「ホサナ」

2025年11月2日礼拝式説教  
マルコによる福音書11章1~11節
     
主の御名を賛美します。

1、子ろば
主イエスの一行はいよいよエルサレムに近づいてきました。11章から最後の16章まではエルサレムでの内容です。そのうち11章から15章までは受難週の内容で、今日は受難週の初めの日曜日のことです。一行はオリーブ山に面したベトファゲとべタニアにさしかかりました。

べタニアはエルサレムの南東3kmに位置し、ベトファゲはエルサレムとべタニアの間にあります。ベトファゲは、「いちじくの家」の意味で、次の12~14節の内容に繋がります。そこで主イエスは二人の弟子を使いに出そうとされ、「向こうの村へ行きなさい」と言われます。

これはどちらの村を指しているのかははっきりとは分かりません。しかし、順番から考え、また11節でべタニアへ出て行かれることからしますと恐らくべタニアと思われます。べタニアにはラザロとその姉妹のマルタとマリアの家があります。

そして、「村に入るとすぐまだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい」と言われます。主イエスと弟子たちは遥かガリラヤから歩いてここまで来ました。その距離は150kmはあります。

それなのに後は僅か3km位なのに、今なぜ子ろばが必要なのでしょうか。それはゼカリヤ9:9の救い主、メシアについての預言の成就のためです。この預言を成就することにはどのような目的があるのでしょうか。それは救い主、メシアの本当の姿を皆に知らせることです。

過越しの祭りのために集まって来た巡礼者を含めたすべての人に救い主の本当の姿を知らせることです。このときには250万人以上の人がエルサレムに集まっていたと言われます。今迄は主イエスはご自分が救い主であることを隠されてこられました。しかしここでは、人々に本当の救い主の姿を知らせます。

それは10:42にありました、諸民族の支配者のように人々の上に君臨したり、権力を振るったりはしません。武力で支配する王であれば馬や戦車に乗るでしょう。しかし主イエスは平和の君として、平和を象徴するために子ろばに乗られます。「まだ誰も乗ったことのない」ことは、聖なる目的に使われることを表します(民数記19:2等)。
2,主がお入り用
しかし、勝手に子ろばを連れて来たりして本当に大丈夫なのかと二人も心配をすることでしょう。そこで主イエスは、「もし、誰かが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら」と想定問答を教えます。そのときは、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いなさいと教えられます。

しかし普通に考えますと、子ろばのつないであるのをほどく前に、なぜ前もって、「少し子ろばを貸してください」とお願いをしないのだろうかと考えてしまいます。ただ11節からしますと夕方が近づいていたので急いではおられたようです。

そして何よりも、「主がお入り用なのです」の言葉で十分であるということです。「主がお入り用なのです」と言えば、人々の心に働いて子ろばを渡してくれるという預言です。マルコによる福音書で主イエスがご自身を、「主」と言われるのはこの個所だけです。

ただ主イエスは子ろばを持ち主から取り上げるのではありません。「すぐここにお返しになります」の約束のとおりに11節で返されるようです。

ここで二人が自分たちで色々と考えていたらきりがありません。本当に子ろばは、「主がお入り用なのです」と言えば渡してもらえるのだろうか。少し位は万が一に備えて、お金も用意しておいた方が良いのだろうか。もし子ろばの持ち主に断られたら何軒位回る必要があるのだろうかなどと考えていたらきりがありません。

果たして二人は出て行って、主イエスがお命じになられたとおりにしました。二人は何もかもが主イエスの預言のとおりであることを体験しました。私たちもこの二人のように、何も疑いを持たないで主イエスのお命じになられるとおりに素直に行い、御言葉を体験し続ける者でありたいものです。

3、上着
二人は主イエスがお命じになったとおりにして、子ろばを連れて来ました。何も自分たちの考えを挟まずに、命じられたとおりに忠実に従いました。大切なことです。そして自分の大切な上着を子ろばに掛けました。それは馬に掛ける鞍の役割です。

弟子たちはすべてを捨てて主イエスに従って来ました。そのような弟子たちにとって上着は唯一の財産とも言える大切なものです。その大切なものを献げる上に主イエスは乗られました。これは今日でも同じです。まず私たちは自分の考えを捨てて、主イエスのお命じになられるとおりに従順に行う必要があります。
そして自分にとって大切なものを主イエスに献げるときに主イエスはそこにお乗りになってくださいます。私たちの行うことは、主イエスがお命じになられ、主イエスがお乗りになられるのに相応しいものでことをいつも心に留めていたいものです。

多くの人が自分の上着を道に敷きました。またほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て敷きました。王が入場するための特別な道です。この葉の付いた枝はヨハネ12:13では、なつめやしの枝です。これはイースターの1週間前の出来事で、来年は3月29日で、棕櫚の主日と言われます。

28年前の棕櫚の主日に私たち夫婦は新婚旅行でニューカレドニアの教会の礼拝に出席しました。全てフランス語だったので何が何だか分かりませんでした。ただ礼拝堂の中に葉の付いた木の枝が沢山置かれていたのが印象的で、ああ棕櫚の主日なのだと思いました。五感をとおして教会歴を味わうのも良いかと思います。

4、ホサナ
そして人々は、前を行く者も後に従う者も9、10節の御言葉を叫びました。9節は詩編118:25、26の引用です。「ホサナ」は、現代の賛美にも曲がありますが、へブル語で、「今お救い下さい」という意味です。

これは前回の10:47、48の、「私を憐れんでください」に続いて、人間が自分の力ではどうすることもできず、神に訴えざるを得ない根源的な叫びす。ホサナは元々は「今お救い下さい」という意味ですが、「栄光あれ、祝福あれ」という意味でも使われるようになっています。

こうして、主イエスはエルサレムに着かれ、神殿の境内に入られ、周囲を一瞥されました。どのように見られたのかは15節からの内容に続きます。そしてすでに夕方になったので、十二人を連れてべタニアに出て行かれました。マルタとマリアの家に行ったのかも知れません。

救いが必要であることは2千年前のこのときも、今も変わりはありません。人々はユダヤ人がずっと長い間、待ち望んでいた救い主、メシアが目の前に現れたと信じ、これからのことを期待してホサナと大声で叫んでいます。それは純粋な期待の表われであったと思われます。

時代や地域によって、人々の求める救いの種類は異なるかも知れません。このときのユダヤはローマの支配下に置かれていましたので、ユダヤ人全体としてはローマの支配からの解放が、救いの大きな意味であったことは、ある意味で自然なことかも知れません。それは現代ですと少し異なりますが、今のウクライナにとっての救いは何よりもロシアからの解放であることと似ているのかも知れません。また聖書の記事で救いを求める人では、悪霊に取り付かれた人と病人が多く登場します。これらの人々は人間の力では、対応ができないために、神により頼んでいることもあるかも知れません。

しかしどのような理由であれ、神に救いを求めることは正しいことです。主イエスはマタイ5:4で、「悲しむ人は、幸いである その人たちは慰められる」と約束されます。これは悲しむすべての人が自動的に慰められるということではありません。主にあって悲しみ、主に救いを求める者は慰められます。

ここで、「ホサナ」と叫んだ人々は、それなりに真剣な思いでした。しかし弟子たちも含めて人々は主イエスがどのような救い主、メシアであるかは正しくは分かりませんでした。しかしそれはそれで仕方が無いのかも知れません。私たち人間はそれ程、簡単には神を理解することはできません。そのような私たちの罪のためにも主イエスは十字架に付かれました。

自分自身を振り返りましても、神を信じるなら何か素晴らしいことだけが起こり続けるのではないかというような期待を持っていました。何かご利益宗教的な期待があったような気がします。神からは大きな祝福をいただき続けていて感謝で一杯です。

しかし自分自身の足りなさもあり、また更なる成長のためか課題も与えられ続けています。良いとこどりはできません。今、自分が神を正しく理解できているかどうかは大きな問題ではありません。聖霊の導きの中で、何があっても神を見上げて、「ホサナ」と心から叫び続け、主にあって導きに従い続けるなら、必ず正しい方向へと導かれて行きます。主に信頼して歩ませていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。人々は主イエスに、「ホサナ」と叫びましたが、救い主についての理解は不十分です。それは私たちも同じですが、救いを求める思いは同じです。聖霊の導きの中で主に従い続けることができますようにお導きお守りください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン