「 約 束 の 成 就 」
2024年12月1日礼拝式説教
ルカによる福音書1章26~38節 野田栄美
① アドベント
今日からクリスマスを待ち望むアドベントに入りました。先週は金曜日と土曜日に飾り付けが行われました。ご奉仕をしてくださった方に感謝いたします。飾りつけをすることも、飾り付けられたのを見ることもとてもわくわくするものです。クリスマスの飾りと共に、自分の心の中も、クリスマスを待ち望む心にさせていただきましょう。
今日お読みした聖書箇所は、とても有名な話です。この場面は受胎告知とも言われ、世界の宗教絵画の中には、何枚もこの場面を描いたものがあります。そして、多くの場合、おとめマリアに注目します。私も今までこの場面でのマリアの言葉に注目していました。そこには、信仰深いマリアの様子が語られているからです。けれども、今日はこの場面から、神のしてくださったことを聞いていきましょう。
② ダビデの家
今日の聖書箇所の前には、祭司ザカリアへの天使のみ告げの場面が書かれています。そのことがあってから6ヶ月目に、神は天使ガブリエルをガリラヤ地方にあるナザレという町に遣わされました。そこには、マリアという一人のおとめがいました。彼女はダビデ家のヨセフという人の婚約者です。この「ダビデ家」というのは、とても重要な意味を持っています。
ダビデというのは、この時から約千年前のイスラエルの偉大な王でした。彼がイスラエルの王になったとき、預言者ナタンを通して、非常に重要な約束が神から与えられました。その預言は、サムエル記下7章1~17節に書かれていますが、16節にはこうあります。
「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。
あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」
この預言がされた時は、ダビデの王座が子から孫へと引き継がれて、イスラエル王国が永遠に続いていくのだろうと受け取られたでしょう。しかし、この王国は子の代で神から離れていき、孫の代であっけなく二つに分離してしまいます。その後、イスラエル王国は神捨てて、滅びへの道を辿っていきます。
イスラエルが神を捨てた時、ダビデへの預言はどうなってしまったでしょうか。実は、その後もダビデに与えられた神の約束は、繰り返し預言者によって語り続けられました。詩編や幾つかの預言書にその約束を見ることができます。(詩編、イザヤ書、ホセア書など)それらの預言には、いつかダビデの家系に、イスラエル王国を再興する者を誕生させるという約束が加わっていきました。
マリアが生きていた時代には、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していましたが、人々は、いつかダビデの家から偉大な指導者が生まれると希望を持ち続けていました。
③ 天使のみ告げ
さて、マリアの話に戻りますが、そのマリアに天使が現れて「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」と言いました。突然現れた天使、そして、何の挨拶かも分からない状況に、マリアはひどく戸惑います。恐れを感じていたことは、天使が「恐れることはない」と声を掛けていることからも分かります。天使は続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。」この言葉は、ダビデへの預言の中にある言葉でした。
イザヤ書7:13、14には「聞け、ダビデの家よ。……見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」とあります。
更に、天使が語ったのは「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は、永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」ということでした。
この言葉も、イザヤ書9:5、6に預言されている内容と一致しています。「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。主権がその肩にあり、……その主権は増し、平和には終わりがない。ダビデの王座とその王国は 公正と正義によって立てられ、支えられている。今より、とこしえに。」
表面的には、天使がマリアに身ごもることを伝えた場面ですが、この場面には、もう一つの意味がありました。それは、ダビデ王に語られた神からの約束が成就した瞬間であったということです。
④ 神による命
それであれば尚更、マリアは、大変重いことがらが自分の身に起きていることを、分かりつつあったでしょう。マリアは天使に言いました。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」マリアは、社会的にはヨセフの妻であっても、まだ婚約中の身でした。子どもを身ごもるなど、物理的にあり得ないことでした。
どのようにして、おとめが身ごもることができるのか、天使は続けて説明します。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。」(35節)この「覆う」とは、先が見えない程の雲に包まれるように、神の臨在に包まれることを言います。聖霊によって、神の力が完全に働き、おとめマリアは身ごもりました。これは、この世界の全ての命を創造された神ご自身のみができるみ業です。この神による命を持って、生まれてくる子は、聖なる者であり、神の子と呼ばれます。
⑤ マリアの窮地
マリアは、ユダヤ人です。それも、神の前に正しい人であるヨセフと婚約していたことを考えると、マリヤ自身も神の前に正しい信仰を持った人だったでしょう。天使が自分の前に現れたこと、聖書に預言されているダビデへの約束の言葉が天使から語られていること、そして、その子どもの命がどのように与えられるかを知って、自分が神の預言のみ業に用いられていることを理解したでしょう。そこに恐れがなかったはずはないと思います。
先程、お話ししたように、マリアは婚約中の身でした。この時代のイスラエルの婚約は、現代の婚約とは違うところがあります。結婚を約束しているということは同じですが、社会的には妻と見なされていました。婚約期間である1年間は、まだ、一緒に暮らし始めませんが、この期間に不貞があればそれは姦淫の罪とされます。もし、妊娠したことが明らかになれば、ヨセフと結婚することはできなくなるでしょう。場合によっては罪に問われて、死罪となるかもしれません。彼女の人生の全てが崩れていく瞬間でもありました。
⑥ マリアへの励まし
ここで、今日の聖書箇所の一番最初の言葉を見て見ましょう。この箇所は、「六ヶ月目に」という言葉で始まっています。これは、最初にお話ししたように、ザカリアが天使のみ告げを受けた時から6ヶ月目だということを示しています。そのみ告げとは、妻のエリサベトが妊娠するというものでした。
エリサベトは年を取っていました。更に結婚してから子どもが与えられず「不妊の女」と言われていました。人間的に見れば、もう、決して子どもを授かることはない女性でした。しかし、天使が告げたとおりエリサベトは身ごもりました。これは、神のみ業です。エリサベト5ヶ月の間身を隠していましたので、親類であるマリアもその妊娠の事実をこの時まで知りませんでした。
マリアは、天使ガブリエルが言った言葉によってエリサベトのことを知りました。自分は神のご計画により子どもを授かる、その事実を受け入れなければならない時に、長年親しくしている親類のエリサベトも同じように神の力によって、奇蹟によって身ごもっている。このことが、彼女にとって大きな励ましになったことは想像に難くありません。
今日の聖書箇所の直ぐ後の言葉は、このようになっています。39、40節「その頃、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶をした。」マリアは直ぐに急いでエリサベトの所へ行きました。天使の言葉の中で、彼女を大きく励ました事実を確認したかったでしょう。そして、エリサベトに自分の身に起きたことを話し、励まし合いたかったに違いありません。自分と同じ体験をしている人と話すことは、私たちを力づけ、励ましてくれます。
この後、2人が会った時に何が起こったかを読んでいただけたら、そこに神が共におられて、二人はその神の働きにより、心から神をたたえていることが分かります。神は二人を大切に思い、エリサべトにはマリアを、マリアにはエリサベトを備えてくださっていたことが分かります。
⑦ 神のみ業
今日の場面には隅々まで神がおられます。千年も前にダビデ王に語られたイスラエルへの約束を成就されたのはどなたでしょうか。神以外にありません。そして、おとめが身ごもるなどとあり得ない奇蹟を行うことができるのは、神以外にありません。また、その大きな使命を担うことになった一人の若いおとめに、その荷を分かち合うことができるエリサベトを備えてくださったのは、どなたでしょうか。それは、神ご自身です。
「神にできないことは何一つない。」この事実を、この聖書箇所は隅々に至るまで語り尽くしています。
そして、この時はまだお生まれになっていませんが、マリアに宿られたこの命は、神の国の支配を私たちに与え、永遠に神と共にいることができるようにしてくださる主イエスです。主イエスは、マリアと同じように私たちにも聖霊を与えてくださる方です。神が共におられる時、私たちはマリアのように「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」と、お答えする者に変えていただけます。それは全て神がなさることだと、この聖書箇所は教えています。