「星の導き」
205年12月21日説教
マタイによる福音書 2章1~12節
メリークリスマス。
1、東方の博士たち
今日の箇所は主の顕現日と呼ばれる内容で、カトリック教会では今年度は来月の1月4日に読まれる箇所です。プロテスタント教会ではクリスマスの意味を聴くために相応しい箇所ですので、クリスマス礼拝でも開かれます。内容的には確かに主イエスがお生まれになられたクリスマスより後のことも含まれています。
主イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになられました。19節でヘロデ王が亡くなるのが紀元前4年ですので、今日の内容はその1年前位の紀元前5年位とも思われます。東方の博士たちがエルサレムにやって来て言いました。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 色々なことを考えさせられる文章です。ただ詳しいことは分かっておらず、それでも興味の引かれる箇所ですので色々な想像がなされて伝説が出来ています。
第一に、東方の博士たちは何者なのでしょうか。東方というのは恐らく天文学の発達していた東のバビロンの辺りの人だと思われます。第二に、東方の博士たちは異邦人と考えられていますが、ユダヤ人の王が生まれることをなぜ知っていたのでしょうか。これは旧約の時代に捕囚でバビロンに連れて行かれたユダヤ人から預言を聞いていたと考えられます。
第三に、東方の博士たちの人数はどの位でしょうか。良く3人のように言われますが、これは贈り物が黄金、乳香、没薬とユダヤ人の好きな数字の3なので、一人が一つの贈り物をしたとして作られた伝説です。実際には他に荷物を運ぶお供の人等が一緒にいたと思われます。
第四に、博士たちはなぜ、わざわざ拝みに来たのでしょうか。もし東方がバビロンだとしますと、エルサレムまでは1300km位はあります。時速5kmで1日8時間歩いて40kmとしますと33日は掛かりますので、少なくともそれ位の日数は経過していると思われます。
博士たちは学問的には成功を収めた人たちかも知れませんが、人生の闇を感じていたのではないでしょうか。そのような時に、ユダヤ人から聞いていた救い主の誕生を示す星を見ました。この星が示す救い主に会いたいという強い思いが与えられたのでしょう。
だからこそ千km以上の道のりを危険をも顧みずにやって来ました。「星を見たので、拝みに来たのです」という言葉に、星の導きを信じて従う強い思いが込められています。神は人を救いに導かれるために、あらゆるものを用いられます。この時は救い主を真剣に求める異邦人を導くために星を用いられました。
博士たちはエルサレムに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねています。これは、東方で一度その星を見て、その後は星は見えなくなりましたが、星の方角を頼りにエルサレムに来たようです。
これは、ユダヤ人の王ですから都のエルサレムで生まれたと思っているのかも知れません。若しくは、取り敢えず都のエルサレムに来れば、何らかの情報が得られると考えたのかも知れません。
2、ヘロデ王と祭司長たち
ヘロデ王はとても疑い深い人です。周りの人が自分の地位を狙って、脅かそうとしていると疑って、自分の奥さんや子ども、親族なども殺してしまった人です。神を信じていない人は、どんなに偉くなっても心に平安が無く、不安を抱いています。
ヘロデ王はこの時に70歳位で亡くなる少し前と考えられ、年老いて猜疑心も更に強くなっていたようです。ヘロデ王はユダヤ人の王が生まれたという話を聞いてまた不安を抱きました。エルサレムの人々も皆、また血の雨が降ることになると思って、自分たちも巻き添えになるのではないかと思って不安を抱きました。
ヘロデ王は早速に手を打って、祭司長たちや民の律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただしました。彼らはユダヤのベツレヘムと答えて、その理由としてミカ書5:1を引用します。
ベツレヘムは、パンの家という意味で、命のパンである主イエスのお生まれになるのに相応しい場所です。流石は祭司長たちや民の律法学者たちで聖書のことを良く知っています。
私たちの教会の礼拝では今、マルコによる福音書から御言葉を聴いています。祭司長たちは30歳の時から宣教を始められた主イエスをメシアとして受け入れません。しかし、それは突然に始まったことではなく、主イエスがお生まれになられた30年前のこの時から同じ態度です。
祭司長たちはメシアが生まれること、生まれる場所も知っています。しかし博士たちがメシアの星を見たと言っているのに全く無関心です。エルサレムからベツレヘムはたったの8kmで歩いても2時間位です。博士たちは千km以上離れた遠くから1か月以上も掛けてやって来ているのに、祭司長たちは8kmの距離を行こうともしません。本来なら真っ先に駆けつけるべき人たちです。
その後も30年間の時間があったのですから、博士たちが訪ねた幼子が本当にメシアであるかを検証をする時間は十分にあったはずです。何をしていたのでしょうか。ただ私は聖書を読む時には反面教師として、祭司長と律法学者等をクリスチャンと置き換えても読むようにしています。クリスチャンではない特に若い人は、クリスマスを誰と、どのように過ごすか等、クリスマスの本来の意味とは違いますがとても強く意識するようです。その時に、クリスマスのことを一番良く知っているはずのクリスチャンが、祭司長たちのように自分のことばかりに目を向けて、クリスマスの意味に関心を失っている部分はないかと考えさせられます。
ヘロデ王は博士たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめました。それは16節でその幼子を殺す計画のためです。ヘロデ王は博士たちから確かめた時期に基づいて二歳以下の男の子を殺しますので、余裕は見たとしても、やはり主イエスのお生まれからは時間が経っていると考えられます。
ヘロデ王は博士たちを送り出す時に、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから」と最もらしい言い訳をします。しかし自己勝手な罪を犯す者は行うことがとてもずさんです。第一に、本当にメシアの居所を知りたいのであれば、博士たちから教えて貰うのではなく、8km位の距離を横着しないで自分の部下を送れば済んだことです。
第二に、主イエスがお生まれになった本当の理由を調べれば誰も殺す必要はありません。主イエスはヘロデ王の地位を狙っていたのではありません。第三に、ヘロデ王は自分の評判の悪さに気付いていません。
賢い博士たちは、エルサレムの人々が不安を抱いているヘロデ王の悪い評判を聞いているはずです。ヘロデ王が言った、「見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから」という言葉は何か怪しいと感じていたと思われます。
3、星の導き
博士たちがヘロデ王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進みます。東方で見た星を追い求めた博士たちを再び星が導きます。「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7:7)です。この星は旧約聖書でエジプトを脱出したイスラエルを荒れ野で導いた昼間の雲、夜の火の柱のようです。
そして、星はついに幼子がいる場所の上に止まりました。博士たちはその星を見て喜びに溢れました。現代を生きる私たちにとって主イエスに導く星とは何でしょうか。主イエスに導くものということでは、神、聖霊、聖書等と考えられますが、全知全能の神はあらゆるものを用いられます。
博士たちにとっての星のように、救い主に導くものがあることが分かる人は、喜びに溢れます。そこには初めの人であるアダムとエバ以来、ずっと人間が求め続けて来た、救いがあるからです。博士たちは千km以上という距離も厭わずに喜びに溢れて星を求めました。
博士たちが星に示された家に入ってみると、幼子が母マリアと共におられます。ここでは、「家」と「幼子」という言葉が使われています。これは羊飼いが訪ねた、「産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」(ルカ2:12)とは場所も子どもの成長段階を表す言葉も違っていて、時間が経っているようです。
博士たちはひれ伏して幼子を拝み、礼拝しました。救い主との出会いの喜びに溢れると、救い主にひれ伏して拝み、礼拝したいという気持ちになります。神のかたちに創造された人は、神を礼拝することが自然なことです。博士たちは救い主を拝むことに続いて、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げます。
神を礼拝する者は、救いに対する感謝の応答として、神によって救われて神のものとされた自分自身を献げる献身をします。献げ物は自分自身の献身ですからそれに相応しい最高のものを献げます。黄金、乳香、没薬は博士たちが献げられる最高のものです。
黄金は王であることを表し、乳香は神に献げることを表し、没薬は死者に塗る物でありキリストの死を予兆すると言われます。クリスマスは単なるイベントではありません。救い主の誕生を心から喜び、拝み、自分自身を献げる時です。
星の導きを神の導きと信じて求めた異邦人と思われる博士たちは救い主に出会い、喜び、拝み、献げました。その一方で聖書を良く知っていて、宗教界の権威者であり、救いに近いと思われている祭司長たちは、救い主が自分たちの近くにいるにも関わらず、出会うことなく、本当の喜びを知らず、自分を献げることもしません。
救い主のことを全然知らないのであればいざ知らず、一番良く知っているはずの人たちが救いに与れないのは、とても残念なことです。反面教師として謙虚に受け止めたいと思います。
本当のクリスマスの礼拝を献げた博士たちに、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがありました。ヘロデ王の悪い評判を聞いていた博士たちは、やはりそうかと思ったことでしょう。別の道を通って自分の国へ帰って行きました。これは救い主を喜んで、礼拝して、献げる人は、礼拝の前とは変えられて、来た道とは違う、新しい別の道を歩む者とされることを表していると言えます。
皆さんは今日、教会に来た道と同じ道で帰られても良いと思います。ただ聖霊の導きに従って、救い主の誕生であるクリスマスを心から喜び、礼拝し、自分自身を献げ、新しい生き方をさせていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。博士たちは星の導きに従って、救い主に出会い、喜びに溢れ、主を礼拝し、最高の献げものをし、新しい道を歩む者となりました。私たちも聖霊の導きに従って、クリスマスにお生まれになった救い主を心から喜び、主を心から礼拝し、自分自身を献げ続ける中で、主に変えられ続け、新しい道を歩む者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。
