「主がなしてくださる」

2024年6月2日礼拝式説教  
申命記 30章1~10節
        
主の御名を賛美します。先週の午後の連合壮年会では、「高齢化社会におけるクリスチャンとしての歩み」の題で、「きよめ」について語られました。講師の先生が色々な配慮をされたこともあったのか、そのときにはピンと来ない部分もあったのですが、後になって色々と考えさせられる良い内容でした。

高齢化した信仰者の正反対の代表例としては、この申命記を書いたモーセとイスラエル王国の初めの王であるサウルが挙げられます。モーセは120歳で召天するときにも、目はかすまず、気力もうせていませんでした。一方のサウル王は過去の栄光からは考えられない程に愚かになって行きました。

私たちも年を重ねて行く中で、モーセとサウルの間のどこかの生き方をして行くように思います。何がその決め手になるのかというと、きよめです。

1、呪いからの回復
29章は主とイスラエルの契約書でした。29:8にありますように、主の契約の言葉を守り行うならばすべて成功し祝福されます。しかし、29:18にありますように、呪いの言葉を聞いても、心をかたくなにして歩むなら滅びます。今日の聖書箇所では、「これらすべてのことがあなたに臨むとき」ですので、イスラエルは祝福と呪いの両方を体験します。

これは現代でも同じです。主の契約の言葉である聖書の御言に従うなら上手く行って祝福されます。しかし心をかたくなにして歩むなら悪い方向に進んで行きます。私たちは実際に祝福と呪いの両方の体験をします。そしてその体験をとおして、祝福を受けて、呪いを避けるにはどうしたら良いかを学んで行きます。

この聖書箇所の語るイスラエルはどのような状況が想定されているでしょうか。「あなたは、あなたの神、主があなたを追いやった先のあらゆる国民の中で」のことですので、呪いを受けた29:27の状況です。これは歴史的には、紀元前586年に南ユダ王国も滅ぼされてバビロンに捕囚となるとき、また紀元70年にイスラエルが滅ぼされるとき等があります。

このときのイスラエルと似ているのは、ルカ15章に書かれている放蕩息子です。放蕩息子は主が追いやったのではなく、自分から遠い国に旅立ったのですが、呪いの裁きを受ける意味では似たような状況です。私たちも罪人ですから、ときには間違いを犯してしまって、滅ぼされるイスラエルや放蕩息子と似たような状況に陥るときもあります。

そのときに私たちが行う必要のあることを主はモーセをとおして3つ命じます。これは契約違反をしてペナルティ(罰則)を受けた人が回復するための敗者復活戦のようなものです。一つ目は主の言葉を思い起こすことです。

自分が呪いを受けているような状況であれば、なぜそのような状況になったのかを御言から考えます。そして呪いから抜け出して、祝福されるにはどうすれば良いのか御言を思い起こします。

二つ目は、あなたの神、主のもとに立ち帰ることです。呪いを受けることの、そもそもの原因は主から離れてしまうことですから、御言を思い起こしたら次に主のもとに立ち帰ります。放蕩息子も我に返ったときに、お父さんのところに帰りました。主のもとに立ち帰ることが何よりもすべてです。

そして、主のもとに立ち帰るということは、三つ目の、あなたの息子たちと共に、心を尽くし、魂を尽くして、主の声に耳を傾けて聞き従うことです。主の声に耳を傾けるのは自分だけではなくて、息子たち等の家族も共にです。

放蕩息子もそうですが、人はどん底の落ちるところまで一度、落ちないと、我に返って、主に立ち帰るのが難しい部分があるようです。しかし聖書を読めば、心をかたくなにするとどうなるのかは分かりますので、敢えて聖書に書かれているのと同じ過ちを繰り返す必要はありません。

2、回復の約束
呪いを受けるときにも、この3つのことを行うなら3~9節の約束が与えられます。主は、あなたを連れ戻し、あなたを憐れみ、あなたを再び集めてくださいます。主は、あなたの先祖が所有していた地にあなたを導き入れ、あなたはそれを所有することができ、あなたを幸せにし、その数を増やしてくださいます。

憐れみ深い主は、主に立ち帰る者を単に回復させるだけではなく、以前よりも大きな祝福を与えてくださいます。この箇所を読むとヨブ記のヨブの姿が思い浮かびます。

確かに聖書を読みますと、バビロンで捕囚となったイスラエルは回復し、ここに書かれているようなストーリー(話)になっています。しかしイスラエルの歴史は何度も同じようなことを繰り返しています。罪を犯す→裁きを受ける→悔い改める→救われる→(調子に乗って)罪を犯す

この循環から抜け出せない限り、ずっと同じことを繰り返していたらきりがありません。私たちも似たような部分があります。ただ例え同じようなことを繰り返していたとしても、螺旋階段を上がって行くように、同じような所をとおってはいるけれど、前よりも高い所に来ているのであれば成長があります。

しかし同じような所をとおっていながら、前よりも低い所に行ってしまっていたら、それは滅びに向かってしまいます。イスラエルは残念ながら同じようなことを繰り返しつつ、低い方へ向かってしまいました。これはイスラエルが他の民族に比べて特別に愚かで悪いのではなく、人間は誰が行なっても同じです。

3、神がなしてくださる
そこで神が介入をされることになります。人間が自分の力で生きて行くと悪い方へと行くばかりだからです。主は二つのことを私たちになしてくださいます。一つ目は、あなたとその子孫の心に割礼を施してくださるようになります。このときの主とイスラエルの契約のしるしは肉体の割礼でした。

肉体の割礼は人間が自分たちの手で行うものです。しかし主が心に割礼を施してくださるときが来て、それが契約のしるしとなります。ローマ2:28、29。そして主が心に割礼を施してくださるということは、二つ目に、あなたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主を愛し、命を得るようにしてくださいます。これはとてつもない革命的な変更です。

2節では、「心を尽くし、魂を尽くして、主の声に耳を傾けなさい。」で、これは正しいことですが自分の力で行うことです。主イエスもマタイ22:36で、律法の中で最も重要な戒めを問われたときに、「心を尽くし、魂を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と答えられました。

これは確かに正しいことなのですが、人間の力で行うことは完全に不可能なことです。不可能であることは私たち人間の信仰者の長男と言えるユダヤ人の歴史が証明していることです。そのような無力な人間を救うために、父なる神は人間の罪の身代わりとして、御子イエス・キリストを十字架に付けられました。

そして主イエスを信じる者には聖霊を遣わされます。そして聖霊が、私たちの心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、主を愛し、命を得るようにくださいます。すべてのお膳立ては三位一体の神が用意してくださいました。私たち人間がすることは、神がお膳立てされたものを、「いただきます」と言って、ただ感謝していただくことだけです。

皆さんは神の恵みを感謝していただいておられるでしょうか。これは一度いただけば良いのではなく、いただき続ける必要があります。そして人が神の恵みをいただき続けていますと次の3つのしるしが伴ないます。一つ目は、主は呪いをすべて、あなたの敵とあなたを憎んで迫害する者にもたらします。呪いはすべて敵に行って、あなたには平安が訪れます。
そうしますと主の御業に感謝しますので、二つ目のこととして、あなたは立ち帰って主の声に聞き従い、私があなたに今日命じる戒めをすべて守るようになります。すべてが良い循環になって行きます。そして三つ目は、あなたの神、主は、あなたのすべての手の業、あなたの胎から生まれる子、家畜の産むもの、また、土地の実りを豊かに溢れさせてくださいます。

逆に言いますと、これらの3つのしるしを確認することによって、自分が神の恵みを正しく受け取っているかが分かります。そして主の側では、主はあなたの先祖たちを喜びとされたように、あなたに良いものを与えて再びあなたを喜びとされます。放蕩息子がお父さんのところに帰ったときのように皆が喜び幸せとなります。

それは、あなたがあなたの神、主の声に聞き従って、この律法の書に書かれている戒めと掟とを守り、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に立ち帰るからです。結論としては、心を尽くし、魂を尽くして、主を愛し立ち帰ることが大切なのですが、それをどのようにして達成をするのかです。

旧約の時代には無理であるにも関わらず自分の努力によって達成を目指さざるを得ませんでした。しかし主イエスの十字架に続くペンテコステ以降は聖霊がこの世に遣わされて、主イエスを信じる者には、聖霊の力によって神がなしてくださいますので有難いことです。

そのように私たちを正しい方向に導いてくださいます、「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる」(マルコ3:29)ことをしっかりと覚えておくことが大切です。一度、心を尽くし、魂を尽くして、主に立ち帰れば良いのではなく、聖霊の導きに従って主に立ち帰り続ける必要があります。私たちは毎週の礼拝で悔い改めと献身を新たにしますので、毎週の礼拝がきよめのときです。

またこの後に行われる聖餐をとおして、私たちの罪は主イエスの十字架によって赦されることを感謝し、主イエスが天に帰られて、遣わされている聖霊に従う思いを新たにさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスが言われたとおりに、心を尽くし、魂を尽くして、思いを尽くして、主を愛することは、何よりも大切なことです。そのことも私たち自身の力では出来ませんが、あなたが私たちをそのことを出来るようにしてくださいますから有難うございます。

救われる後にも様々な誘惑等はありますが、私たちが悪に惑わされずに、あなたに従い続け祝福の道を歩めますようにお守りください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。