「主イエスの宣教」

2024年11月3日礼拝式説教
マルコによる福音書1章29~39節
        
主の御名を賛美します。

1、シモンのしゅうとめ
今朝の聖書箇所の初めの3行は、一見すると何気ない感じの文章です。しかし色々なことを考えさせられるドラマティックな文章です。まずこれは、何曜日の何時頃のことなのでしょうか。これは先週の21~28節の続きの話ですので、安息日で、この当時は土曜日です。

主イエスは礼拝の説教の御用を終えられ、汚れた霊を追い出された後のことですので、おそらくはお昼頃ではないかと思います。一行はカファルナウムにあるシモンとアンデレの家に行きました。その家には誰が何のために行こうと言い出したのでしょうか。

シモンとアンデレではないと思います。二人は18節で、網を捨てて主イエスに従いました。その時に二人は漁師にとって大切な網を捨てたことをお話しました。しかしシモン(ペトロ)は網よりももっと大切なものを捨てて主イエスに従っていました。シモンのしゅうとめがいるということは、シモンの妻の母ですので、シモンは妻を捨ててかどうか分かりませんが置き去りにして、主イエスに従っていたということです。

先週、発達障害の学びの講座を教会で行いましたが、シモンは発達障害だったのではないかと言われています。シモンは湖の上を歩かれる主イエスを見ると、私も水の上を歩かせてくださいと言って歩き、風を見て怖くなると沈みかけて「主よ、助けてください」と叫びます(マタイ6:25~30)。

主イエスが弟子の足を洗うと言われると、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いますが、主イエスが「私が足を洗わないなら、何の関りもなくなる」と言われると、「主よ、足だけでなく、手も頭も」(ヨハネ13:8、9)というような少し突飛な言動が目立ちます。

なぜこのような一見するとコミカルな感じもする書き方を聖書がするのかと思いますが、これはシモンが発達障害であったことを現代に伝えるための聖書の知恵だと思います。しかしシモンは純真で真っ直ぐな性格であり、妻を捨ててまでも自分に従ったシモンを主イエスは愛され、用いられてシモンの献身に報いられます。

家族を捨てて主イエスの従ったシモンとアンデレが、おめおめと皆で自分たちの家に行きましょうと言ったとは思えません。全知全能であり、シモンのしゅうとめが今、熱を出して寝ているのをご存じの主イエスが、シモンとアンデレの家に行こうと提案されたのだと思います。並行記事のマタイとルカの福音書を見ましても、主イエスが主導されている感じがします。

シモンのしゅうとめが熱を出して寝ているのを知った人々は早速、しゅうとめのことを主イエスに話しました。人々は主イエスが少し前に会堂で汚れた霊を追い出されたので、何とかしてくださると期待したのでしょう。これは正しいことです。私たちも何かがあるときには、主イエスに話すことが大切です。

神は全知全能なのだから人が何かを話さなくても、どうせ全部ご存じなのでしょうと思われるかも知れません。それは、兄弟、夫婦、親子等の家族の会話と似ているのかも知れません。言わなくても分かっているのだから何も言わなくても良いということではありません。神は人と交わることを大切にされます。

神と交わり、あのときに神にお話をしたら、このように応えてくださったというように、交わることによって神との信頼関係を強めて行きます。神と交わることは、人間が信仰を強めて行くために必要なことです。

主イエスはしゅうとめのそばに行き、手を取って起こされると、熱は引き癒されました。手を取って起こされるということに、ぬくもりの伝わる優しさを感じます。ただ現代では特に異性間の接触ではセクハラの問題等にもなりかねませんので、異性に対する接触には配慮が必要です。

その後の、しゅうとめは一同に仕えたという文章には驚きます。普通は熱が引いた後は、だるさ等が残りますので、一同に仕えるどころか仕えて貰いたいと思うところだと思いますが、仕えることが出来たということは、これは完全なる癒しの業であったということです。

「仕えた」を新改訳は「もてなした」と訳していて、これは食卓で給仕をすることを意味しますので、これはお昼ごはんだったのでしょうか。「仕えた」という言葉は原語のギリシャ語では未完了過去形で、完了していませんので、仕えることは繰り返し行われたということです。

それでこの家がカファルナウムの宣教の拠点になったと考えられます。しゅうとめの姿は、主イエスの御業に与る者は、その応答として自分が主イエスに対して出来ることを行い、仕える者になることを教えられます。これは義務ではなく、自分から喜んで行う応答です。

ところでシモンの妻はどうなるのでしょうか。Ⅰコリント9:5を見ますと、信者となってシモンと行動を共にするようになることが分かります。主イエスは、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」(8:34)と言われますが、従う者には大きな報いを与えてくださいます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)の御言の成就です。

2、癒しと悪霊の追い出し
一行は安息日の午後に少しは、くつろぐことが出来たでしょうか。夕方になって日が沈むのを待っていた人々がいました。会堂で汚れた霊を追い出した話を聞いた人々です。日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、御もとに連れて来て、町中の人が戸口に集まりました。

自分たちの病人や悪霊に取りつかれた者も主イエスの御もとに連れて行けば何とかしていただけると思ったのでしょう。ところで人々はなぜ日が沈むのを待っていたのでしょうか。二つの理由が考えられます。これは主イエスがそのようにお考えになられていたのではなく、人々の考えです。

一つは、日が沈むまでは安息日ですので、病人を癒したり、悪霊を追い出すことは仕事と考えられて禁じられていました。主イエスは25節で安息日に汚れた霊を追い出されましたが。もう一つは、病人や悪霊に取りつかれた者を運ぶ場合には、それも仕事と考えられて禁じられていました。とても窮屈です。

主イエスは人々の期待にお応えし、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒やし、多くの悪霊を追い出されました。病人と悪霊に取りつかれた人は区別されています。悪霊が主イエスの正体を知っていたので、悪霊がものを言うことを主イエスはお許しになりませんでした。

悪霊は主イエスが神の聖者であることを知っていますが(24節)、主イエスは悪霊によってそのことがPRされることを望まれません。主イエスは、心からそのことを信じて従うシモンのような人に、「あなたこそ、メシアです。」(8:29)と告白されることをお望みです。

今日の聖書箇所には「悪霊」が5回使われて強調されています。異邦人のガリラヤ(マタイ4:15)ですので、異教による悪霊の働きが多かったのだと思われます。汚れた場所を綺麗にするためにまず初めにすることは汚れたものを取り除いてなくすことです。

主イエスが後でエルサレムに入城されて一番初めにされるのも、神殿の境内の中で商売をしている人々を追い出す宮清めです(11:15、16)。私たちもまず初めに、聖霊によって私たちの中にある肉の思いや罪を追い出して、清めていただきたいと思います。

3、主イエスの宣教
主イエスは日が沈んでから、大勢の病人を癒され、悪霊を追い出されて、何時頃に寝ることが出来たのでしょうか。それでも、次の朝早くまだ暗いうちに、起きて、寂しい所へ出て行き、祈っておられました。寂しい所というのは、どのような所なのだろうかと思いますが、原語を見ますと、荒れ野(12節)と同じ言葉が使われていますので、何もない荒れ野で祈っておられたようです。

シモンとその仲間は主イエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言いました。シモンとその仲間と言いますので、シモンは4人の中で年長の既にリーダー的な存在だったようです。主イエスは昨晩、病人の癒しと悪霊の追い出しで大忙しで大活躍をされました。

人々は主イエスを見たい、もっと病人の癒しと悪霊の追い出しをして欲しいと願っていたのかも知れません。シモンたちはその主イエスの弟子たちとしてとても誇らしく、シモンの家に戻って、皆からまた、もてはやされることを望む気持ちがあったことでしょう。

しかし主イエスは、「近くのほかの町や村へ行こう。」と言われました。弟子たちには残念な言葉だったかも知れません。主イエスは昨日の慌ただしさの後に、荒れ野に出て行かれ、静まって父なる神の御心を聴かれたのでしょう。そこでご自身に与えられている役割を再確認されたのだと思います。

そしてほかの町や村でも、私は宣教すると言われます。宣教とは15節の御言を伝えることです。病人を癒し、悪霊を追い出すことは、そのことをしていただく人にはとても大きな大切なことです。しかしそれは主イエスの本来の目的ではありません。主イエスの目的は宣教をして、人々が福音を信じて救われることです。

「私はそのために出て来たのである。」と言われます。「出て来た」というのは、狭い意味ではガリラヤに出て来たとも思われますが、この世に出て来たという意味でしょう。そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されました。38、39節で2回、宣教という言葉を使って強調します。

悪霊を追い出すのは、あくまでも宣教をして、神の国は近づいたことを証明するためです。主イエスは宣教の初めに4人の漁師を弟子として招かれました。それは宣教とはどういうことであるかを主イエスが弟子たちと寝食を共にして人格を通して伝えるためです。

主イエスと弟子たちが共に過ごした期間が3年とも考えられることも影響してか、東京聖書学院も全寮制で3年間となっています。私は今の教団委員長の佐藤義則先生が舎監として3年間を共に過ごして教えてくださったことを感謝しています。

主イエスはこれからも弟子たちと共に過ごして、宣教をすることがどういうことであるのかを身を持って教えて行かれます。そしてご自身の宣教の集大成として全ての人の罪の赦しのために十字架に付かれます。私たちはその主イエスの十字架によって救われることを聖書をとおして知ることが出来ます。

主イエスの十字架による贖いに感謝して救いにまず与らせていただきましょう。そして救われる私たちに主イエスは宣教の業を委ねられます。主イエスが全ての人の救いのために宣教をされたように、主イエスの宣教のために例え小さな働きであったとしても、私たちも用いていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスはご自身の招きに応じて全てを捨てて従ったシモンの家族を祝福されました。また病人を癒され、悪霊を追い出されても、ご自身の栄光を求めるのではなく、人々の救いのために宣教に邁進されます。どうぞ全ての人を救いに与らせてください。そのためにも先に救われた人も、それぞれの役割に応じて宣教の業に与らせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。