「神の福音」 

2024年10月20日礼拝式説教 
マルコによる福音書1章14~20節
        
主の御名を賛美します。

1、神の福音
洗礼者ヨハネは荒れ野で、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。しかし捕らえられてしまいました。その経緯は6:14~29に書かれていますので、ここでは詳しく触れませんが、ヘロデ王が自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚したことに対して、ヨハネがそれは許されないと言ったためです。

ヨハネが捕らえられることで、先に遣わされた使者の働きの時が終わりました。そして、次の段階である、主イエスによる福音の時となります。舞台はガリラヤです。ガリラヤという地名は「周辺」という意味で、マタイ4:15にありますように、「異邦人のガリラヤ」です。

福音は、「良い知らせ」という意味です。救い主イエス・キリストを信じることによって救われるという良い知らせです。福音の具体的な内容は15節になります。第一に、時は満ちました。時というのは、イスラエルの人たちが待ち望んでいた、救い主(メシア)が来られて救われる時です。第二に、神の国は近づきました。神の国とはどのようなものでしょうか。

神の国をマタイによる福音書では、天の国と呼びます。天の国、天国と言いますと、この世の後の世界という感じもします。神の国の前に、そもそも国とはどのようなものでしょうか。国には一般的には、構成をする3つの要件があると言われます。それは、国民、領域、主権(権威)です。

日本という国の構成要件は、日本国籍を持つ国民と、日本という領域(領土、領空、領海)、日本政府という主権になるでしょうか。聖書で国という場合は3つ目の主権の意味合いが強くなります。これは一般の場合でも同じです。

1991年にソ連という国が崩壊してソ連という国は無くなりました。その2年後の1993年に私は旧ソ連のロシアに行って、ソ連が無くなったことの意味を改めて考えさせられました。ソ連が無くなっても、ソ連の国民だった人たちが急にいなくなった訳ではありません。ソ連の領域だった所も何も変わりません。「国破れて山河在り」です。

ソ連が無くなって、無くなったものはソ連という主権(権威)だけでした。ソ連という主権は、ロシア、ウクライナといった国々に分割されて受け継がれて行きました。国とは主権であるということの意味が良く分かりました。

以前、イスラム国が国家の樹立を宣言していました。イラクやシリアの領土を一部を自分たちの領土としていました。しかしいくら自分たちがイスラム国の樹立を宣言しても、イスラム国の樹立を承認した国は一つもありませんので、それでは国として認められません。

国とはある主権が支配を行っていて、その主権に従う人がいて、その主権が認められる必要があります。その意味で、「神の国は近づいた。」ということはどのようなことを意味しているのでしょうか。神の国とは、神の主権が支配して、神の主権に従う人がいて、神の権威が認められているところです。

1章の後半には、主イエスの権威によって病が癒され、悪霊が追い出される記事が続いています。それは主イエスの権威が支配し、その権威に従う者がいて、その権威が認められています。これは神の国が始まったということです。「神の国は近づいた。」という文章の「近づいた」は完了形で書かれています。

神の国は、既に始まりましたが、未だ完成はしていません。神の国が完成するのは、この世の後のことになります。しかし私たちが神の権威を完全に受け入れて、従っているときに、そこは神の国となっています。神の国は4:31のからし種のたとえのように、まだ小さいものかも知れませんが、決して見過ごしてはならない大切なものです。

そこが例え寝たきりのベッドの上であるとしても、病院や施設であったとしても、神の国は存在します。主イエスによって神の国は私たちに近づいてくださいました。しかし、「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。」という諺があります。

神の国は向こう側から近づいていて私たちの目の前にあります。ただその神の国に入るかどうかは私たち一人一人の決断次第です。神の国に入ることは救われることです。主イエスは、第三に、「悔い改めなさい」 第四に、「福音を信じなさい」と言われます。「悔い改める」と「福音を信じる」というのはどのようなことでしょうか。

悔い改めるとは向きを変えることです。今まで自分を中心に考えていたことから、神を中心に考えて、神の御言、御心に従うことです。悔い改めるとは、神の御言に従うことですから、神の福音を信じることです。他の言い方をしますと、悔い改めること無しに福音を信じることは出来ません。

聖書を信じることができない、福音を信じることができないという場合は、悔い改めていないことが多いものです。そのような意味で、悔い改めることと福音を信じることは同じことです。悔い改めて、福音を信じる人は神の国に入り、主にある平安を得ます。

クリスチャンとしての生活を健全に長く続けている人は、神の国の経験をきちんとしている人です。神の国の経験をしている人は、その喜びと平安は何にも代えがたいものですから、何よりも優先するようになります。皆さんにとっての神の国の経験はどのようなものでしょうか。

2、人間をとる漁師
4つの福音書の中でマタイとマルコは、主イエスが福音の宣教を始められた記事の直後にこの4人の漁師を弟子にする記事を置いています。そこには明確なメッセージが込められています。それは福音の宣教のために弟子が大きな役割を担うということです。主イエスが天に帰られた後、福音は弟子によって宣べ伝えられて行くことになります。
主イエスは、ガリラヤ湖のほとりを通っていたとき、シモンと兄弟のアンデレが湖で網を打っているのを御覧になりました。ガリラヤ湖は南北が20km、東西の幅の広いところが12kmで、霞ケ浦よりやや小さいようです。シモンはペトロのもう一つの名前です。

聖書で、「見る」ということは大きな意味を持ちます。人間は誤った見方をしてしまうことがありますが、神である主イエスは誤ることなく正しく、その人の未来も見通します。主イエスは人を御覧になられた上で、弟子として召されます。ここで大切なことは、主イエスの働きを担う弟子は主イエスご自身が召されることです。

キリスト教界でも弟子訓練ということが言われることがあります。しかし、それに対する疑問の声も聞かれます。全てのクリスチャンが学びをすることは良いことです。しかし全てのクリスチャンが弟子を持つように召されているとは限りません。自分が何に召されているのか主の声を聴く必要があります。

二人は漁師でしたが、主イエスが、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われると、二人はすぐに網を捨てて従いました。漁師である二人にとって、魚をとることは生活の糧を得ることです。そして網はその糧を得るための漁師にとって大切な道具であり財産です。

しかし二人はすぐにその大切な財産を捨てて従いました。この箇所は、8:34で主イエスが、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」と言われた御言を思い起こさせます。

魚を網でとれば売るなどしてお金になります。人間をとって果たしてどうなるのでしょうか。彼らにはそのような計算等はなかったと思います。ただ主イエスに声を掛けられたから従っただけのことでしょう。そこには神である主イエスが支配され、それに従うシモンとアンデレがいて、そこは神の国になっていました。

主イエスがまた、少し進まれて、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになりました。すると彼らも父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、主イエスの後に付いて行きました。

ヤコブとヨハネの父ゼベダイには雇い人がいますので、おそらく彼らの家は網元のような裕福な感じであったと考えられています。そのような彼らも主イエスに召されるとすぐに付いて行きました。このマルコの記事とマタイ4:18~22を読むと、この4人は主イエスから召しを受けてすぐに従ったような感じがします。

しかし、ルカ5:1~11では、この4人は夜通し漁をしたが何も捕れませんでしたが、主イエスの指示に従って網を降ろしたところ、おびただしい魚が捕れる奇跡があった後に、召しを受けて従っています。ヨハネ1:35~42では、アンデレは初めは洗礼者ヨハネの弟子でした。しかし、ヨハネの指示で主イエスに従って、主イエスが泊まっているところに泊まった後に、自分の兄弟シモンを主イエスに紹介しています。

他の福音書に書かれているように途中には色々なストーリーがあったのだと思います。しかしこの福音書を書いた、シモン・ペトロの通訳だったと思われるマルコにとって大切であり強調しているのは、4人が主イエスの召しにすぐに応じたということです。

4人にとって主イエスからの召しは、何か神秘的な特別なことではありません。シモンとアンデレは湖で網を打つという、毎日のように行っている仕事中の出来事でした。ヤコブとヨハネも舟の中で網の手入れをするという毎日のように行っている仕事中の出来事です。

彼らはその時に、今は仕事中で忙しくて、主イエスの声にかまっていられないというようなことは全くありませんでした。もしかすると、人間をとる漁師ということの意味がどのようなことか分からなかったかも知れません。ただ主イエスの声に従っただけなのかも知れません。

しかしそこには自分の生活の全てを捨ててでも従う価値のあるものを感じたのでしょう。これは私たちにとっても同じことが起こるかも知れません。この4人の漁師たちのように、毎日の何気ない生活の中で、突然に主の召しを受けることがあるかも知れません。

それはこの4人のように、普段の生活の全てを捨てて、主イエスに従うということではないかも知れません。しかし全てのクリスチャンは主の召しに従って救われる者です。主は一人一人のクリスチャンを御覧になられて、それぞれのクリスチャンに主の御計画があります。

何か主の召しを受けていると感じるものがありましたら、主にお祈りをしましょう。それはこの4人の漁師の召しのような大袈裟なものではないかも知れません。それは誰かに手紙を書いてみるとか、電話をしてみるとか、会ってみるといったような、一見、些細に見えるものかも知れません。

しかしそれは神の福音を宣べ伝えるための主の御計画かも知れません。主は私たちを用いて福音を宣べ伝えられます。神の福音は私たちの手に委ねられています。

3、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。2千年前に主イエスがこの世に来られて、神の国は近づき、神の国の働きは始まりました。聖霊の導きに従って、悔い改め、福音を信じさせてください。そして神の福音は4人の漁師が弟子として召されたように、クリスチャンの手に委ねられています。

どうぞ私たち一人一人が主の召しに従って、神の福音を宣べ伝える者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。