「信仰による救い」 

2025年10月26日 宗教改革記念礼拝式説教 
マルコによる福音書10章46~52節
    
主の御名を賛美します。
 
1、盲人
主イエスと弟子たちを含む従う者たちはエリコに来て、出られます。そして大勢の群衆も一緒です。この大勢の群衆は主イエスに従うことを目的としている人もいますが、過越しの祭りでエルサレムに上る巡礼者たちも一緒にいるようです。

するとティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていました。バルはアラム語で息子の意味です。盲人であることは現代でも色々な苦労があると思いますが、当時もとても辛い思いをしています。その辛さは三重の苦しみが考えられます。

一つ目は、目が見えないこと自体です。当時は例えば現代にはあるような盲人用の道路整備等、福祉的な設備は勿論ありませんので大変です。二つ目は、当時はヨハネ9:2で盲人を見た弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と言うように、盲人は誰かが罪を犯した結果であり、呪われていると考えられました。

目が見えないだけでも辛いのに、さらにそれは罰が当たったんだと言われるのは辛いことです。家族や親戚からも温かい目では見られなかったかもしれません。三つ目は、当時の仕事は多くが力仕事で、盲人ですと他の仕事が出来ないので、物乞いをするしかなかったようです。

盲人であるだけでも大変であるのに、その上に物乞いをすることによって惨めな思いにさせられます。本当に何重もの辛さがあったことと思います。盲人は目の見えない人です。今ここにお集まりの方々は、私を含めて年齢的に視力が落ちてきている人はいますが、肉体的に盲人の方はいません。

しかし主イエスはヨハネ9:41でファリサイ派の人々に、「『見える』とあなたがたは言っている。だから、あなたがたの罪は残る」と言われます。聖書はすべての人に向けて書かれたものであり、私には関係がないという人は一人もいません。盲人は、肉体的には目は見えますが、霊的に見えていない私たちの姿です。

私たちすべての人は盲人と同じで、霊的な真実が見えないために、自分の力では、いくらもがいても惨めな状況から抜け出すことが出来ない無力な存在です。盲人は何とかこの惨めな状況から抜け出したいと思っています。

しかし自分の力だけではどうしようもできないことは分かっています。神の憐れみにすがる他はないことを知っています。そのような時に主イエスと弟子たちがエリコの町に来たことを噂で聞きました。大勢の群衆がいますので噂は嫌でも耳に入っていたことでしょう。

盲人は主イエスに出会う機会を考えて、エリコの出口で出て来られるのを待ち構えていたのかもしれません。人生においては自分の生き方を良い方向に変えるチャンスを逃さないことは大切なことです。チャンスはいつでもあるとは限りません。あるときにしっかりと掴み取ることが大切です。

2、叫び
ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めました。盲人は主イエスを「ダビデの子よ」と呼びます。ダビデの子は救い主、メシヤの称号です。メシヤは盲人の目を開くと預言者イザヤ(イザヤ29:18、35:5)がはっきりと預言しています。

盲人はどんなことをしてでも自分の願いをメシヤである主イエスに伝えようとして叫びました。私たちも色々な苦しみに遭うことがあります。その時に色々な言葉を口にします。若しかすると神に対して不満を口にするかもしれません。

「なぜ私をこのような苦しみに遭わせるのですか。なぜ私をこの苦しみから解放してくださらないのですか」等です。しかしこれ以上に落ちようの無いどん底に落ちた時に出て来る言葉は、盲人の言う、「私を憐れんでください」ではないでしょうか。落ちるところまで落ちてしまうと、これ以外の言葉は出て来ないのかも知れません。

詩編(6:2、9:14)でも、神に頼る他に無い信仰者が苦しみの中から叫ぶ言葉は、「主よ、憐れんでください」です。「主よ、憐れんでください」という言葉は心に響くものがあります。これはラテン語では、「キリエ、エレイソン」と言ってレクイエム等で何度も繰り返される歌詞です。

「主よ、憐れんでください」は人間が神に苦しみを訴えるのに最も相応しい言葉であると思います。これは、主の憐れみにすがる以外に私には何もありませんという信仰の告白でもあります。盲人は自分の一生が掛かっていることですので必死です。

しかし多くの人々は盲人を𠮟りつけて黙らせようとしました。当時の教師たちは歩きながら教えるという習慣がありました。長い道則を歩くには時間が掛かりますので、その時間の有効活用でもあります。主イエスはエルサレムへの道中も大勢の群衆に教えながら歩いていたのでしょう。

しかしそこで盲人が大きな声で叫びますと、主イエスの教えが聞こえませんので、群衆の気持ちも分かります。しかしそれは憐れみを求める盲人に対して、余りに憐れみの無い行動に思えます。主イエスは43~45節で、自分が仕えられることを求めるのではなくて、自分が仕える者となりなさいと教えられたばかりです。

群衆は当時の価値観によって盲人を低く見て、軽んじていたのかもしれません。上から目線的な所があったのかもしれません。しかし盲人はそれにもめげずにますます叫び続けて先程と同じく、「ダビデの子よ、私を憐れんでください」と繰り返します。本当に大切な言葉ですので繰り返しています。

主イエスは盲人の声を聞かれ、立ち止まれました。主イエスは、「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない」(マタイ9:13、12:7)と言われるお方です。主イエスはこれからご自分が十字架に付けられに行くという大変な時にも盲人を憐れまれます。そして盲人を呼び寄せられます。

盲人は上着を脱ぎ棄て、躍り上がって主イエスのところに来ました。私たちは何かを張り切って行うときに腕まくりをしたりしますが、上着を脱ぎ捨てたのはそのような感じでしょうか。躍り上がるのは46節で座って物乞いをしていたのとは正反対の姿です。

3、何をしてほしいのか
主イエスは盲人に、「何をしてほしいのか」と尋ねられます。これは36節でヤコブとヨハネにも尋ねられた言葉と同じです。ローマ10:10は、「人は信じて義とされ、口で告白して救われるのです」と言いますので、正しく口で告白することが大切です。

盲人は、「先生、また見えるようになることです」と答えます。聖書協会共同訳では、盲人は以前は見えていたこともあるというニュアンスです。新改訳は、「先生、目が見えるようにしてください」と訳して、以前に見えていたというニュアンスはありません。

ここで使われている原語の言葉(ギ/アナブレポー)は、「見えるようになる」と「再び見えるようになる」の両方の意味があり、どちらの意味かは分かりません。いずれにしましても盲人はとても素直な答えをして、捻くれたり、いじけた答えはしません。

盲人は今の自分の惨めな生活は目が見えないことから来ていると分かっています。目が見えるようにさえなれば、仕事が出来るようになりますので、物乞いをして惨めな思いをする必要はなくなります。これは肉体の目は見えている私たちも同じです。

肉体の目は見えていても、なぜ私たちは惨めな人生を送ることがあるのでしょうか。それは私たちの目には梁があって、はっきりと見えないからです(マタイ7:4)。私たちが主にしていただくことは目にある梁を取り除いていただき、霊の目を見えるようにしていただくことです。

そして正しく見えるようにしていただくことです。主は、自分の目には梁があって見えないと認めて、憐れんでくださいと叫ぶ者を憐れんでくださいます。盲人は、また見えるようになることを願いました。主イエスは、「行きなさい。あばたの信仰があなたを救った」と言われます。

4、信仰による救い
盲人の信仰とはどのようなものでしょうか。盲人は何か複雑なことを考えて言ったのではありません。心からの願いを正直に主イエスに二つのことを伝えただけです。初めに、「私を憐れんでください」と叫び続けました。そして願いは具体的に、また見えるようになることですと伝えただけです。
信仰は難しいことではありません。ただ全能の神である主イエスに憐れみを求めて、全幅の信頼を置くだけです。信仰は人間が何かを信じることではありません。信仰と訳されている言葉(ギ/ピスティス)は神が主語ですと真実と訳されて、人間が主語ですと信仰と訳されます。

ピスティスは神の真実から始まります。真実な神は私たち人間の無力で惨めな姿を憐れんで救おうとされます。その神の真実の愛にただ素直に応じることが信仰です。何も疑わず、自分の願いを素直にそのまま伝えます。神の真実に応答する人間の信仰によってのみ人は救われます。

救いによって見えるようになったのは肉眼だけではありません。霊の目も見える様になりました。主イエスは盲人が願う以上のことをされました。それは盲人が自分で言った、「見えるようになる」ことの本当の意味が実現しました。

肉体の目が見えるようになることも大切ですが、もっと大切なことは救われて、霊の目が見えるようになることです。主イエスは肉体の癒しだけではなく、信仰による救いへと導くことを願っておられます。そして霊の目が見えるようになる者は、主イエスに従う者とされます。

ただ私たちは主イエスに霊の目が見えるように一度していただいても、日々、主イエスに従い続けていないと、少しづつずれて行って見えなくなってしまいます。そしていつしか2節のファリサイ派の人々のように、的外れな方向に進んでしまいます。

そのようにお話しますと、一部の人がずれてしまうことはあっても、キリスト教界全体としてずれてしまうようなことはないであろうと思われるかも知れません。しかしキリスト教界全体に関わる問題が約5百年前に起きました。52節に、「あなたの信仰があなたを救った」とありますように、救いは信仰によります。

しかし当時のキリスト教界では腐敗が蔓延し、サン・ピエトロ大聖堂の建設資金等を集める目的で贖宥状(一般的には免罪符)が1515年に販売され、贖宥状を購入すれば罪の赦しが得られるとされました。それに対して反対の声を1517年に上げたのが、宗教改革を始めることになるマルティン・ルターです。

人間は救われても罪深い性質は残っています。聖霊の導きの中で、自分の罪深さを覚えて、主イエスの憐れみを求め続けるなら、主イエスは十字架で流される血潮によって私たちをきよめ続けてくださいます。主イエスは2千年前に十字架に付かれて神の真実は既に果たされています。後は人がそのことを受け入れるだけで救いは完成します。聖霊に導きに従い、信仰によって救っていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。盲人は盲人であることの苦しみの中で、主イエスに全幅の信頼を置いて、憐れみを求め、自分の願いを素直に伝えて救われました。主イエスはすべての人の救いのために2千年前に十字架に既に付かれています。そのことを素直に受け入れ、盲人のように救われて、主イエスに従い、喜びに溢れる人生を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン