「すべての人を照らすまことの光」

2024年12月15日礼拝式説教  
ヨハネによる福音書1章6~13節
     
主の御名を賛美します。先日、夕方に何気なく目を上げて月を眺めました。昼間に月を見ると白く見えるのは何度か見て知っていました。しかしその日はまだ太陽が沈む少し前で、太陽の光が月に当たっている部分が白く光って見えることを意識して、月と太陽を眺めたのは初めてでしたので感動しました。因みに今日は満月ですので、どのように見えるのかと思います。

1、証し
前回の1~5節は、主イエス・キリストは言であり、命であり、光である神であることについて御言を聴きました。今日の前半はヨハネについてです。ヨハネによる福音書1章は、主イエスとヨハネの内容を交互に書く、ミルフィーユのような書き方です。

ヨハネと言っても、このヨハネはヨハネによる福音書を書いたヨハネではありません。ヨハネによる福音書を書いたヨハネは、この福音書の中でヨハネという自分の名前を一度も出しません。ヨハネによる福音書に書かれているヨハネは洗礼者ヨハネのことです。

洗礼者ヨハネの母エリサベトは主イエスの母マリアの親類ですので、ヨハネは主イエスより半年年上の親類です。ヨハネが神から遣わされた目的は証しのためです。7、8節で3回、「証しのため」と言って強調します。洗礼者ヨハネと良く言われますが、証し者ヨハネとも言えます。

そして証しは何についてかと言いますと、「光について」と2回言います。光は主イエス・キリストです。この箇所は証しとは何かということを教えてくれます。証しとは光である主イエスについて証言を行うことです。

またヨハネのことをメシアかもしれないと考える人もいましたので、自分は光ではないこともはっきりと証言しました。それで私たちも証しをするときに、証しの中心が主イエスからずれてしまって、自分に向いてしまうと的外れになってしまいます。

証しの目的は、彼であるヨハネによって人々が主イエスを信じる者となるためです。ヨハネの名前は、「主は恵み深い」という意味ですので、ヨハネは名前のとおりに、主の恵み深さを証しします。私たちの証しの目的も、聞く人が光である主イエスを信じる者となるためであり、既に信じている人に対しては信仰を強めるためです。

2、光
まことの光がありました。それは先週の、初めにあった言であり、命であり、光である主イエスです。まことの光という言い方からしますと、まことの光ではないけれど、光のようなものもあるということです。例えば科学万能主義の考えで科学こそ光であるとか、宗教や思想等でしょうか。

しかしまことの光は主イエスであり、主イエスはクリスマスにこの世に来られて、すべての人を照らします。それはこの世は暗闇であるということです。主イエスがこの世に来られる前から、火による明かりがあったことは聖書に書かれています。
しかし物質の明かりでは見ることの出来ないものを、主イエスの光は霊的な光として照らして、必要なことを見させてくださいます。それは具体的にはどのようなことなのでしょうか。具体的な例として、私たちは色々な人生の岐路に立たされたり、選択を迫られることがあります。それは小さなことから大きなことまで色々なことがあります。

小さなことですと、今日の買い物はどのスーパーに行こうかとか、行くのはお昼に行くか夕方に行くか等がありますでしょうか。大きなことですと、これからどこに住むのか、どの仕事に就くか、誰と結婚するか等があるでしょうか。大切な判断をするときには、まことの光に照らして正しく見る必要があります。

神を信じる信仰者は、いつも御心を求めて祈りますが、基本的には申命記28:3の、「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。」の御言のとおりに、神が共におられるので、どこにいても、何をしても、どちらを選んでも祝福されます。

しかしいつも何を選んでも良いとは限りません。それは神の御心がはっきりと示されているときです。例を上げますと、民数記13章で、イスラエルの12部族から指導者12人を偵察隊としてカナンの地に送ったときのことです。

神の御心は明らかに神が与えると約束されたカナンの地に上って行くことでした。しかし、イスラエルは自分たちの考えで先住民の巨人を恐れて、神の約束の地について悪い噂を広めて御心に従いませんでした。その結果、荒れ野を38年間、彷徨うことになってしまいました。

それとは意味は少し違いますが私は似たような経験をしたことがあります。何年か前の正月に初めての丹沢大山への登山に一人で行ったときのことです。正月の寒い時期に登山をする物好きなどはいないだろうと思っていたところ、山の中腹にある神社の初詣もあって大混雑でした。

私は気持ちが焦って、下山ルートの見晴台から本来は折り返すようなルートだったのですが、気付かずに真っ直ぐに進んでしまいました。その結果、大きく遠回りをするルートになってしまい、2時間以上の遠回りとなってしまいました。

その後も、2年前の夏に茶臼岳(那須岳)に次男と二人で登って、山の上の方を少し回るルートを歩きました。以前にも歩いたルートだったので油断もしていて、分岐で休憩をした後に、そこから下山ルートに歩き出そうとしました。すると次男がその道ではないと言って教えてくれました。

下山ルートですので降りることは出来ますが、私たちはロープウェイの下りのチケットも買っていましたので、ロープウェイの駅に戻る必要がありましたし、そのロープウェイで降りた所に車を停めていました。次男が気付かなかったら、夏の暑い日に大きな遠回りをしなければなりませんでした。

私はこの2回の経験から、登山経験は少ないですが、登山で一番に大切なことは、分岐で間違えないことと思うようになりました。それからは登山での分岐では、ゆっくりと確認をするようになりました。人生の分岐においては、まことの光である主イエスの光に照らして、御心を慎重に確認する必要があります。
それはどちらを選んでも良い場合もありますが、正しい方を選ばないと遠回りになってしまう場合もあるかも知れません。そのこともまことの光に照らして見極める必要があります。

言は天地創造の前の初めからあり、世は言によって成りましたが、世は言を認めませんでした。言はご自身が造られた、ご自分のところに来られましたが、民は言を受け入れませんでした。それはなぜなのでしょうか。まことの光はすべての人を照らすので、人は真実が良く見えるようになって有難いはずです。

しかし、人は多かれ少なかれまことの光に照らされるのを好まない闇の部分を持っているものです。人は罪を持っていますので、自分にとって都合の良いところは光に照らされたいと思うのですが、ここは都合が悪いので光を照らされたくない、闇の中で隠したいと思ったりするものです。

そうしますと自分を守って、正当化するために、光を認めずに、受け入れません。それが律法学者やファリサイ派の人々が主イエスを認めず、受け入れない理由なのかも知れません。罪人にとって、まことの光は真実であるが故に正し過ぎて、眩し過ぎるのかも知れません。不都合な真実なのでしょう。

3、神の子の権能
しかし神は人間が自分では正しい者となれない罪深さをご存じですから、罪人を救うために救い主イエス・キリストをクリスマスにこの世に遣わされました。そして言である主イエスは、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えられました。

私たちが行うことは、ただ主イエスを受け入れ、信じるだけです。受け入れ、信じるといいますと、人間に主体性があるような感じがしますがそうではありません。私たちは主イエスの真実に信頼し、自分を委ねて、むしろ、こちらが主イエスに受け入れていただく立場です。

主イエスを受け入れ、信じる人々に与えられる神の子の権能とはどのようなものでしょうか。「権能」は新改訳では「特権」と訳しています。まことの光は主イエスですが、主イエスを信じる神の子の権能の一つ目は光の子となることです。エフェソ5:8は、「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。」と言います。

「主にあって光となっている」ことは例えますと、まことの光である主イエスが輝く太陽としますと、クリスチャンは太陽の光に照らされて輝く月や星と言えます。月や星は光輝いて見えますが、月や星自体が輝いているのではなく、あくまでも太陽の光に照らされて輝いています。

それで自分が月や星のように輝きたいと思ったら太陽と向き合う必要があります。月や星が他の物の隅に隠れてしまったら輝くことは出来ません。自分が輝きたいと思ったら隠すことなく全面的に主イエスに向かって光に照らされる必要があります。

闇の部分があっても隠さずに主イエスに晒すなら主イエスの十字架による贖いによってきよめていただいて、光り輝きます。そして光り輝く目的は、あくまでも、まことの光である主イエスを証しするためであって、自分のためではありません。そして5節にありますように、闇は光に勝ちません。月や星を眺めて思いを巡らしたいと思います。

神の子の権能を与えられることは主イエスの光に照らされて光輝くだけではありません。主イエスは前回の内容で、光であると共に、言であり、命です。主イエスの御言は出来事となります。同じ意味で神の子の権能の二つ目は神の子の言も出来事となります。それは神の子であるクリスチャンの語る言葉が必ずしもすべて出来事になるという意味ではありません。

信徒のときに、ある牧師の語る言葉が出来事になるのを見たときに、この牧者は預言者なのかと感じたことがあります。しかし、これは牧師に限らず、クリスチャンが聖霊の導きに従って御言を語るなら、それは出来事となります。主イエスを信じれば救われることを語れば、それは出来事となります。

神の子の権能の三つ目は永遠の命に導くことです。神の子であるクリスチャンは新しい命に生きて、永遠の命を得ます。その新しい命を他の人に与えることは出来ませんが、主イエスを証しすることによって命に導くことが出来ます。証しは新しい命によって光り輝く生きる姿と、新しい命によって語る御言によります。主イエスは神の子の三つの権能を私たちに与えるためにこの世に来られました。

4、神によって生まれる
神の子となる人々は、血、肉の欲、人の欲の三つによらずです。一つ目の、血について、ユダヤ人は母親の血と父親の種から赤ちゃんは造られると考えていたようです。それはレビ記17:11の「命は血にある。」から来た考えかも知れません。そこから血によらずというのは、家系によらずということです。それで神の子となるのはアブラハムの子孫であるとか、親がクリスチャンだからというのは関係ありません。

二つ目の、肉の欲によらずについて、これは性的な欲によらずという意味であるという考えが自然であり多数派です。しかしこれは、何とかして神の子になりたいという肉的な欲求によるものではないという意味であるという考えもあります。それもなるほどと思わされる考え方です。

三つ目の、人の欲によらずも、二つ目の肉の欲によらずと同じで、性的な欲によらずという考え方が多数派です。しかしこれも、人の欲、願いによって、他人を神の子とさせることは出来ないという意味という考えもあり、それもなるほどと思わされます。

いずれの意味であるとしても神の子となる人々は、そのようなものによって生まれるものではありません。ただクリスマスに、すべての人を照らすまことの光がこの世に来てくださった恵みによって生まれます。聖霊の導きに素直に従って、まことの光を受け入れ、信じて、光の子として輝かせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。まことの光である主イエスは、クリスマスにこの世に来られ、すべての人を照らしてくださいますから有難うございます。私たちも聖霊によって、主イエスを受け入れ、信じて、光の子として主イエスを証しし、輝く者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。