「信仰による祈り」
2025年11月23日礼拝式説教
マルコによる福音書11章20~25節
主の御名を賛美します。
1、神を信じなさい
11章から受難週の出来事に入りまして、1~11節は受難週の初日である日曜日の出来事です。前回の12~19節は二日目の月曜日の出来事です。今日は三日目の火曜日の出来事です。日曜日と月曜日の出来事は少ないですが、火曜日の出来事は多くありまして、13章の終わりの37節まで続きます。
19節で都の外のべタニアへ出て行かれた主イエスは、翌朝早く弟子たちとまたエルサレムに向かわれます。その通りがかりに見ると、昨日のいちじくの木が根まで枯れていました。完全に枯れていたということです。そこで、弟子たちの代表格であるペトロは昨日のことを思い出して主イエスに、「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」と言いました。
いちじくの木は大きい物は高さ5m位になるようですので、そのような大きな木が一晩で根まで枯れていたら驚くものです。「ペトロは主イエスに言った」とありますが、これは主イエスが14節で言われた言葉が、本当に出来事となったことに対するペトロの驚きの言葉です。
それに対する主イエスの御言葉は少し不思議な感じのするものです。「神を信じなさい」です。ペトロは8:29で主イエスに対して、「あなたは、メシア(救い主)です」と告白をしました。そのときのペトロは心からの告白であったと思われます。ただメシアがどのようなお方であり、メシアの言葉は自然現象を超えて、必ず出来事となるとまでは思いが至らなかったようです。
いちじくの木が一晩で根まで枯れることはとても不思議なことです。しかし現代においても、それに勝るとも劣らぬような不思議なことは起こるものです。そのときに神を信じる信仰を持っているかいなかで見方はまったく違ってきます。
神を信じない者にとっては不思議なことが起こるものだなの一言で終わってしまうことでしょう。そこには神の御業は素晴らしいというような思いはまったくありません。しかし神を信じる者にとっては、不思議な出来事の背後にどのような神の御心があるのだろうと考えるものです。
すべての出来事が必ずしも神の御心に従って起きているとは限りません。事件になるようなことは、人の罪の結果であることもあります。何か出来事が起こるときに、神を信じる信仰によって、それが御業であるのか、人の罪によるものであるのか、自然なことであるのか、出来事の背景を正しく理解する者でありたいものです。
2、信仰による祈り
神を信じた上で、「誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる」と言われます。この山は、具体的には目の前に見えている標高814mのオリーブ山で(地図10、E5)、海はエルサレムに近い死海です。
先週の17節に信仰者の一人一人が、「聖霊が宿ってくださる神殿」(Ⅰコリント6:19)である、「祈りの家」とありました。ここでは祈りの家である私たちが祈るときに大切なことを二つ教えられます。一つ目は、「祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」ということです。
まず、ここで信じることはどういうことでしょうか。何でもどんなことでも信じればそのとおりになるのでしょうか。前にもお話したことがあると思いますが、私も山に海に入れと祈ったことがあります。しかし山に海に入らないだけではなく何も起こりませんでした。それはなぜなのでしょうか。
山が海に入ることは、神を信じて、心の中で少しも疑わず、祈り求めるときに起こることであるからです。ここで三つのことが考えられます。第一に、神を信じるとは、主イエスがマタイ4:7で言われたように、「神である主を試してはならない」ものです。何も必要が無いのに、本当に山が海に入るのかなどと主を試す思いの祈りは聞かれません。
第二に、祈り求めることを信じるということは、信仰に基づくということです。そして信仰とは何かについてローマ10:17は、「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです」と言います。それはキリストの言葉によって聞いて信じることは、そのとおりになります。
御心に適うことを祈り求めて信じるならば、そのとおりになります。それは裏を返せば、キリストの言葉から来ないことをいくら祈り求めて信じても、そのとおりになりません。例えば、私が宝くじを買って、一等が当たるように祈り求めて、いくら当たると信じても当たることはないと思います。
なぜなら、そのようなことをすることは、キリストの言葉である聖書には書かれていないからです。私たちが神に祈り求めるときに、初めはすべて自分の願いだけで始まるかも知れません。しかし神に祈り、神と交わる中で、少しづつ御心が示されて行き、御心に適わない思いは取り除かれて行きます。そして御心を信じる思いが与えられて行き、その御心のとおりになって行きます。
2、3節で、子ろばを連れて来なさいと言われた二人の弟子も、初めは本当にそのようなことをして大丈夫なのだろうかという思いであったと思われます。しかし弟子たちは6節で、主イエスの言われたとおりに話すとそのとおりになりました。
御言葉に素直に従うときに、その御言葉が出来事になる経験を積み重ねて行くことによって、信仰は強められて行きます。私たちも主イエスの御言葉は必ず出来事となると信じて、そのとおりに行う者でありたいと思います。
第三に、「山」はゼカリヤ4:7などで、大きな問題を表す比喩として使われます。この後に主イエスは十字架に付けられていなくなられ、弟子たちは遣わされて行くことになります。そのときには、弟子たちは目の前にあるオリーブ山のような大きな問題に直面して行きます。
そのときに、到底、解決することなどは不可能のように思われることも出て来ます。そのようなときには、主イエスの御言葉によっていちじくの木が一晩で枯れたことを思い出す必要があります。
そして御心に従って、祈り求めるものは、すでに得られたと信じます。すると山のような大きな問題が勝手に動いて、海に入って行って解決することが起こります。
3、恨みを赦す
祈るときに大切なことの二つ目の初めに、「また、立って祈るとき」とありますが、これは祈るときには立つことが大切なのではなく、ユダヤ人は立った姿勢で祈るようです(マタイ6:5)。現代でもエルサレムの嘆きの壁で祈るユダヤ人は、外であることもあるかも知れませんが立って祈っています。
そして二つ目の内容は、「誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」です。確かに、自分は何か他に人に対して恨みに思うことは赦さないけれど、自分の過ちは赦してくださいと祈るのは自分勝手なことです。
マタイ6:12の主の祈りの中にも、「私たちの負い目をお赦しください 私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」とあります。ただここで注意することもあります。それは何でもかんでも赦して、すべていい加減にして良いと言っているのではありません。赦すことは何か自分が恨みに思うようなことです。例として後に主イエスは十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)と言われ、ご自分を十字架に付けた人々を赦されています。
しかし主イエスは前日に神殿の境内では、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆され、境内を通って物を運ぶこともお許しになりません。神殿を汚す悪は徹底的に取り除かれます。また実を結ばないいちじくの木は枯れさせられます。そこには一切の妥協や赦しはありません。
それは人を赦すことと悪を取り除くことは全く別次元のことであるからです。それらを混同しない注意が必要です。罪を犯してしまう人は赦します。しかしその人がまた同じような罪を犯してしまうような環境は取り除く必要があります。罪を憎んで人を憎まずです。
罪を犯すことは本人にとっても良くありませんし、周りにも迷惑を掛けることになります。教会やクリスチャンは何でも赦すべきだというような空気の中で、先週の15、16節の神殿の境内の中のような滅茶苦茶なことが起こり、問題になることはあります。
そこには、人は赦しますが、罪は犯させないようにする対応が必要となります。しかしこのような問題の解決は難しいものです。本当に動かし難い大きな山のようです。しかし、そこで何か恨みに思うことがあれば赦し、祈り求める中で、このような山が動く神のときが必ず来ます。
これらのことも理屈で理解するというよりも、実際に体験を重ねて学ぶ必要があります。私自身も体験をとおして学ばせていただいています。主イエスが罪の身代わりとして十字架に付かれているのですから赦せないことは何もありません。そして主イエスの体である教会は主ご自身が清めてくださいます。聖霊にも導きに従って主に信頼して祈り求めて行きましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは祈りについて、神を信じ、すでに得られたと信じて祈り求め、恨みに思うことがあれば赦してあげなさいと言われます。聖霊の力によってそのような歩みをさせてください。また主の恵みの体験をとおしてまなばせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン
