「強く、雄々しくあれ」 

2024年6月30日礼拝式説教 
申命記 31章14~29節
        
主の御名を賛美します。

1、顔を隠す
主はモーセに言われました。「あなたの死ぬ日が近づいた。」 これは中々、ショックな言葉です。しかしこのことが確実であることを伝えるためにも16節でも、もう一度、「あなたは間もなく先祖と共に眠りに就く。」と言われました。モーセ自身も自分がヨルダン川を渡ることはできないことを知っています。

イスラエルは二十歳以上の男子だけで60万人以上いますので(民数記26:51)、少なくとも全員では2百万人以上はいると思われ、そのリーダーのモーセが亡くなるのは大変なことです。その対応として、主は第1に、次のリーダーとしてモーセの後継者であるヨシュアを呼び寄せ、任命をされます。モーセはヨシュアと共に会見の幕屋の中に立って主の声を聞きます。

主は第2に、これからイスラエルがどうなって行くのかを預言されます。「この民は、入って行く地で、すぐに異国の神々を慕って淫行に走り、私を見捨てて、私があなたと結んだ契約を破るであろう。」 ローマ1:18からの個所に人間が罪を犯す順番が書かれています。

初めは神以外のものを神とする偶像礼拝で、二番目が性的不品行です。聖書では偶像礼拝自体を真の神以外と交わる意味で淫行とも言います。ここではその意味を強調するために3つの表現を使って、淫行に走ることは、主を見捨てて、主の契約を破ることであると言います。

そのようなイスラエルに対して主のご対応も3つの表現を使って言われます。「その日、私の怒り
は彼らに向かって燃え、私は彼らを見捨て、顔を隠す。」 淫行に走るイスラエルに主の怒りは燃え、そして主を見捨てるイスラエルに対して主もイスラエルを見捨てられます。

「顔を隠す」ということですが、反対の表現の「顔を向ける」というのは、「恵みを施す」という意味ですので、「顔を隠す」というのは、「顧みることをしない」という意味です。全知全能の主の怒りが燃え、見捨て、顔を隠されたらどうなるでしょうか。同じく3つの表現で、イスラエルは餌食にされ、多くの災いと苦難に襲われます。

そのときには流石にイスラエルも、どうしてこのようなことになるのだろうか。何かがおかしいのではないかと気付くことでしょう。その日、彼らは言います。「こうした災いに襲われるのは、神が私の内におられないからではないか。」 これはとても大切な気付きです。

この世には、私たち人間には計り知れないことが起こります。なぜあのような信仰深い真面目な人が、あのような不条理な苦しみに遭わなければならないのかというようなことです。そのようなことは私たちは知る由もありません。

しかし残念ながら明らかに自分が蒔いた種の結果を刈り取っているように見えてしまう人もいます。そしてそのよう人に限って、どうせこの世には神も仏もいないというようなことを言ったりします。本当に神もいないのであれば、逆にそのようなことは起きないのではないかと感じることもあります。気付きが与えられることは大切なことです。

ただこの個所では、神が内におられないかどうかというよりも、神はおられるけれど顔を隠されているかどうかです。その日、主は彼らが他の神々のもとに赴いて、行ったすべての悪のゆえに、必ず顔を隠されます。

2、歌を書き留め、教え、口に置く
主は顔を隠されることになりますので、そのときにすることを、主は第3のこととして、これも3つの表現で命じられます。次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、彼らの口に置きなさい。次の歌というのは32章のものです。歌と言いましても31:30では「歌の言葉を告げた」、32:44では「歌の言葉を語り聞かせた」とありますので、メロディーのある歌ではなく、言葉だけのようです。

歌はただ書き留めるだけではなく、教えて、口に置くということは、イスラエルの人々が学んで口で告白することです。そうすればこの歌は、イスラエルの人々に対する私の証言となります。実際にこの歌は書き留められて聖書となり、3千年以上経った現代でも教えられ、私たちの口にも置かれて読むようになっています。

32章の歌の内容は16、17節のとおりで大切な内容ですので、20、21節でもう一度繰り返します。主がその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地にイスラエルを導き入れるとき、彼らは食べて満足し、肥え太ります。「肥え太る」というのは現代の先進国では少し気になる表現ですが、食べて満足し、肥え太るというのは、食べ物が豊かにある良いことです。発展途上国では肥え太るのは豊かさの象徴です。

しかし人は一見、順調なときこそ、おごり高ぶり易く、心に隙ができやすいものです。16節の内容をもう一度繰り返し、イスラエルは他の神々のもとに赴いて仕え、主を侮り、主の契約を破ります。そして多くの災いと苦難がイスラエルを襲います。

そのときにこの歌は、子孫の口から忘れられることがないので、民に対して証言となります。歌にすることによって、人々の記憶に残り易くなることはあります。聖書の文章を覚えるのは大変でも、聖歌の歌詞は何となく覚えていて、ふとしたときに口ずさむということはあると思います。

そのように大切なことを歌にして後世の人に伝えることは世界各地にあるようです。色々な国に童謡がありまして都市伝説のようになっているものもありますが、色々な意味が込められているものもあると言われています。

私たちも自分が大切に思っていることを歌にすることによって他の人に伝えることをします。短歌や俳句等もありますし、そのように決まった形ではなくても、自由な文章でも良いと思います。自分が人生をとおして学んだ大切なことを歌、文章にして、他の人に伝えたり、分かち合うことは素晴らしいことだと思います。

主は全知全能のお方ですから、主が誓われた地にイスラエルを導き入れる前から、イスラエルが今、たくらんでいることをすでにご存じです。その意味では、この歌はイスラエルを悔い改めに導くためのものと言えます。主の命令のとおりに、モーセはこの日、この歌を書き留めて、イスラエルの人々に教えました。

3、律法の読み聞かせ
モーセは律法の言葉を書物に余すところなく書いて、主の契約の箱を担ぐレビ人に、主の契約の箱の傍らに置くように命じ、それはあなたに対する証言となることを伝えました。

モーセがこのときに書いた律法の言葉は、本当に10、11節に書かれているように7年の終わりごとに、イスラエルのすべての人々の前で読み聞かせられ続けたのでしょうか。

列王記下22章で、ヨシヤ王の時代に大祭司ヒルキヤが神殿で律法の書を見つけたことにより、律法を人々に読み聞かせて、律法に基づいてヨシヤ王が改革を行いました。そのことからしますと、恐らく7年ごとの読み聞かせは続けられていなかったと思われます。

しかしこのときにモーセが書いた律法の言葉は聖書となり、私たちの手元にあることは有難いことです。そして律法の言葉は私たちが如何に罪深い存在であるかを教えてくれます。「律法は、私たちをキリストに導く養育係」(ガラテヤ3:24)です。

主がモーセに語られたとおりに、モーセ自身も、イスラエルの民が逆らう者であり、かたくなな者であることを知っています。荒れ野の40年間で人々はモーセに逆らい続け、モーセは自分の体験をとおして嫌と言うほど良く知っています。また16節の主の預言をとおしても知っています。

モーセがまだ生きている今日でさえ、イスラエルは主に背いています。イスラエルはモーセに背いているだけではありません。モーセを遣わして、モーセをとおして語られる主に背いています。モーセはこのときに120歳です。イスラエルの民は、ヨシュアとカレブを除いて、38年前に20歳未満だった人たちですので今は全員58歳未満です。

イスラエルは全員がモーセより半分以下の年齢ですので、モーセは突出した高齢者で神のような存在であったと思います。この当時は現代よりも高齢者が敬われる社会であったと思いますが、それでも言うことを聞きません。それではモーセの死んだ後はなおさらそうでしょう。

モーセは、「私の死んだ後、あなたがたは必ず堕落し、私があなたに命じた道からそれるので、後の日に災いがあなたがたに降りかかることを私は知っている。あなたがたは主の目に悪とされることを行い、その手の業によって主を怒らせるからである。」と言います。

4、強く、雄々しくあれ
このときに、モーセと共に主の言葉を聞き、またモーセの言葉を聞いていたヨシュアはどのような思いでいたことでしょうか。ヨシュアは38年前にカデシュ・バルネアからカナンの地に偵察に行った12人の内の一人です。そのときに、ヨシュアはカレブと共に、約束の地に上って行くべきですと主張しましたが、イスラエルは他の10人の不信仰な者たちに惑わされてしまって、約束の地に行くことができませんでした。

ヨシュアには今度こそという強い思いがあったことでしょう。しかし主から、イスラエルは約束の地には入るけれど、主との契約を破り、多くの災いと苦難に襲われると預言されていて、モーセもそのようになることを知っていると言います。皆さんがもしヨシュアの立場にいたら、どのような思いになられるでしょうか。

38年前の雪辱戦と思っていたのに、今回もまただめなのかと感じてしまうでしょうか。ヨシュアはどのような気持ちでこの先を進んで行けば良いのでしょうか。改めて考えさせられました。しかしこれはヨシュアだけのことではありません。聖書の中で主によって立てられる預言者で、何もかも上手く行くと預言されている預言者は一人もいません。

むしろその逆で、語っても悔い改めることのない人々に語りなさいと命じられたりします。主は第4のこととしてヌンの子ヨシュアに、「強く、雄々しくあれ。」と命じられました。これは7節と同じ御言です。強く、雄々しくあるのは、自分に自信があるからとか、上手く行くからではありません。

主のご命令には約束が伴ないますが、「強く、雄々しくあれ。」の命令には、全知全能の主が、「あなたと共にいる。」という約束が伴ないます。これは8節にもあったとおりです。全てのことが一度に上手く行くようになるのであれば、それに越したことはありません。しかし、この世はそれ程簡単に一足飛びに何もかも上手く行くということは中々ありません。

全てが順調に上手く行くのであれば、「強く、雄々しくあれ。」と命じたり、「私はあなたと共にいる。」と約束する必要はないとも言えます。決して全てが順調に行く訳ではないからこそ主は、「強く、雄々しくあれ。」と命じ、「私はあなたと共にいる。」と約束し、励まされます。

ヨシュアは何のために神に選ばれ、任命されるのでしょうか。主はヨシュアに、「イスラエルの人々を私が彼らに誓った地に導き入れるのはあなたである。」とヨシュアの役割を命じます。これは7節の命令の繰り返しです。

イスラエルの歩みは、「三歩進んで二歩下がる」ようなものかも知れませんし、それどころかときには、「二歩進んで三歩下がる」ような場合もあります。しかしそこに一人一人の大切な役割があります。モーセがイスラエルを導いて来た歩みも決して全てが順調であった訳ではありません。

しかしモーセにはイスラエルをエジプトから脱出させて荒れ野を歩み、約束の地の手前のモアブまで導く役割があります。これは現代でも全く同じで一人一人の全ての人に与えられる役割があります。皆さんに与えられている役割はどのようなものでしょうか。

私たちが自分に与えられている役割を正しく知るためには、罪を悔い改めて、神と正しい関係を築く必要があります。主イエスを信じて、十字架による罪の赦しを得て、神との正しい関係を築いたときに初めて、主はそれぞれの人に与えられる役割を、ヨシュアに命じられたように知らせてくださいます。

主が自分に与えられていない役割を担おうとすれば、主は顔を隠されて、決して上手く行くことはありませんので時間の無駄になってしまいます。主が命じられる役割は、この世的には、いくら困難に見えても、主は「強く、雄々しくあれ。」と命じ、「私はあなたと共にいる。」と約束して励ましてくださいます。主にあって、「強く、雄々しく」させていただき、主に与えられている役割をきちんと果たさせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちに、「強く、雄々しくあれ。私はあなたと共にいる。」と言われ、一人一人に役割を命じられます。この世には多くの苦難がありますが、私たちが、それらのものに惑わされることなく、共にいてくださる主に信頼し、強く、雄々しく歩む者とさせてください。今、苦難の中にある人たちを特別に顧みてお支えください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。