなく、聞き従うことを意味します。音を聞いていればいいのではありませんし、「ああそうなのか」と思うだけでも足りません。頭に知識として記憶すればいいということでもありません。実際にその言葉を、自分の生活の土台としていくことです。その言葉を生きることです。

ヨハネ14:6では、主イエスが「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」と語られました。「私を通る」とは、そのみ言葉を聞き、信じ、従うことです。主イエスのみ言葉に聞き従う時に、私たちは父なる神のもとに行くことができます。

前回のメッセージにあったように、父なる神と主イエスは、単なる親子ではありません。人を罪から救うために、自分たちの全てを犠牲にしようと心を一つにしてくださった父と子です。私たちを父なる神へと導くために、主イエスがその道となってくださいました。

ですから、主イエスがどんなことをされたか、何を話されたか、それら全てが父なる神のお姿を現わしています。福音書に書かれている主イエスの人生とメッセージには、自分の功績を伝えようという意志は欠片も見られません。それらは全て、父なる神へ私たちを導くために行われ、また、話されました。

③ 永遠の命
主イエスをお遣わしになられた父なる神を信じる者には、何が与えられると、24節には書いてあるでしょうか。それは、3つあります。1つ目に、「永遠の命」が与えられます。2つ目に「裁きを受けることがなく」なります、そして、3つ目に「死から命へと移」ります。

 1つ目の「永遠の命」とは何でしょうか。それは、いわゆる「不老不死」を与える命ではありません。ヨハネ5章は、38年間病に苦しんでいた人を、主イエスが癒やされた奇蹟から始まっています。この人は不老不死になったわけではありません。この時、病は癒やされましたが、いつかは亡くなられたでしょう。ですから、主イエスは、目に見える肉体に不老不死を与える方ではありません。

主イエスは、癒しの奇蹟の後に、「もう罪を犯してはいけない」と声を掛けられました。主イエスが本当に与えたいものは、罪に縛られない命です。人の内側に与えられるものです。私たちを霊によって新しく生まれさせる「永遠の命」です。

 仏教では、輪廻という思想がありますが、これは、日本人には馴染みのある考え方です。普段の会話の中でも、クリスチャンではない友だちが「前世はなんだろうね」と当たり前のように話していました。ドラマや小説にもそのようなことを題材にしたものもあります。やはり、人は今生きている人生だけでなく、その前や後にも何かが続いているのではないかと考える本能があるのかもしれません。また、今の人生が上手くいかない、苦しみや試練がある時には、やはり、それらから逃れて、生まれ直したいと思うこともあるかもしれません。

 聖書の言う「永遠の命」は、この世の人生においても、この世の人生が終わった後の世界でも、神と共にいることができる約束を与える命です。26節には、「父が、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」とあります。「永遠の命」は、父なる神ご自身が持っておられる命です。その命をいただくと、私たちも神の子とされます。「永遠の命」とは、神の霊、聖霊です。

父なる神は惜しむことなく、その「永遠の命」を主イエスにお渡しになりました。そして、主イエスもまた、私たちに惜しむことなくその命をくださいます。私たちを、父なる神と主イエスの家族として迎え入れたいと願っておられるからです。

④ 裁き
 次に、2つ目の、裁きを受けることはないということはどのようなことでしょうか。ヘブライ9:27には、「人間には、ただ一度死ぬことと、その後(のち) 裁きを受けることが定まっている」と、書かれています。いずれ時が来ると、全ての人が、神の御前で裁きを受けなくてはなりません。その時は、人は一人で神の前に立たなければなりません。

けれども、27節には、「父は裁きを行う権能を子にお与えになった。」とあるように、父なる神は、主イエスに裁きをする権利と力をお与えになりました。ですから、私たちはたった一人で神の御前にでるのではなく、主イエスも一緒に裁きの場に出てくださいます。

 27節bには、その理由として「子は人の子だからである」とあります。「人の子」とは、旧約聖書の預言書の一つ、ダニエル記7:13に書かれている言葉です。それは、全世界を救い出すメシア、救い主を示す言葉です。主イエスは、人を救う方です。ですから、私たちが裁きを受けることがないように罪の代価を全て十字架の上で払ってくださいました。その主イエスが、「あなたを一人にはしない。一緒にいるよ」と言ってくださるので、有罪判決を言い渡されることはありません。これが、「裁きを受けることがない」ということです。

⑤ 善と悪
 その裁きの時が来ると、墓の中にいる人々はみな、主イエスの声を聞きます。そして、復活します。29節には、「善を行った者」と「悪を行った者」と2種類グループ分けをしています。これだけを聞くと、やっぱり、良い行いを積まなければいけないんだ。その行い次第で命がもらえるのだと思ってしまうでしょう。けれども、これはそのようなことを言っているのではありません。

主イエスの言葉を聞いて信じた人には、永遠の命である聖霊がいただけます。この聖霊は、私たちの中で神の御業を行ってくださる方です。その御業は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテヤ5:22、23)として現れます。これらが、ここで言う「善の行い」です。「善の行い」は、聖霊が行ってくださるものです。つまり、「善を行った者」とは、主イエスから聖霊をいただいた人を指しています。同じように、「悪を行った者」とは、聖霊をいただいていない人を指しています。

 神は、「あなたがたは何か善い行いをしたのか」と私たちに問いかけられません。罪を持った人間は、善を行うことができないことを、父なる神と主イエスはご存じです。ですから、あなたに聖霊を与えるために、必要なことを全て用意してくださり、裁きに備えてくださいます。

⑥ 「死」とは
 3つ目の「死から命へ移る」とは、何でしょうか。ここで言う「死」とは、私たちの肉体の「死」のことではありません。この「死」とは、霊的に死んでいる状態を表しています。それは、罪に支配されている状態のことです。言い方を変えると、神と一緒にいない状態のことです。

ルカ15:11~32には、放蕩息子の例え話が書かれています。ある一人の父親に息子がいました。その息子の一人が、父の家を出ていってしまい、放蕩生活をします。けれども、時が過ぎて、この放蕩息子は自分の行いを心から悔い改めて、父の家に帰って来ました。その時に、父はこう言いました。24節「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」

 「死」とは、この息子が父親を捨てて、放蕩生活をしていたのと同じ状態をいいます。人が神から離れた状態です。そして、「死から命へ移る」とは、この例え話の息子のように、悔い改めて神の元に戻ることです。

⑦  今がその時
 それでは、私たちはいつ「永遠の命」をいただくことができるのでしょうか。今日の聖書箇所で、もう一つ、主イエスが「よくよく言っておく」と前置きされた言葉があります。それは25節です。「よくよく言っておく、死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。」 今が「永遠の命」をいただける時です。主イエスがこの世にお生まれになった時から、「その時」が始まりました。そして、今も「その時」は続いています。

ここでいう、「死んだ者」とは、誰でしょうか。これも、肉体の死ではなく、霊的な死を示しています。パウロという使徒はこう言いました。使徒言行録7:15、18、24「私は、自分のしていることが分かりません。自分の望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです。」「私は、自分の内には、つまり私の内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです。」「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。」これが霊的に「死んだ者」の姿です。

 逃れよう、逃れようとしても、振り切れないのが私たちの中にある罪です。今までの自分の歩みを振り返る時、罪の足跡に気付きます。そのような者が、神の声を聞いた時に、霊的に生き返ります。今が、その時です。24節「よくよく言っておく、私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。」この主イエスのお言葉を土台に歩ませていただきましょう。