「強く、雄々しくあれ」

2024年6月16日礼拝式説教  
申命記 31章1~13節
        
主の御名を賛美します。

1、強く、雄々しくあれ
モーセは進み出て、この後の言葉を、初めはイスラエルのすべての人々に告げます。29:1では、「人々を呼び集めて言った」のですが、今回は「自らが進み出て」で何かモーセの積極的な姿勢を感じます。まずは自分の状況について説明します。「私は今日、百二十歳で、もはや思うように出入りすることができません。」

モーセは34:7で、「目はかすまず、気力もうせてなかった。」のですが、出たり入ったりするのは難しくなって来たようです。何よりも主に、「あなたはこのヨルダン川を渡ることはできない」言われています。モーセはこの後にはもうイスラエルと一緒にいることができなくなるので、最後に自分から進み出て、どうしてもイスラエルに強く伝えたい遺言のようなものです。

それは一言で言いますと、今日の説教題でもある、「強く、雄々しくあれ。」ということです。現代の男女同権の社会では、「雄々しくあれ」というのはアウトな表現な気もします。イスラエルは雄々しいどころか、どちらかと言いますと、これもアウトな表現ですが、女々しい感じです。これは若しかすると女々しいというよりも、4百年間のエジプト生活で身に付いてしまった罪の奴隷根性のようなものなのかも知れません。

そこで主はモーセをとおして丁寧にイスラエルに説明をして励まします。一つ目は、あなたの神、主があなたに先立って渡り、あなたの前からこれらの敵である国民を滅ぼされます。敵を滅ぼされるのは、あくまでも主であり、これは主の戦いです。

敵は主が滅ぼされていますので、あなたは彼らであるカナン人を追い払うことができるので、イスラエルがすることはただ敵を追い払うだけです。しかもイスラエルの人々は先頭に立って行く必要はありません。主が告げられたとおり、ヨシュアがあなたの先を渡って行きます。ヘブル語のヨシュアはギリシャ語ではイエスですので、主イエスが先を渡って行かれます。

二つ目は、主はアモリ人の王シホンとオグのオグ・シホン・コンビ、また彼らの国を滅ぼしたのと同様に、彼らに対しても行います。このようなことは、これから初めて起こることではなく、前にも実績のあることです。アモリ人の王シホンとオグのことは繰り返し、何度もしつこい程に出て来ます。

これはそんなこともあったということで終わらせるのではなく、このような恵みがあったので、主は必ずまた同じようにしてくださるという確信の根拠とするために繰り返して言います。私たちも主の恵みがあったことをただそのようなこともあったで終わらせるのではなく、主の恵みを繰り返し口にして、信仰の確信にしたいものです。

主は彼らをあなたがたに引き渡されるので、あなたがたは、私が命じたすべての命令のとおりに彼らに行わなければなりません。これは決して難しいことではなく、主は敵を引き渡してくださいますから、命令のとおりに行えば良いだけです。

「強く、雄々しくあれ。」ということは、敵である彼らを恐れ、おののいてはなりません。恐れ、おののいてはならないというよりも、恐れ、おののく必要が全くありません。それは三つ目に、全能の神、主があなたと共に進まれるからです。共に進まれるということは、置き去りにすることも、見捨てることもありません。

2、ヨシュアへの命令
次にモーセは今度はヨシュアを呼んで、イスラエルのすべての人々が見ている前で彼に言いました。モーセがヨシュアに言ったことは、イスラエルの人々に対してと全く同じで、「強く、雄々しくあれ。」です。この言葉は現代の信仰者に対するものでもあります。

私たちは、強く、雄々しくありたいと願いつつも、恐れを感じておののいて、怯んでしまうようなことはあります。その理由は大きく二つあるように思います。一つ目は、自分の目の前に立ち塞がるものがとても大きく見えて、自分には克服することができないと感じることです。

イスラエルはこのときから38年前にその失敗を犯しました。カデシュ・バルネアからカナンの地に12人の偵察隊を送ったときに、巨人の先住民がいるのを知って、恐れおののいて主の命令に従いませんでした。そのために荒れ野を彷徨うこととなってしまいました。

二つ目は、奴隷根性とも言える不幸への安住です。どうせ私の人生なんて良い方向へ行く訳がないと諦めてしまって、主が用意してくださっている恵みを受け取ろうとしないことです。イスラエルはカナンの地に巨人の先住民がいるのを知ると、奴隷であったエジプトに帰ったほうがましだと言って、エジプトに帰ろうと言い出す始末でした(民数記14:3、4)。

そのようなときにも、ここに書かれている三つのことを覚えておく必要があります。それは、主が敵を滅ぼしてくださること、過去にも主が敵を滅ぼしてくださった実績があること、主が共に進んでくださることです。これらのことを自分の経験に照らし合わせて、自分の体験の言葉で言い表すことも大切です。

主はイスラエルの弱さをご存じです。そこで人々に説明をしたとおりに、主が先祖に与えると誓われた地に、この民を導き入れるのはあなたであるとヨシュアに命じます。ヨシュアはモーセの単なる後継者ではありません。ヨシュアは主がイスラエルの次のリーダーとして選び任命された者です。

主は一人一人に応じた役割を与えて任命されますので、主の任命を軽んじてはなりません。ヨシュアはカナンの地にイスラエルの民を導き入れ、受け継がせます。しかしヨシュアと言えども、人の子であり弱さはあります。そこで主ご自身があなたに先立って行き、あなたと共におられると約束します。

ヨシュアは38年前にカデシュ・バルネアからカナンの地に偵察に行った12人の内の一人です。ヨシュアはカレブと共に、約束の地に上って行くべきですと主張しましたが、イスラエルは他の10人の不信仰な者たちに惑わされてしまって、約束の地に行くことができませんでした。ヨシュアには今度こそ約束の地に行くという強い思いがあったことでしょう。

3、律法の読み聞かせ
イスラエルも今は信仰的になっているかも知れません。しかし人の気持ちは移り変わり易いものです。気分に左右されるのではなく、しっかりとした信仰に立つためには、神の言を継続的にきちんと聞き続ける必要があります。

そこでモーセはこの律法を書いて、主の契約の箱を担ぐレビ人である祭司たちとイスラエルのすべての長老たちに渡して、律法を読み聞かせることを命じました。それを行うときは、七年の終わりごとにで、負債免除の年の定められたときである仮庵祭です。

仮庵祭は大体10月頃に行われるもので、エジプトを脱出したイスラエルが荒れ野にいたときに、仮小屋で生活していたことをイスラエルの子孫が知るためのものです(レビ23:34~43)。これはイスラエルのすべての人々が、主の前に出るために、主の選ぶ場所に来るときです。

対象者は、男も女も子どもたちも、町の門にいる寄留者も、すべての民です。目的は、聞いて学び、主を畏れ、律法の言葉をすべて守り行うためです。

4、主を畏れる
前半の6節では人々に、そして7節ではヨシュアに、「強く、雄々しくあれ。」と言い、そして後半の12,13節では、「主を畏れるため」と言います。「強く、雄々しくある」ことと「畏れる」ことは、一般的には矛盾をしているようにも感じられるかも知れません。畏れる者が、どうして強く、雄々しくあることができるのだろうかと。

しかし聖書的には全く矛盾をしていないどころか、畏れる者でなければ、強く、雄々しくなることはできません。箴言1:7に、「主を畏れることは知識の初め。」とあるとおりです。主を心から畏れることは、心から主に信頼することです。主を畏れ信頼する者を主は守られ、その敵を滅ぼし、主が共に進んでくださいます。

主を畏れることは、どのようなことに例えることができるでしょうか。マタイ7:24の岩の上に家を建てた賢い人が思い浮かびます。この譬えで岩は神を表します。神を畏れ、神の土台の上に家を建てる人は、雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても倒れません。

そのように、主を畏れる人は、岩の上に家を建てた人のように、強く、雄々しく見えます。女性に対して、雄々しく見えるという表現はどうかとも思いますが。ただ、その人自身が強く、雄々しいというよりも、その人と共におられる主によって神々しく、強く感じるものです。

強く、雄々しくあるのは、主を畏れ、主に信頼していて、主が守ってくださるという確信から来るものです。それにより敵を恐れ、おののく必要は全くありません。これはどんなに言葉で説明を聞くよりも、自分で実際に体験をすることが必要です。

逆に、主を畏れないことは主を侮ることです。主を侮る者は、自分自身が強く、雄々しいように見せかけることに努力します。しかしそれは、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に似ています。見た目は立派に見えるかも知れません。

しかし雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れて、その倒れ方はひどいものです。それは土台のない張りぼてのようなものだからです。私たちは誰もが強く、雄々しくあり、敵を恐れることなく、主に守られ歩みたいと願うものです。

その道は既に備えられています。私たちを救うために主イエスが十字架に付かれ、三日目に甦られ、復活の命を証明されました。そのような大いなる御業をなされる主イエスを、聖霊の導きに従って信じ、畏れ敬い歩むだけです。主を畏れ、強く、雄々しくあるものとさせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちに、「強く、雄々しくあれ。」と命じられます。しかしそのためには、律法を聞き、主を畏れなさいと言われます。私たちが聖霊の導きによって、まず主を畏れ敬う者とさせてください。そして主にあって、強く、雄々しい者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。