「神のものは神に返す」
2025年12月14日礼拝式説教
マルコによる福音書12章13~17節
主の御名を賛美します。
1、ファリサイ派とヘロデ党
主イエスは受難週の月曜日に、11:15で宮清めをされました。それに対して翌日の火曜日に、祭司長、律法学者、長老たちは、11:28で主イエスに対して何の権威でこのようなことをするのかと反撃をしましたが、返り討ちに遭ってしまいました。更に、主イエスによる「ぶどう園と農夫」のたとえによって追撃を受けます。
13節の「人々」は原語では「彼ら」と書かれていて、それは11:27の、「祭司長、律法学者、長老たち」です。祭司長たちは11:28で主イエスの権威について議論をしましたが負けてしまいました。真っ当な議論では勝ち目は無さそうなので、今度は主イエスの言葉尻を捕らえて陥れようとします。
祭司長たちは負けたばかりですので、選手交代で、今度はファリサイ派やヘロデ党の人を数人主イエスのところに遣わします。ファリサイ派は3:5で、主イエスが自分たちの言い伝えに従わず、安息日に手を萎えた人に癒しを行ったことに腹を立てて、3:6でヘロデ党と一緒に主イエスを殺す相談を始めています。
宗教的や政治的に立場の異なる、祭司長、律法学者、長老、ファリサイ派、ヘロデ党たちが、主イエス憎しという一つの共通点だけで手を組みます。「敵の敵は味方」という格言がありますが、主イエスが共通の敵なので、その他は味方ということです。極悪大同盟です。
彼らは主イエスのところに来て、主イエスについて二つのこと、「先生、私たちは、あなたが①真実な方で、②誰もはばからない方だと知っています」と言います。それぞれの理由について、①の理由は「④真理に基づいて神の道を教えておられるから」で、②の理由は、「③人に分け隔てをしないから」です。
確かに主イエスは、相手が誰であっても分け隔てをせずに、ただ真理に基づいて神の道を教えておられます。これは彼らの心からの言葉ではありませんが、言っていることは完全な真実です。ただ、「誰をもはばかることなく、真理に基づいて教える」と言うのは、おだてておいて、その勢いで何かを言わせて、その言葉尻を捉えて陥れようとする姑息な作戦です。
2、皇帝への税金
そのような彼らが練りに練ってきた質問が、「皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか。いないでしょうか。納めるべきでしょうか。納めてはならないでしょうか」です。皇帝への税金はユダヤが紀元6年にローマの直轄地になってから課せられましたが、ユダヤ人は当然、反発心を持っています。
「許されているか、いないか」を、新改訳は意訳で、「律法にかなっているか、いないか」と訳していて、これはユダヤ人の判断基準である律法的に正しいかどうかという質問です。更に積極的に納めるべきか、すべきではないかです。
これは前の11:28の、「何の権威で、このようなこと(宮清めと教え)をするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」の質問に似ています。そのときは、天からの権威と言っても、人からの権威と言っても問題がありました。今回も全く同じです。
もし、「税金を納めるのは許されている、納めるべき」と言うとどうでしょうか。ローマに納める税金は、偶像崇拝やローマの支配のために使われます。使徒5:26には、紀元6年に税金を集めるために行われた住民登録に対してガリラヤのユダが民衆を率いて反乱を起こしたことが書かれています。
税金を納めて良いと言えば、ローマの支配に反対している反体制側のユダヤの民衆の支持を失うことになります。では反対に、「税金を納めてはならない」と言うとどうでしょうか。主イエスは納税の拒否を主張し、ローマに対する反乱を企てているとして訴えることでしょう。
どちらの答えをしても問題となります。全知全能である主イエスは彼らの偽善を見抜いておられます。彼らは主イエスに対して14節b、cのように言っていながら、自分たちは、人の顔色を伺うことをし、真理に基づくのではなく、策略によって、人の言葉尻を捕らえて陥れようとする偽善者です。
主イエスは初めに、「なぜ、私を試そうとするのか」と問われます。「あなたがたの神、主を試してはならない」は申命記6:16の御言葉ですが、彼らは自分たちが聖書の御言葉に逆らっていることに気付きません。次に、「デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と言われます。
14節の「税金」(ギ/ケーンソス)という言葉は、人頭税を意味するもので、その金額が1デナリオン(1日の賃金)ですので、その銀貨を持って来て見せなさいと言われます。彼らは取り敢えず話を進めるためには、その位はしてやっても良いと思ったのでしょう。「ほらよ」という感じでデナリオン銀貨を持って来ました。
すると主イエスは、「これは、誰の肖像と銘か」と問われます。質問には答えないで、質問で返されます。これは前回の11:30の時と同じラビの手法です。この質問は事実についてですので、答えは誰の目にも明らかで、誰が答えても全く同じです。
そこでファリサイ派たちは答えても何も問題無いと思ったのでしょう。「皇帝のものです」と答えます。デナリオン銀貨の表面には、皇帝ティベリウスの肖像と、銘は「崇拝すべき神の崇拝すべき子、皇帝ティベリウス」とあり、裏面には、皇帝の生母リヴィアの肖像と、銘は「最高神官」とあります。
3、神のものは神に返す
すると主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われます。銀貨に皇帝の肖像と銘があるということは、その銀貨は皇帝によって作られて、皇帝によって管理されて、支配されている皇帝のものということです。
現在でも王国である英国は、紙幣も貨幣も表面には前のエリザベス女王の肖像が描かれています。昨年からは紙幣はチャールズ国王の肖像になったそうです。
また「返す」という言葉には、「(義務を)果たす」という意味もあります。ローマの統治によって、人々は一応、政治、経済、交通等の恩恵を受けています。それに対して税金というかたちでローマに返して、義務を果たすということです。ここまでは彼らの質問に対する答えです。
しかし主イエスはそこで終わられずに、「神のものは神に返しなさい」と言われます。「神のもの」とは何を意味するのでしょうか。これまでの流れからしますと三つのことが考えられ、第一に11:15の神殿です。すべての民の祈りの家と呼ばれる神殿が、金儲けの商売のための強盗の巣になっていました。
現代における神殿は教会です。教会は神のものであり、祈りの家であり、皆が御心に従うところです。御心に従わない自己中心的、自分勝手なことを主張したり、行ってはなりません。御心を行い神に返す必要があります。
また私たち一人一人も、「聖霊が宿ってくださる神殿」(Ⅰコリント6:19)です。皇帝のものとは、皇帝によって作られて、皇帝の肖像と銘のある銀貨です。同じように神のものとは、神によって造られて、神のかたちである私たち人間です。
私たちは神によって造られたものとして、自分を神に返し、義務を果たす必要があります。税金のように、私たち自身を神にお返しし、果たす義務があります。それは神が創造主であり、私たちは神に造られた被造物であるということを謙虚に認めることです。
私たちは神によって造られた銀貨のようなものです。銀貨のように神によって造られて神の御用のために用いられるものです。神のものである人間を神に返さないことは、皇帝に税金を納めるのを拒否するのと同じ反逆です。
神のものである第二は、11:27~33の権威です。権威は私たちを含めてすべてのものを造られた神にのみあります。私たち人間に権威がある場合には、神から委ねられた場合だけです。それで、私たちは権威を自分のものとして固執するのではなく、神にお返しする必要があります。
神のものである第三は、12:1~9のぶどう園の収穫です。私たちは自分たちの働きを通して何かの収穫が得られたら、それは主人である神のものです。自分の手柄として自分のものにするのではなく、神にお返しする必要があります。
神殿、権威、ぶどう園の収穫等はすべて神のものです。ユダヤ教の指導者たちは、その管理を委ねられただけですので、当然、神の御心に従って管理を行う必要があります。ところが、彼らはそれらすべて神のものを盗んで自分たちのものとしてしまいました。
そこに神の権威を委ねられた人が送られる場合には素直に認めて従う必要があります。従わない場合には、自分に委ねられた権威は取り去られることになります。
ファリサイ派たちは皇帝へ税金を納めることを否定する言葉を主イエスに言わせて、訴えようとしていました。しかし神のものを盗んで、神に対して税金を納めることを否定しているのは自分たちであると逆に訴えられてしまいました。彼らは、主イエスの答えに驚嘆しました。
今、私たちは主イエスのご降誕であるクリスマスを待ち望むアドベントの期間にいます。クリスマスは今や、キリスト教の国ではない日本を含めて中国等の多くの国でも祝われています。国によっては宗教間の平等のためにクリスマスの扱いを控えるようになったところもあるようです。
その意味では、クリスマスの本当の意味は知らなくても、取り敢えず、かたちだけでも祝われるのは良いのかとも思います。救い主のご降誕を記念して、皆で喜び、お祝いし、楽しむことは良いことです。ただクリスマスの本質は、神が人間の救いのために救い主をこの世に送ってくださった、神のものです。
教会に繋がる者として、クリスマスを楽しみつつ、その本当の意味を味わわせていただきましょう。本当の意味を見失ってしまいますとクリスマスは神のものではなくなって、人のものになってしまい、本当の喜びが失われてしまいます。
神は人間が手にして喜んでいるものを、ジャイアンのように、それは私のものと言って取り上げられるのではありません。すべてのものは元々、神のものですから、自分の手で握り締めてしまうのでなく神にお返ししなさい。そうすれば、神が幾倍にも祝福して、更に与えますという祝福の約束でもあります。
また神のものと言われるものは、権威や収穫等の人間にとって望ましいものだけではありません。悩みや重荷も神のものと言われます。「復讐は私のすること」(ローマ12:19)、「一切の思い煩いを神にお任せしなさい」(Ⅰペトロ5:7)と言います。
私たちは自分一人では負いきれない悩みや重荷を自分で負う必要はありませんので、神にお返しし委ねましょう。私たちは良い所取りをして、これは神に返すけれど、これは返さないということは出来ません。神のものはすべて、聖霊の導きに従って神にお返し、神に信頼し、祝福を期待して歩ませていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは、「神のものは神に返しなさい」、それが被造物である人間にとって相応しく、また最も祝福される生き方であると教えてくださいます。神のものであるクリスマスの栄光を神にお返しつつ、喜び、祝い、楽しむ時とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン
