「主に救われた民」
2024年8月25日礼拝式説教
申命記 33章18~29節
主の御名を賛美します。
1、ゼブルンとイッサカル
前回、モーセは死に望んで、イスラエルの人々に祝福の言葉を述べ始めました。部族の長のほぼ生まれた順番通りにルベン族から始まり、ユダ族、レビ族と行って、次は最後から遡り、ベニヤミン、ヨセフと行きました。次はそのまま遡って正妻レアの子であるゼブルンです。ゼブルンはヤコブの10番目の息子で、名前の意味は「贈り物、褒める」(創世記30:19)です。
9番目のイッサカルも一緒に書かれて、イッサカルの名前は「神は報いてくださった」(創世記30:18)の意味です。ゼブルンとイッサカルは同じ父ヤコブと母レアから生まれた兄弟ですがその性格は異なります。ゼブルンは進み出て喜べということはアウトドア派で、イッサカルは天幕の中で喜べですからインドア派でしょうか。
ゼブルンの領地は後ろの「3カナンの分割」の地図を見ますと海岸に近いので(3C)、海の豊かさ、海産物を手に入れると共に、海上貿易によって豊かさを手に入れると考えられます。イッサカルは人の往来の多いイズレエル平原に住みます(3D)。
砂に隠された宝と言いますのは、この地域の砂からはガラス製品を造ることができたと言われます。この2部族はその豊かさを喜ぶだけではありません。もろもろの民を山に呼び寄せ招き、そこで義のいけにえを献げる礼拝を行います。そのような信仰が豊かさをもたらすのでしょう。
2、ガド
ガドは側女ジルパの子で7番目で、名前の意味は「幸いなこと」(創世記30:11)です。ガドを大きくされる方は勿論、主であり、主をたたえます。「ガドは自分のために最上のものを選んだ」とありますように、ガドは自分の領地として牧畜に適したヨルダン川の東側を選びました(4F)。
しかしその後も、ガドは民の先頭に立ってヨルダン川の西側に進み、主の正義と公正をイスラエルのために行います。
3、ダン
ダンは側女ビルハの子で5番目で、名前の意味は「神は公平」(創世記30:6)と考えられます。ダン族は元々、エルサレムの西側の現在のテルアビブの辺りを領地に割り当てられました(2F)。しかし後には獅子の生息地であるガリラヤ湖の北のバシャンにも所有地を獲得します(4B)。
4、ナフタリ
ナフタリは6番目で、名前の意味は「わが闘い」(創世記30:8)です。防虫剤のナフタリンとは関係はなさそうです。ナフタリは恵みを豊かに受け主の祝福に満ち、西と南を所有します。その領地はガリラヤ湖の西と、南はガリラヤ湖までとなります(3B)。
5、アシェル
最後は8番目のアシェルで、名前の意味は「幸せな、祝福された」(創世記30:13)です。名前の通りに、アシェルはどの子よりも祝福され、その兄弟たちに愛され、その足を油に浸します。油は祝福の象徴です。現代でもマッサージでオイルを塗って行うものがありますが、これはその起源でしょうか。領地は地中海に面した北部で、オリーブ等の緑の豊かな地域です(3B)。かんぬきは鉄と青銅ですので、守りの強い要塞の町で平和が続きます。
6、祝福
ここでモーセはイスラエルの12部族のそれぞれに対する祝福の言葉を語り終えました。モーセは今、120歳ですが、80歳から120歳迄の人生の後わりの三分の一は、イスラエルをエジプトから脱出させて、荒れ野を導き、約束の地に入る手前まで来ました。
イスラエルは成人男性だけで60万人以上いて、女性や子どもを含めれば少なくとも二百万以上はいると考えられ、それらの民から多くの不平や不満をつぶやかれて大変でした。モーセにとって、40歳までの人生の初めの三分の一はエジプトの王宮での生活で物質的には恵まれていました。
その後の40歳から80歳の人生の真ん中の三分の一はミデヤンの地での羊飼いとしての生活は、一見すると不遇の時代でしたが、その後に羊であるイスラエルの民を導くためには良い訓練のときとなりました。そして神から託された民を神から指示された場所まできちんと導いて来て、その役割を果たしました。
モーセには神の命令を果たした安心感と達成感を味わうと共に、イスラエルのこれからの祝福を心から願い祈りました。同じ父ヤコブから生まれた12の部族ですが祝福の内容に違いはあります。これは前回も少しお話しましたが、同じヤコブの子孫でもそれぞれに賜物や性格に違いがあります。
また全能の神は、一人一人の人間が将来的にも置かれる状況で、どのような応答をするのかをご存じの上で、予知に基づいて預言をされていると言われます。神の預言は運命論ではありません。運命論では、全能の神が将来も全て決めておられるので、今更、どんなに人間が、もがいても何も変わることは無いとなってしまいます。
神の祝福を受けるには何もしなくても良いということではありません。ここにあります祝福の言葉にもありますように、神の恵みに応答して行く中で祝福は満ちて行くものです。その応答の機会は誰にでも平等に与えられているものです。ただ全能の神はどの人がどのように応答をするのかをご存じですのでそれに基づいて預言をされているようです。
7、主に救われた民
モーセはイスラエルに祝福の言葉を語り終えましたが、やはり祝福を与える祝福の源である神を褒め称えずにはいられません。それはイスラエルに祝福の言葉を語る前にも神を褒め称えた通りです。イスラエルのニックネームであるエシュルンの神に並ぶ者はいません。唯一の神により五つのことがあります。
第一に、神はあなたを助けるために天を駆け威光に満ちて雲に乗られます。それは、どこにいても駆けつけて助けてくださるということです。それで、ここには神はおられないというところはありません。第二に、いにしえの神は隠れ家ですので、私たちは神を隠れ家として住みます。神はとこしえの腕で下から私たちを支えてくださいます。
第三に、神はあなたの前から敵を追い払い「滅ぼし尽くせ」と言われました。敵とは悪です。神が支えてくださるので、悪を追い払い、滅ぼし尽くせと言われるのですから、私たちは妥協をすることなく、悪は徹底して追い払い滅ぼし尽くす必要があります。
悪を追い払い、滅ぼし尽くすことによって、第四に、イスラエルは安らかに住むことが出来ます。そして、ヤコブ、イスラエルの泉だけが涸れずに、地には穀物と新しいぶどう酒は溢れ天も露を滴らせ潤います。第五に、食べ物も飲み物も豊かに与えられます。
「イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。」 「幸い」とは原語で「アシェル」です。聖書には駄洒落が多くあり、ここはイスラエルの12部族の最後のアシェルから続きます。またあなたのように主に救われた民があろうかと問います。
イスラエルは奴隷の地であるエジプトから解放されて救われました。しかしイスラエルにとってエジプト脱出は大きな目標ではありましたがゴールではありません。エジプト脱出はエジプトの支配から逃れただけで何もない状態です。イスラエルにとってのゴールは約束の地に入って幸いな生活を送ることです。
そのために、どこにいても助けてくださる神を隠れ家として支えていただき、敵である悪を追い払い滅ぼし尽くすことによって、安らかに住み、豊かな飲食物を得ます。これは現代を生きる霊的なイスラエルであるクリスチャンも同じです。
罪の象徴であるエジプトを脱出して救われてクリスチャンになることは一つ目の大きな目標です。しかしそこがゴールではありません。どこにいても助けてくださる神を隠れ家として支えていただき、敵である悪や罪を徹底的に追い払い滅ぼし尽くす必要があります。
しかしこれは本当に簡単なことではありません。エジプトを脱出したイスラエルも荒れ野の40年間に、敵だけではなく、自分の中の悪や罪の多くの問題がありました。自分の外側にいる敵はもしかすると大した問題では無いかも知れません。問題は自分の中の敵である悪や罪です。これは自分だけの力ではどうにもなりません。
しかし、主はあなたを助ける盾、あなたの威光の剣です。盾は敵の攻撃から守る武具で、剣は敵を攻撃する武具です。主ご自身が武具になってくださいますので心強いものです。エフェソの信徒への手紙6章の神の武具のところには、盾は信仰(6:16)、霊の剣は神の言葉(6:17)と書かれています。
先週の佐藤仁美先生の説教にありました主イエスもヨセフも、信仰を盾として、神の言葉を霊の剣として対応したと言えます。更に現代を生きるクリスチャンは自分の力だけで戦うのではありません。聖霊が弁護者として助け導いてくださいます。
敵はあなたに屈服し、あなたは彼らの高き所を踏みつけ、完全に勝利をします。私たちの罪を赦し勝利の人生を歩むために主イエスは十字架に付かれました。主に救われた民、救われる民として、罪を赦されるだけではなく、主の救いを完全なるかたちにして、幸いな人生を歩ませていただきましょう。
8、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。モーセは主のお導きに従って、イスラエルをエジプトから救い出し、約束の地の手前まで導いて来ました。そしてイスラエルに最後の祝福の言葉として、主に救われた民として神の武具を身に付けて戦い、幸いを得るようにと語りました。
私たちも主イエスの尊い十字架によって、主に救われた民、救われる民として、聖霊の導きによって、神の武具を身に付け戦い、救いを確かなものにして、幸いを得る者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。