「罪を赦す権威」

2024年11月24日礼拝式説教  
マルコによる福音書2章1~12節
        
主の御名を賛美します。先週の日曜日に兵庫県知事選挙が行われて大きな話題となりました。内部告発文書問題で斎藤知事が県議会の全会一致で不信任決議を受けて失職しました。しかし実際には、斎藤知事の改革によって利権を奪われる人たち等が斎藤知事を陥れたことが明るみに出て、再選を果たしました。人の罪の恐ろしさを感じます。

1、体の麻痺した人
主イエスが先週の規定の病を患っている人を清められてから数日の後に、再びカファルナウムに来られました。そして家におられることが知れ渡りました。主イエスはナザレのご出身で、カファルナウムに家はありませんので、この家は1:29節のシモンの家だと思われます。

主イエスが大勢の病人を癒し、多くの悪霊を追い出した話が広がって行き大勢の人が集まりました。戸口の辺りまで全く隙間もないほどになったと言いますので、正にすし詰め状態だったことでしょう。主イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が体の麻痺した人を担いで主イエスのところへ運んで来ました。

「体の麻痺した人」を新改訳は「中風の人」と訳していますが、原語の意味は「身体不随の者」で病名は正確には分かりません。もしも中風でしたら、脳卒中等の後遺症による半身不随と思われます。
しかし、大勢の人がいて、御もとに連れて行くことができませんでした。

この状況は色々と考えさせられますが大きく二つのことがあります。一つは、この人たちのように主イエスの御もとに行こうとするときに困難が起こることがあることです。色々な集会等を行うときに、参加しようと予定していた方が、このようなときには行くのを妨害をするようなことが良く起こるということを言われることがあります。

もう一つは、その場にいる大勢の人たちの無関心です。四人の男が体の麻痺した人を担いで来ているのですから、その目的は主イエスに癒していただくためであることは明らかなはずです。しかし誰も場所を空けて彼らを迎え入れようとはしません。大勢の人がいますが皆、自分のことだけしか考えられていません。

教会を訪ねて来る方は、体の麻痺した人たちと同じような必死な思いを抱えて来ているのかも知れません。私たちは温かく迎え入れて、主イエスの御もとへと導く役割を果たしたいものです。

そのような困難にも関わらずに、彼らは全く怯むことはなく、主イエスがおられる辺りの屋根を剥がして穴を開け、病人が寝ている床をつり降ろしました。日本的な感覚からしますと、人の家の屋根を勝手に壊して何てことをするのだろうと感じるかも知れません。

しかしパレスチナの家の屋根は簡単な造りで、木のはりの上に枝を渡して、むしろなどの敷物を敷いた上に土を盛って踏み固めたものです。屋根を剥がして穴を開けるのは簡単だったようです。そして屋根に上る階段が外にあったようです。

床は藁の布団と思われ、四人の男がその四隅を紐で結んで、つり降ろしたのでしょうか。体の麻痺した人を何としてでも主イエスの御もとに行かせようとする四人の男たちの必死さが分かります。主イエスは彼らの信仰をご覧になられました。彼らの信仰とは誰の、どのような信仰のことでしょうか。

まずは四人の男の信仰です。四人の男は何としてでも体の麻痺した人を癒やしたいと願っていました。そのためには、主イエスの御もとに連れて行けば必ず、41節のように深く憐れんで癒してくださるという信仰を持っていました。信仰というのは人が何かを信じるというよりも、神の真実に対する信頼です。

そして彼らの信仰と言われる「彼ら」の中には、体の麻痺した人自身も含まれます。体の麻痺した人は、聖書協会共同訳では全ての人が自分のこととして受け止めるためにか、あえて性別を明記していない感じがします。「彼ら」に含まれていると言われればそうかも知れませんが。体の麻痺した人の原語の動詞は男性形ですので男で、新改訳では「彼」という男性の代名詞を使います。

体の麻痺した人の信仰はどのように分かるのかと思われるかも知れません。体の麻痺した人も主イエスの御もとに連れて行かれて癒される信仰を持っていました。もしも連れて行かれるのを望まないのであれば抵抗をしたはずです。全知全能の主イエスは勿論、この男の思いをすべてご存じです。
体の麻痺した人が自分は主イエスの御もとに連れて行かれて癒される信仰を持って、その4人の仲間も同じ信仰を持って助けました。

2、あなたの罪は赦された
主イエスはそのように人々が心を一つにして協力を行う信仰を喜ばれ、お応えになられます。その病人にまず、「子よ」と呼び掛けられます。「子よ」というのは、「神の子よ」という意味です。主イエスを信じる者は神の子とされますので、あなたは神の子となったという呼び掛けです。

続いて、「あなたの罪は赦された」と言われました。この言葉を聞いた人々は皆、驚いたことでしょう。
体の麻痺した人とその仲間の四人の男も含めて人々は、主イエスがされるのは病の癒しであると思っていたからです。しかしこれは人々の心に刺さる言葉であったことと思います。

この当時は医療の知識も余りありませんので、先週の規定の病を含めてすべての病は罪の結果であると思われていました。ヨハネ9:2で弟子たちは主イエスに、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」と尋ねています。

実際には、病と罪に必ずしも関係がある訳ではありません。ところで、罪を犯したことのない人はいません。体の麻痺した人は、あの時の、あの罪がこの麻痺を引き起こしたのかもしれないと悔やんでいたかも知れません。そのときに、病の根本的な原因と考えられていた罪の赦しの宣言をしてもらえたことは嬉しいことであったと思います。

病の癒しについて、1:34では病人の癒しでしたが、1:42では病の清めとなり、今や罪の赦しへと発展しています。殆どの病は罪とは関係は無いと思いますが、関係のあるものもあります。怒りや恨みを続けていると頭痛になったり、眠れなくなったりして体調を崩すことはあります。そのようなことを続けていると病気になることもありますので罪を犯し続けるのは危険です。

3、あなたの罪は赦された
話の動きとしましては、この後は11節に続きます。その間に6~10節の律法学者との論争が入ります。この文章は中心構造になっています。そこに律法学者が数人座っていました。

マルコによる福音書では1:22に律法学者の名前は出て来ますが、実際に登場するのはここが初めてです。

律法学者といいますと、悪の代名詞のような感じがしてしまいますが、何が問題なのでしょうか。律法学者は基本的には、とても真面目な人たちです。律法に熱心で、絶対に律法を破ることがないように、細かいルールを自分たちで作って行きました。

しかし、「木を見て森を見ず」という格言がありますが、律法学者は自分たちが作ったルールが絶対になってしまい、肝心の律法の御心を見失ってしまいました。律法学者の姿を見ていると、病的な程に執着心や拘りの強い罪の性質があります。

とても細かいことに拘る反面、自分の考えを絶対視してしまい、そこから離れることが出来なくなってしまいます。そして多くの問題を引き起こして行きます。人は誰でも多かれ少なかれ律法学者的な性質はあります。

律法学者たちは心の中で、「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒涜している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ。」と考えました。律法学者は聖書を良く知っていますので、救い主、メシアがこの世に来られることを知っています。

主イエスは大勢の病人を癒し、多くの悪霊を追い出す御業を行い、更に罪の赦しの宣言を行っているのですから、救い主かも知れないと考えるのが自然な感じがします。そしてそのことを人々に説明するのが律法学者の本来の役割です。

しかし当時の多くの人たちは、救い主はダビデの子ですから、ダビデ王のような政治的・軍事的な力を持つ人物であろうと期待して、思い込んでいました。そして自分たちの思い込みの人物像とは異なりますので、神である主イエスに対して、神を冒涜していると考えるような、正に神を冒涜することを自分自身が行っていました。

「罪」という言葉の元の意味が、「的外れ」ということが良く分かる気がします。人が集まるところでは教会を含めてどこでも色々な問題が起こるものですが、その根本の原因となるものは律法学者的な、的外れの問題が多いようです。特に熱心な的外れは、とても大きな問題を引き起こします。律法学者たちは本来はとても熱心な人たちですので、その熱心さが正しい方向に行かないのは残念です。

4、罪を赦す権威
主イエスは、彼らが考えていることを、ご自分の霊ですぐに見抜いて、「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。この人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と言われました。どちらが易しいのでしょうか。ここでは、どちらが易しいかということが問題の本質では無いと思います。

しかし折角ですので少し考えてみたいと思います。まずここでの問いは、どちらを「言う」ことが易しいかと言っています。どちらを実際に行うことが易しいかと言っているのではありません。まず初めはどちらを実際に行うことが易しいかを考えてみましょう。

全能である主イエスにとられては、どちらでも同じだと思います。しかし人間の目から見ますと、罪の赦しは、律法学者の言う通りに、「罪を赦すことができるのは、神おひとり」ですので、より難しいでしょう。起きて床を担いで歩かせるのも難しいでしょうが、全く不可能ではなさそうな感じがします。

では言う場合には、どちらが易しいでしょうか。「あなたの罪は赦された」と言う場合は、実際に罪が赦されたという証明は何もなく、言ったもん勝ちのような感じですので、易しい感じがします。「起きて、床を担いで歩け」と言う場合には、誰の目にも結果がはっきりと見えるので難しいでしょうか。

言われる体の麻痺した人の立場からはどうでしょうか。先程、お話しましたが、病の原因は罪であると考えられていた時代にあって、「あなたの罪は赦された」の宣言は有難いものであったと思います。罪の赦しである新生の後には、四重の福音にありますように、神癒が続きます。

因みにヨハネ5章のベトザタの池の回廊で38年病気で苦しんでいた人には、先に「起きて、床を担いで歩きなさい。」と言われて、癒しの後に、「もう罪を犯してはいけない。」と言われました。全能の主イエスはその人に応じて、それぞれに相応しい対応をされるようです。

ところで律法学者の言った、「罪を赦すことができるのは、神おひとりだ。」というのは正しいことです。そこでその言葉にお応えになられるように、中心構造の対になる言葉として、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言われます。

「人の子」はダニエル7:13、14にあります救い主の称号で、主イエスがご自身を指すときに使われます。そして「罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」という言葉は話の流れから明らかに律法学者を対象にしています。それは律法学者が不信仰に陥らないように、又、他の人々にも知らせるためと考えられます。

そして体の麻痺した人に、「起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」と言われると、言葉は出来事となって、その人は起きて、すぐに床を担いで、皆の見ている、前を出て行きました。これは4節で、皆の見てる前を、寝ている床でつり降ろされた人が、床を担いで自分の足で起きて立ち上がって歩いて出て行くという、ドラマティックな光景です。

律法学者は主イエスが、人の子である救い主が罪を赦す権威を持っていることを知らせようと言われて、御業を行われたことをどのように受け止めたのでしょうか。この後を見ましても、残念ながら心の頑なな人には、神である主イエスでさえ、何を言っても、何を見せても、真実を受け入れてもらうのは難しいようです。

その一方で、聖書のことは余り良く知らないと思われる人々は皆驚嘆し、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を崇めました。とても正直です。聖書には、主イエスが救い主であり、罪を赦す権威を持っておられるとはっきりと書かれています。

間違ってしまったり、罪を犯してしまったときには、悔い改めるならすべて赦されます。聖霊の力によって、律法学者のように頑なにならず、素直に悔い改め、神を崇めて幸いな歩みをさせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。体の麻痺した人と四人の男は、素直に主イエスによる病の癒しを求め、罪まで赦されました。私たちは誰でも律法学者のような頑なな罪を持つものです。聖霊に力によって頑なな罪から私たちを解放し、信仰深い歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。