「命を与える神」
2024年7月21日礼拝式説教
申命記 32章15~35節
主の御名を賛美します。
1、偶像礼拝
モーセは32章で、イスラエルの人々に教える歌を主から預かって告げています。前回の10~14節では、恵みとして主がイスラエルをご自分の瞳のように大切に守られ、豊かな食べ物と飲み物を与えてくださっていました。
しかし、エシュルンは肥えると足で蹴りました。エシュルンはイスラエルのニックネームで「正しい者」の意味で、日本を大和と言ったりするようなものでしょうか。今日の個所には平行法が使われていまして、同じ意味の文章を言い換えて繰り返し強調しています。あなたは肥え太り、かたくなになりました。
31:20にも、「彼らは食べて満足し、肥え太り」とありました。食べ物が豊かでふくよかなのは良いことです。「かたくなになる」という言葉は、「脂肪で覆われる」という意味の言葉です。これは必要以上に食べて貪ることです。
聖書は物質的なことを語りつつ霊的なことを教えるものです。ここでは肉体的に肥え太ること以上に、霊的な意味で貪って肥え太ることを言っています。それは与えられる恵みに感謝し満足することなく、心が脂肪に覆われてしまい、心がかたくなになり、食べてはいけない悪いものまで食べます。
創世記3章でエバは十分な食べ物があるにも関わらずに、神が食べてはいけないと言われた善悪の知識の木の実を食べる罪を犯しました。身体が肥え太ると心筋梗塞に繋がることがあると言いますが、心の心筋梗塞にも注意が必要です。
心が肥え太り、かたくなになると、高慢になって自己中心的になって行きます。自分を造ってくださった神を捨て、自分を救ってくださった岩である主を侮ります。そして彼らは神でもない悪霊にいけにえを献げました。ローマ1:18からの「人間の罪」で人間が罪を犯す1番初めは偶像礼拝です。
それは、彼らの知らなかった神々、近頃現れ、先祖が畏れもしなかった新しい神々です。このときの直接の新しい神々は異教の神々ですが、現代にも、近頃現れた新しい神々はいます。オンライン賭博等が流行っていると言います。人間はいつの時代でも神でもないものに、大切なお金、時間、労力等のいけにえを献げてしまいます。
あなたは自分を生んだ岩である神を忘れ自分に命を与えた神を忘れました。人は自分に本当の命を与えた神を忘れるときに、この世的な意味で自分に命を与えて生んだ親のことも忘れてしまいます。親はこの世では神の代理人のような存在です。
ルカ15:11からの放蕩息子は自分に命を与えた神を忘れたときに、自分の父のことも忘れたように、父のこともどうでもよくなり、放蕩の生活に身を持ち崩します。しかし貧しさの中で我に返ったときに、自分が天に対しても、お父さんに対しても罪を犯したことに気付きました。
神を忘れずに覚えていることは、神が十戒の第5戒で命じられた、「あなたの父と母を敬いなさい。」を覚えていることです。神に対する姿勢と親に対する姿勢は重なるようです。神は敬うけれど親は敬わないということは本当の信仰ではありません。神を敬うのであれば同じように親を敬います。現代は複雑な社会で例外的に考える必要がある場合もありますが。
2、主の裁き
そのような恩知らずのイスラエルに対して主は怒りのゆえに、31:17、18で言われたように顔を隠されます。ご自分の瞳のようにイスラエルを守って来られた主の御思いはどのようなものでしょうか。
イスラエルは神ではないものである偶像で主の妬みを引き起こし空しいもので主を怒らせました。そこで、イスラエルが主に対してしたのと同じように、主も民ではないものでイスラエルを妬ませ、愚かな国民でイスラエルを怒らせます。
これは自分が主に対してしたのと同じことを主からされたときに、主がどのような御思いでおられるのかを考えさせるためでしょうか。主の怒りで火は燃え上がり、陰府の底にまで燃え広がり、地とその実りをなめ尽くし、山々の基を焼き払います。
海外のニュースで時々、大規模な山火事が何日も続くことがありますが、そのようなイメージでしょうか。22~25節に書かれていることは、28:15~68に書かれていた呪いを纏めたような内容です。
主はイスラエルを切り刻み人々からイスラエルの記憶を消し去ろうとまで考えられます。
3、イスラエルの敵
しかし主はイスラエルの敵が誇るのを恐れられます。敵対する者が誤解して、「我々の手(力)が勝ちを得たのだ。これはみな主がされたことではない」と言うことを。主がイスラエルへの裁きとして、イスラエルを敵の手に渡すのですが、敵は自分たちの力で勝ったのであって、主は関係ないと誤解することです。
イスラエルの敵は思慮のない国民で分別がありません。しかし主はそのような悪をも主のご計画に用いられます。イスラエルの敵に知恵があれば悟ったことでしょう。自分たちに力があったのでイスラエルに勝ったのではなくて、あくまでもイスラエルの悪が原因で、イスラエルを裁くための主のご計画に自分たちは単に駒として用いられたのだと。
そしてこのままで行ったら自分たちもどうなるか、自分たちの行く末を理解したことでしょう。もし、岩なる方である主が、イスラエルの民を売らず、主がイスラエルの民を渡さなかったら、どうして敵一人で千人のイスラエルを追い、敵二人で万人のイスラエルを敗走させるような圧倒的な勝利を得ることが出来たでしょうか。
イスラエルの敵が岩としている偶像は、イスラエルの岩である主のようではありません。イスラエルの敵もこれまでの主の御業を見て来て事実としてそのことを認めています。
4、敵のぶどう
聖書協会共同訳の32、33節では「ぶどう」の言葉が6回使われています(原語では5回)。ぶどうはぶどうの木が結ぶ実ですので、その人の結ぶ実です。木と実の関係については、マタイ7:17~20に書かれています。イスラエルには14節で最上のぶどうの果汁が主から与えられます。
イスラエルの敵のぶどうはソドムのぶどうの木からゴモラのぶどう畑から出たものです。ソドムはアブラハムの甥のロトが住んだ町で、ソドムとゴモラは創世記19章でその堕落と腐敗のために滅ぼされた酷い町です。英語でsodomyは不自然な性行動を意味する法学で使われる用語です。
そのような堕落したぶどうの木から作られるぶどうは毒ぶどうでその房は苦いものです。そしてその毒ぶどうから作られるぶどう酒は大蛇の毒、コブラの猛毒です。ぶどう酒には毒が含まれていますが、発酵して酒になっていますので、飲むときには毒に気付かずに気持ちよく飲んでしまうのでしょうか。
これら大蛇の猛毒のぶどう酒は主のもとに蓄えられ、主の倉に封じ込めてあります。何のためにそのようなものが蓄えられてあるのだろうかと思います。黙示録14:10に、「その者たちも、神の怒りの杯に注がれた、混ぜものなしの怒りのぶどう酒を飲むことになる。」と書かれています。
「毒を以て毒を制す」という言葉があるように、毒を制するときに毒が用いられるようです。彼らが足を滑らせるとき復讐し、報いるのは主です。彼らの災いの日は近いく、彼らの危機は速やかに来ます。そのときに毒が用いられているのでしょう。
結局、悪を行う者は自分で作った猛毒のぶどう酒によって災いを招くことになります。このことはガラテヤ6:7、8にありますように、人は自分が蒔いたものを悪いものでも良いものでも刈り取ることになります。神を侮る者は、全知全能の神を見くびって、この世的な策略を駆使して自分の欲を満たすために貪って行きます。そしてそこには毒ぶどうが作られて行きます。
毒ぶどうは時間の経過と共に発酵して猛毒のぶどう酒になり、主の倉に蓄えられてあります。そして主の日に、猛毒のぶどう酒は毒ぶどうを作った本人が飲むことになります。本人はぶどう酒に酔っていますので、足を滑らせても、それが災いであり危機であることに初めは気付かないかも知れません。
この大蛇の毒のぶどう酒はイスラエルの敵だけではなく、24節の終わりを見ますとイスラエルにも送られます。32章には2種類のぶどう酒があります。一つはこの大蛇の猛毒のぶどう酒で、もう一つは14節の最上の泡立つぶどう酒です。どちらを望まれるでしょうか。
いや、どんなに最上のものであっても私はアルコールはちょっと苦手でしてという方はおられると思います。私も同じです。ただこの当時は冷蔵保管の技術もありませんので、ぶどうの果汁を蓄えておくと自然に発酵します。現代で言いますと、最上のぶどうジュースと言い換えても良いと思います。
5、命を与える神
後半はイスラエルの敵についてでしたが、前半でイスラエルもなぜ滅びの道を進んでしまったのでしょうか。それは中心聖句である、「あなたは自分を生んだ岩を忘れ自分に命を与えた神を忘れた。」からです。
本当に茂原キリスト教会70周年の御言である創世記16:8の「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」をいつも覚えて、自分はどこから来たのか、これまでの歩みを振り返りつつ、これからのことを考えることが大切です。
中心聖句の後半を直訳しますと新改訳の、「産みの苦しみをした神を忘れてしまった。」になります。イスラエルは二重の意味で神によって生まれて命を与えられました。一度目は命を与えられてこの世に生まれるときで、二度目は奴隷の地であるエジプトから救い出されて自由人として新しい命を与えられたときです。
2回共に大きな産みの苦しみがありました。現代を生きる私たちにとってもこの2回の誕生は大きな産みの苦しみです。いや私は安産で生まれ、すんなりと信仰を持ったという人もいるかも知れません。生まれた人はそうかもしれませんが、産みの苦しみをされたのは人ではなく神です。
特に2回目の誕生である新生のためには、救い主イエス・キリストの十字架という大きな産みの苦しみを神がされました。私たちはこのことを単なる知識としてではなく、いつも感謝して喜ぶことが大切です。10~14節の恵みも心から感謝することです。
喜びに満ち溢れていつも幸せでいるにはどうしたら良いのかと考えます。喜びは感情ですので、少しづつ慣れて来ることがあります。同じ嬉しいことが2度あるときに、2度目は1度目に比べて喜びの感情的には少し落ち着いて来ることもあります。
しかし信仰者の喜びは感情的なものだけではありません。信仰者の喜びは感謝に基づくものです。感謝は慣れるものではなく、深められて行くものです。感謝が深められて行くと共に喜びも深められて行きます。感謝の無い喜びは浅い喜びなのかも知れません。
同じ嬉しいことが2度あるときにも2度目は、このような嬉しいことが2度もあったことを深く感謝します。感謝に基づいて喜ぶときには、与えられる恵みにマンネリを覚えるようなことはないでしょう。
Ⅰテサロニケ5:16~18に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」とあります。これは中心構造として見ますと、喜びと感謝が対称のセットになります。するとその中心は祈りです。祈りの中で聖霊の導きによって感謝し喜びます。
祈りに基づく感謝と喜びに生きるときに10~14節の恵みは続いて行きます。これは肉親の親に対しても同じです。自分を生んで育ててくれた親への感謝は深められて行くものです。私も今頃になって親への感謝が深められて来たような気がします。
この世には大蛇の毒でありコブラの猛毒である危険なぶどう酒が溢れています。溢れるだけではなく送られて来ますので大変です。しかし何も心配をする必要はありません。そのような危険なぶどう酒が送られて来るのは、自分を生み命を与えた神を忘れた者にだけです。
前回の3節の、主の名を呼び、栄光を神に帰す者には、危険なぶどう酒は無関係で、最上のぶどうの果汁だけが与えられます。毎日の祈りの中で、聖霊の導きによって自分を生み命を与えてくださった神をいつも覚えて、恵みを感謝し喜び歩ませていただきましょう。
6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは主によってこの世に生まれ、主イエスの十字架によって救われて新しい命を与えられます。しかし私たちはその恵みや恩を忘れ易く、かたくなになり、目新しいものに心を惑わされ易い者です。
しかしそのような私たちを主の目に貴く、重んじられると言ってくださいますから有難うございます。どうぞ私たちに命を与えてくださった神をいつも覚え祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。