「子どもの祝福」
2025年11月9日 幼児祝福礼拝式説教
エフェソの信徒への手紙6章1~4節
主の御名を賛美します。
1、子どもの祝福
今日は幼児祝福礼拝式で、礼拝の最後に幼児の祝福を行います。「祝福」は聖書に多く出て来る言葉であり、神が与えてくださる恵みです。祝福は幼児だけに必要なのではなく、すべての人が求めるものです。
祝福の具体的な内容は、一般的に3節にあります、「幸せになり、地上で長く生きることができる」ことと言えます。私たちは幼児が幸せになり、長く生きることができることを望みます。これは申命記5:16の引用です。私たちは誰もが幸せになることを望みます。そしてその幸せが長く続くことを望みます。
ここでは、「地上で長く生きること」と訳されていますが、これはこの世の地上で長く生きることも含まれると思われますが、それだけではないようです。元の申命記5:16では、「主が与えてくださった土地で長く生きることができる」とあります。
主が与えてくださった土地は、申命記では直接的にはカナンの地を指しますが、霊的な意味としては、主が与えてくださるこの世の神の国で、またその後の天国で永遠に生きることです。そうでなければ、この世の地上での人生は長くても百年位ですので、それで終わりであれば、どんなに幸せであっても空しいものです。
しかし逆に、幸せではなくて、地上で長く生きることができない場合には神の祝福がないという意味ではありません。私たち人間には計り知れない神の摂理の中で、本人には何の問題もないような人でも、幸せそうではなく、長く生きることができない場合もありますが、そのような人のためにも天国があります。
神の祝福である、幸せになり、長く生きることは誰もが望みますが、それはどうしたらできるのでしょうか。それは1、2節にあります、神の戒めに伴なう約束として与えられることです。
2、両親に従う
1節で、「子どもたち」と子どもに命じます。この子どもとは、どのような人を指すでしょうか。子ども礼拝等に生徒として参加する年齢位の人のことでしょうか。その人たちも含みますが、その人たちだけではありません。ここでは、「子と親」の小見出しがあり、親子の関係について話しています。
親子は例えお互いに年齢がいくつになっても親子であることに変わりはありません。私たちすべての人には親がいます。それで、すべての人は、いくつになっても親にとっては子どもです。それで、この子どもたちというのは私たちすべての人に対する言葉です。
そして私たちすべての人が行うことは、「両親に従う」ことです。これは両親が今この世で生きているかどうかは関係がありません。またこれは両親がクリスチャンであるかどうか、子どもがクリスチャンであるかどうかも関係はありません。すべての子どもは両親に従う必要があります。
そしてその従うのは、「主にあって」です。「主にあって」というのは、どのような意味でしょうか。この後に説明がありまして二つの意味があります。一つは5節にあります。「主にあって」両親に従うとは、キリストに従うように、両親に従うことです。
もう一つは6節にありますように、「主にあって」ということは、心から神の御心を喜んで行うことです。神の御心を喜んで行うということは、万が一、両親が神の御心ではないことを行う場合、極端な場合には犯罪等である場合には、従う必要はありません。しかしそのような例外以外の場合には従います。
3、両親に従う理由
ではなぜ両親に従う必要があるのでしょうか。使徒パウロは5つの理由を挙げます。一つ目は、「主にあって」ですので、これはクリスチャンとしての責任です。二つ目は「正しいことだからです。」 正しいとはどういうことなのでしょうか。
同じ内容がコロサイ3:20にあり、「それが主に喜ばれることです」と言います。正しいことは、主に喜ばれることであり、神の御心です。三つ目は、これは律法の中心である十戒の5番目の戒めだからです。私たちは両親を敬います。
「従いなさい」という教えは、「敬いなさい」という教えから出て来るものです。私たちは神に従いますが、それは神を敬っているからです。同じように私たちは両親を敬いますから、従います。
私たちは両親をとおしてこの世に生まれています。両親を否定することは自分の存在を否定することに繋がります。しかし人間には罪がありますので、色々な意味で、親子関係は難しい場合もあります。そして残念ながら両親を敬うのが難しい状況にある場合もあります。
4、第一の戒め
「これは第一の戒め」と言いますが、それはどのような意味で、「第一の戒め」なのでしょうか。ここは新改訳の方が分かり易いと思います。新改訳は、「これは約束を伴う第一の戒めです」と訳しています。十戒の中で、祝福だけの約束が伴なうのはこの第五戒だけです。第二戒の偶像礼拝の禁止は、呪いか祝福のどちらかが伴なうことになっています。
両親を敬うことによる祝福の約束の一つは幸せになることです。これを従う理由とすれば4つ目の理由です。両親を敬って、両親に従う子どもは、同じように、両親だけではなくて、自分の周りにいる他の人も敬うようになります。そのような人が幸せになるのはある意味で自然なことです。
それとは逆に両親を敬わないで、従わない人は周りの人をも敬わなくなりますので、良い人間関係を築くことが出来ません。結果として幸せになり難くなります。
そしてもう一つは、地上で長く生きることができることです。従う理由とすれば5つ目です。両親に従う子どもは、規則正しく、勤勉で、健康的な、節度のある生活をするようになります。そのような人が長く生きることも、ある意味で自然なことです。
逆に両親に従わない子どもは、不摂生で、怠惰な、不健康な生活となり易く、長く生きることが難しくなります。そういう意味ではこれらはある意味で自然なことではあります。しかしそれだけではなく、神の戒めを守る者に与えられる大きな祝福が伴います。
そのためには、子どもたちに、両親に従い、敬うことを教える必要があります。ここでいう子どもたちは、自分の子どもに限りません。子ども一般、また自分より年下の者、自分の部下等も含みます。どのように教えたら良いのでしょうか。
5、父親たち
そこで、「父親たち」と始まります。ここで、「父親たち」は良いのですが、その後には「母親たち」がありません。なぜ、「父親たち」だけなのでしょうか。これは父親が家長であり、家族を代表しているという理解のようです。子どもの教育の最終責任者ということです。それでここには母親も含まれるようです。
しかしある考えでは、子どもを怒らせるのは大抵は父親で、母親はあまり怒らせないので父親だけだという考えもあります。何となく耳の痛い解釈ではあります。父親への教えには、してはいけないことと、することが語られます。敬われて、従われるというのは権威のある立場にいることです。権威のある所には必ず責任も伴って来ます。
6、怒らせない
してはいけないことは、子どもを怒らせないことです。いや、子どもを怒らせないなどというのは無理だと思われるかも知れません。実際、我が家でも子どもが怒ることはあります。子どもを怒らせないというのであれば、子どもの言う事を何でも聞いて甘やかすのかというと、決してそのような意味ではありません。
同じ内容のコロサイ3:21では「子どもをいらだたせてはなりません。いじけるといけないからです」とあります。子どもを教育している中で、時には子どもが怒ることもあると思います。ただその時に、子どもを、いらだたせて、いじけさせてしまうことは、してはいけないということです。
子どもが幼い時には両親は子どもに対して絶対的な権威者として神のような存在です。そして時に親の権威を乱用し過ぎてしまうようなこともあります。しかし、5:1は、「ですから、神に愛された子どもとして、神に倣う者になり、愛の内に歩みなさい」と言います。
私たち自身が神に愛されている子どもです。父なる神は私たち子どもに対してどのような態度をとられるでしょうか。絶対的な権威を乱用されているでしょうか。そうではありません。5:2で、「キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、また、いけにえとし、私たちのために神に献げてくださったのです。」
私たちは神に愛されている子どもとして、神に倣う者になる必要があります。私たち自身が父なる神に罪を赦される者であり、神に愛されている子どもという自覚を持って、子どもに対応する必要があります。
あなたにとって神はどのような方ですかというイメージを質問すると、大抵は自分の父親のイメージと重なるそうです。父親が厳しい人だと神は厳しい方だというイメージを持ち易く、父親が優しい人だと神は優しい方だとイメージし易いそうです。
父なる神といいますからそうなのでしょうか。父親だけではなく、母親も含めて両親のイメージは、子どもが神のイメージを持ち、信仰を持つ上でとても大切な存在です。
7、主のしつけと諭し
するべきことは、「主のしつけと諭しによって育て」ることです」。ここで、しつけは、別の言葉では、教育、懲戒、こらしめ、訓練等の意味があります。しつけはどちらかというと行動による訓練で英語ではTrainingと訳されます。
それに対して諭しは言葉による訓練で、他の言葉では忠告や警告と訳されます。子どもを育てるには行動と言葉の両方の訓練が必要です。そして、しつけと諭しも、「主の」ですから「主にあって」です。
そこでは、私たち自身が主にあって、どのようなしつけと諭しによって生きているかが問われます。自分が行っていないことを子どもに言葉だけで教えることはできません。また子どもは親の言葉も聞いて学びます。しかし親の言葉よりももっと学ぶのは親の生き方、親の背中ととおしてです。
私たちは自分自身が自分の両親を敬い、それによって祝福を受ける生き方をとおして、子どもに両親を敬うことによって祝福を受けることを教える必要があります。しかしそうは言っても、私たちは信仰を持つようになっても何度も失敗を繰り返してしまいます。
しかしそれでも大丈夫です。それは私たちの罪の赦しのためにキリストが十字架で既に、先程の5:2で、「ご自分を宥めの香りの供え物、また、いけにえとし、私たちのために神に献げてくださった」からです。それにより悔い改める者の罪はすべて赦されます。
このことを私たちが聖霊の働きによって確信を持ち、自分の生き方をとおして、子どもたちにしっかりと伝えて行きましょう。そうすれば、子どもたちは、幸せになり、地上で長く生きることができるようになり祝福されます。
8、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは誰でも幼児の祝福を願います。そのためには、まず私たち自身が祝福を受ける人生を歩み、幼児に見せて、伝える必要があります。私たちは自分の力ではそのような生き方はできませんが、私たちの罪の赦しのためにキリストが十字架に付かれました。私たちに与えられる聖霊によって、御心に従って歩み、祝福を受ける者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
