「神に栄光を」

2024年7月7日礼拝式説教  
申命記 31章30節~32章14節
        
主の御名を賛美します。日本で一番古い書物は日本書紀と古事記ですが西暦7百年代に完成しています。万葉集も同じ頃です。申命記はそれらよりも2千年位前に書かれていますので、如何に古いものか分かります。そこから現代に生きる私たちが霊の糧を頂けることは感謝なことであり、神の言は変わらないことを改めて感じます。

1、神に栄光を
イスラエルはこの後に主の与えられるカナンの地に入って行きますが、主との契約を破り、多くの災いと苦難に襲われます。そのときに思い返すための歌を書き留め、イスラエルに教えることを主はモーセに31:19で命じられました。

32章はその歌の内容で、語っているのはモーセですが、言葉を授けているのは主です。モーセは自分の亡き後に、イスラエルが主に逆らい、災いが降りかかることを知っていますので、複雑な気持ちであると同時に必死な思いであると思います。

1番初めに「天よ、地よ」と呼び掛けます。ときが経っても天と地は変わることがありませんので、天と地を証人とするのは31:28のとおりです。2番目に私の教えと言葉は、若草や青草の上に降る小雨や夕立のように、イスラエルに潤いを与え、命を与え生かすものであると言います。

3番目に「私は主の名を呼ぶ。栄光を私たちの神に帰せよ。」とイスラエルになすべきことを命じます。これは私たち人間の分のすべてです。私たちがこの言葉に徹底しているなら恐らく間違えることはないでしょう。この後はなぜ私たちが神に栄光を帰すべきであるのかの説明です。

4番目に主はどのようなお方でしょうか。4節で7つの言い方がされています。一つ目は、主は岩です。日本に住んでいる私たちには、「主は岩」と言われても少しピンと来ない気もしますが、主は詩編18:3でも岩に譬えられています。岩は動かされることの無い不動という意味です。

そこから主イエスは賢い人は岩の上に自分の家を建て、愚かな人は砂の上に家を建てる譬えをマタイ7:24~27で語られます。旧約聖書で「主は岩」と語られていることを思いますと、主イエスが弟子のシモンに「岩」の意味の名前、ペトロを付けた期待の大きさが分かります。

2つ目に、主の業は完全で、3つ目に、その道はことごとく正しいのです。ときに私たち人間には理解し得ないことが起こることがありますが、それは主の業が不完全であったり、主の道が正しくないからではありません。人間の不完全さが原因なのでしょう。主は4つ目に真実の神で、5つ目に偽りがなく、6つ目に正しく、7つ目にまっすぐな方です。

2、イスラエル
そのような主に対して5番目にイスラエルはどのような人たちでしょうか。彼らは主に対して悪を行います。なぜ完全に正しい主に対して悪を行うようなことをするのでしょうか。これはとても難しい問題です。現代でも真面目そうな家庭で育つ子が真面目な子になるとは限りません。

同じ家庭で育つ兄弟姉妹でも人によって真面目そうに育つ子もいれば、そうでなさそうな子もいたりします。これは家庭に限らず、学校や職場、色々な人の集まり、教会等の同じ環境の中にいる人でも、人それぞれです。ただすべての人は罪を赦される罪人です。

しかし2節の恵みを与えてくださる主に感謝し、その応答として3節の主の名を呼び、栄光を神に帰すかどうかで、同じ環境にいても、その行先は正反対となります。恵みを感謝せずに、自己中心的に悪を行うなら、その汚れのゆえに、もはや神の子らではありません。そのようなよこしまで曲がった世代であるのは、このときだけではなく、現代でもこの世は変わりません。

そこで、「あなたがたはこのようにして主に恩を返すのか」と問います。「恩を返すのか」という言葉は「報いるのか」という意味です。これでは恩を返すどころか、「恩を仇で返す」かたちです。そのような返し方をしたら、どうなるのかは明白です。「愚かで知恵のない民よ。」と言います。

ただこの歌は、イスラエルが災いと苦難に襲われるときに、神が私の内におられないからではないかと言って思い返すものでありますので、初めに主の恵みを多く語ります。そして「この方こそあなたを造られた父ではないか。」と問います。

ここの「造られた」という言葉は、「買う」という意味の言葉ですので、ここでは主が創造主として造られたという意味よりも、エジプトから買い取って、贖い出してくださったという意味のようです。それは私たちが主イエスの十字架によって贖われて新しく造られるのと同じです。主はあなたを贖い、揺るぎない者とされます。

3、昔の日々を思い出す
5番目に主は、「昔の日々を思い出し、代々の歳月を顧みよ。」と過去を振り返るように語り掛けられます。これは私たちが何かを考えるときには、茂原キリスト教会70周年の御言である、創世記16:8の「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」を思い起こすことです。

自分がどこから来て、どのような歩みをして来たのかを思い起こすことによって、その先の道がどこへ続いて行くのかが見えて来ます。自分だけで分からなければ、あなたの父に問えば、答えてくれますし、長老たちも、あなたに話してくれます。

「終活」という言葉が心に響くような年齢に自分もなってきた気がします。色々な持ち物等を整理することも大切なことであると思います。しかし一番大切な終活は、ここでモーセが行っているように過去の歩みを振り返り、後世の人たちに大切なことを伝えて行くことであることを教えられます。

私たちが自分の人生を振り返った文章を書いても、勿論、モーセのように聖書になることはありません。読んでくれるのは家族の一部だけかも知れません。しかし一人の人が数十年間、神と交わらせていただいた恵みを伝えることができるのは、何よりの遺産であると思います。またそのような文章を書かれる本人が自分の人生を総括することは、とても大切な終活であると思います。

4、イスラエルの恵み
いと高き方である主は相続地をイスラエル以外の諸国民にも継がせ、人の子らを分けられますが、イスラエルの人々の数に合わせて、それぞれの民の境を設けられます。主は公平なお方です。主の取り分はその民、ヤコブであるイスラエルがその相続分であり、イスラエルは主の聖なる民、宝の民です。

主は荒れ野で、獣のほえる不毛の地で彼を見つけ彼を抱き、いたわり、ご自分の瞳のように守られました。日本語でも可愛い孫などを、「目に入れても痛くない」という言い方をしますが、ここから来ているのでしょうか。

そして、「鷲がその巣を揺り動かし雛の上を舞い羽を広げて雛を取り翼に乗せて運ぶように」と言います。初めてこの箇所を読んだときに、鷲は本当にそのようなことをするのだろうかと思いました。註解書を見ますと、親鷲が子鷲の雛の巣立ちを促すときに、そのような行動をすることがあるようです。

イスラエルはそのような鷲の姿を見ていたことでしょう。その姿はエジプトからイスラエルを導き出し、大きな翼に乗せて約束の地に運ばれる主のようです。親鷲が子鷲を導くように、ただ主だけがイスラエルを導き異国の神は共にいませんでした。

主はイスラエルを高い所に登らせます。いと高き方は高い所におられ、その民を高い所に導かれます。今日は賛美をしませんが、神聖歌339の「恵みの高き嶺」という曲がありますように、主は私たちを恵みの高き嶺へと登らせてくださいます。

そこでは、野の実りを食べさせました。野の実りということは自分たちで作り育てたものではなく、与えられる恵みです。カナンの地の豊かな産物が与えられました。岩から蜜を吸わせました。「岩から蜜」とはどういうことなのかと思いますが、これは蜂が岩陰に巣を作ることからできた表現のようです。

硬い岩から油を得させました。これはオリーブの木は岩地でも育ち、そこでオリーブ油を得させたことのようです。そのように実際に岩の近くで蜜と油を得る意味もありますが、岩は主の象徴ですので、蜜も油も与えてくださるのは主です。

食べ物はその他にも、牛の凝乳と羊の乳を小羊と雄羊の脂身と共にバシャンの雄牛と雄山羊を最上の小麦と共に与えられました。凝乳はチーズのようなものです。バシャンはガリラヤ湖の北東の地域で強い雄牛と雄山羊が名産で、バシャンの王はオグでしたが、イスラエルが征服しました。

飲み物は、ぶどうの果汁、泡立つ酒を飲みました。これは現代でいうところのスパークリングワインでしょうか。現代風にイメージしますと、スパークリングワインを片手に、チーズ、霜降りステーキ、最上のバゲットを食べる感じでしょうか。とても美味しそうです。

ぶどうの果汁を原語ではぶどうの血と書いてあります。聖餐と繋がる言葉であり、味わい深い感じがします。イスラエルには至れり尽くせりで、すべて最上のものが与えられます。

5、神に栄光を
イスラエルは主の恵みによってエジプトから贖い出され、ご自分の瞳のように大切にされ、すべて最上のもので満たされます。そのときにどのように応答すれば良いのでしょうか。ただ主に感謝し、主の名を呼び、栄光を神に帰す以外にはありません。そしてそのようにするなら、良い循環となって、祝福の道を歩み続けることができます。

しかしイスラエルは主に対して悪を行います。聖書を読んでいますと、イスラエルは何と愚かなことばかりをしているのだろうかと思ったりします。しかし自分自身はどうなのかと問うと心許無く、イスラエルと余り変わらないような感じがしてしまいます。

この箇所から考えさせられることは、私たちは自分が受ける恵みを覚えて感謝することは大切なことですが、それだけで正しい生き方をする力には及ばないということです。そのためにここの個所で主がイスラエルをエジプトから贖い出されたように、主イエスの十字架によって私たちは罪の世界から贖い出されます。

そして鷲が雛を翼に乗せて恵みの高き嶺に運ぶように恵みで満たし、聖霊で満たしてくださいます。聖霊に満たされ、その導きに従って主の名を呼び、栄光を神に帰させていただきましょう。そして祝福の歩みをさせていただきましょう。

6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。イスラエルは主に贖われ恵みに満たされても、主に対して悪を行い、栄光を神に帰すことはしませんでした。それは私たちも同じであり、人の思いでできることではありません。

私たちがあなたからの恵みの一つ一つを感謝し、聖霊で満たされ、主の名を呼び、栄光を神に帰し、祝福の道を歩む者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン