「言、命、光の神」

2024年12月8日礼拝式説教  
ヨハネによる福音書1章1~5節
        
主の御名を賛美します。

1、ヨハネ
今年のアドベントはヨハネによる福音書から御言を聴かせていただきたいと思います。ヨハネによる福音書の初めといいますと、何か哲学的な、難しそうな内容のイメージがあります。しかしこの福音書を書いたヨハネは、一カ月半位前のマルコによる福音書によるとガリラヤ湖で漁をする漁師でした。

漁師を別に差別する訳ではありませんが、これが元漁師の書いた文章であるのかと思わされます。ヨハネは黙示録も書いて、その文章はとても霊的です。ヨハネは自分のことを、「イエスの愛しておられた弟子」(21:20)と言います。

主イエスに自分が愛されていることを本当に知ると、人は霊的な人に変えられて、神の言を語るようになることを教えられます。ヨハネがこの福音書を書いたのは1世紀の終わり頃と考えられていますので、ヨハネの晩年、恐らくかなりの高齢になった時と思われます。

2、言
「初めに言があった。」と言います。この文章から、ユダヤ人に限らず聖書を知っている人には直ぐに思い浮かぶ御言があります。それは創世記1:1の、「初めに神は天と地を創造された。」です。創世記の原語(ヘブル語)の題名は「初めに」です。神は創世記1:3で、「光あれ。」と言われて創造を始められていますので、言は天と地を創造されるより先に存在しました。

言は神と共にありました。これは言と神が全く同じ存在で同列にあったということではありません。「共に」と訳されている言葉は、「~へ向けて、~の傍らに」という意味です。言は神へ向けて、神の傍らにありました。この言は、14節にもありますように、この世にお生まれになられる前の主イエス・キリストです。言は神でした。言である神は、初めに神と共にありました。

この言はどのようなことをされるのでしょうか。初めに、言である主イエスは創世記1章の天地創造のときに、どのような役割を担われたのでしょうか。万物は言によって成りました。言によらず成ったものは何一つありませんでした。言は一つ目のこととして万物を創造されました。
創世記1章で神は天地を創造されましたが、そのときには、「光あれ。」等の言をとおして創造されました。万物はその言である主イエスによって造られました。箴言8:30(新改訳)は、「わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。」と言います。

天地創造のときに組み立てる者であった主イエスが、受肉されて人となられたときにも、やはり組み立てを行う大工になられたのは何か繋がりを感じます。言葉はヘブル語で「ダーバール」ですが、ダーバールには「出来事」の意味もあり、神の言は必ず出来事になります。

私たちは時に、聖書に書かれている神の言が、本当にそのようになるのであろうかと疑問を感じてしまうようなこともあるかも知れません。しかし神の言を疑うことは神の言である主イエスを疑うことです。万物は言によって成ったのですから、言は必ず出来事になると主にあって信じ、堅く立っていたいものです。

イザヤ55:11は、「そのように、私の口から出る私の言葉も空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし私が託したことを成し遂げる。」と約束されます。

3、命
言の二つ目のこととして、内に成ったものは命です。言は命を持っていますので、全ての生き物を造って命を与えることが出来ます。ただここで言っている命は生物的に単に生きる以上の命です。人間はただ生物的に生きていれば良いのではありません。

神のかたちに造られた者として、神のかたちとしての命に生きる必要があります。それは主イエスが11:25で「私は復活であり、命である。」、14:6で「私は道であり、真理であり、命である。」と言われている命です。それは主イエスを信じて救われて、神のかたちに生きる命であり、永遠の命を持つことです。

主イエスは3:3で、ニコデモに答えて、「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」言われました。主イエスを信じて、新たに生まれることを新生と言いますが、それは新しい命に生きることです。

新しい命に生きる者は、主にあって自分に与えられた役割を喜びを持って果たしつつ、生き生きと歩ませていただきたいものです。ところで自分に与えられた役割というのは、どのようにしたら分かるのでしょうか。

4、光
そこで言の三つ目のこととして、言の内にある命は人の光です。私たち人間は光が無いと、正しい生き方をすることができませんし、自分の役割も分かりません。それはなぜかと言いますと、光が無いと何も見えませんので、まず自分が今どこにいるのかも分かりません。

そして自分がどこかに進むにも、見えないので、正しい方向に進んでいるのか、間違った方向に進んでいるのか、どこに向かっているのかも分かりません。光が無いというのは、真っ暗闇の中をライトを点けない無灯火で自転車の運転をするようなものです。

そのようなことをすれば、いつの間にか道から外れてしまったり、何があるのか見えませんので、ぶつかって事故に遭ってしまいます。若しくは他の人が自分の存在に気付かずにぶつかって来るかも知れません。光の無い状態で、熱心に進むのはとても危険です。

それは暗闇の中を暴走するようなものです。神の言を知らず、その言にある命と光を知らないのは、そのような危険な状態です。主イエスは8:12で、「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」と言われます。光があって明るい昼間に運転をすると、すべてが見えてとても安心できて安全です。

このことは神を知らない人だけの問題ではありません。信仰を持っているような人でも光を見失うことがあります。使徒パウロはローマ10:2、3で、「私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心さは、正しい知識に基づくものではありません。なぜなら、彼らは神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」と言います。

私たちは自分の義を求めてしまうときに、正しい知識であり、神の義である光を見失って、的外れな罪を犯すことになってしまいます。もしも主イエスの光を見失っているように感じたら、安全のためには一度、立ち止まることです。そして主イエスの光を探します。

主イエスの光はこの世の闇の中で輝いています。主イエスはマタイ7:7で、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」と約束されます。光を見失ったままで、闇の中を進んで行くことはとても危険です。

どこに落とし穴があるか分かりません。神が創世記1:3で天地創造の一番初めに光を造られたのは象徴的です。

私たちは聖書を読むときに、力を得たり、慰めや励ましを得たり、自分の進む方向の導きを得ることができます。それは神の言が、万物を造る源であり、命であり、人の光であるからです。神の言を読み、覚えることは大きな力になります。

終わりにヨハネは、「闇は光に勝たなかった。」と言います。このことは物質的な光と闇を考えますと明らかです。闇の中に光がありますと明らかに光が輝いて勝ちます。光をいくら闇で覆うとしてもそれは無理なことです。夜空を見上げますと空が暗い程、その中で輝く星は綺麗に見えます。

ヨハネは元漁師で夜に漁を行うこともありましたので、闇の中で光が輝くことを体験的に良く知っていたことでしょう。物質的には闇は光に勝つことはできません。

しかしこの世の中を見ていますと、むしろ逆で、闇が光を覆って消し去り、勝っているように見えることが多々あります。そのことに疑問を覚えるものです。それはなぜ、「悪は栄える」のかという問題です。この問題に答えるのは詩編73編です。73:3~12は、悪が栄える姿を描きます。

しかし悪の最後は73:27です。悪は必ず最後に滅びます。それはこの世でのことかどうかは分かりませんが最後は滅びです。神の言は必ず出来事になります。私たちはこの世の一時的な姿に惑わされてはなりません。大切なのは一時的なことではなく、永遠に続くことです。

私たちを救うために、言であり、命であり、光である、主イエスはクリスマスにこの世にお生まれになりました。聖霊の導きに従って、主イエスを信じて命を得て、光である主イエスを見つめながら、神の言である主イエスに従って、幸いな歩みをさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは誰でも、生き生きと光り輝く人生を歩みたいと願うものです。そのために私たちの救い主イエス・キリストがクリスマスにこの世にお生まれになりました。この喜びを全ての人が受け入れ、喜びに溢れる歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。