「生きている者の神」
2025年12月28日礼拝式
マルコによる福音書12章18~27節
主の御名を賛美します。今年最後の主日礼拝を皆さまと共に献げられることを感謝いたします。先週はクリスマスでしたが、聖書には処女降誕や今日の箇所の死人の復活など、普通の人には受け入れがたい奇跡の話が多くあります。時には躓きともなりかねないこれらの話にはどのような意味があるのでしょうか。御言葉を聴かせていただきましょう。
1、サドカイ派
今日の箇所は11:20から始まりました受難週の火曜日の出来事です。前の日の月曜日に11:15で宮清めをされた主イエスに対して、ユダヤ社会の権威者たちが復讐に燃えて、議論を持ち掛けます。
第一ラウンドは11:27から、祭司長、律法学者、長老たちが主イエスの権威について議論、第二ラウンドは12:13から、ファリサイ派とヘロデ党の人が皇帝への税金の議論でしたが、2回とも主イエスに返り討ちに合ってしまいました。
そこで第三ラウンドの三度目の正直はサドカイ派の人々です。サドカイ派については聖書の後ろの、「用語解説」の31頁を見ましょう。当時のユダヤの社会の階層は大まかに4つに分かれていました。一番上がサドカイ派、二番目がファリサイ派、三番目が地の民と呼ばれる民衆、一番下が罪人と呼ばれる取税人や遊女です。
サドカイ派は神殿の運営に関わる、支配階級の人たちで、二番目のファリサイ派は各地にある会堂の運営に関わっています。律法学者たちはファリサイ派です。サドカイ派とファリサイ派は同じユダヤ教ですが、信じていることは少し違います。
サドカイ派は旧約聖書の内、モーセ五書だけを正典としていて、モーセ五書以外の旧約聖書の内容を受け入れません。神殿を運営するにはモーセ五書の律法だけで良いからかもしれません。それでサドカイ派とファリサイ派は親しい訳ではありませんが、共通の敵である主イエスに対抗するために共闘しています。
サドカイ派はモーセ五書には復活は書かれていないと思っていますので、復活はないと言っています。主イエスは、これまでご自身の復活を三回預言されていますが(8:31、9:31、10:34)、サドカイ派はそのことを聞いていると思われます。
そこで、ここで復活のことで主イエスを言い負かすことが出来れば、復活を信じているファリサイ派も言い負かすことが出来ます。これは、一石二鳥だと考えたことでしょう。ここでは、「復活」の言葉が5回使われて強調されています。
2、サドカイ派の質問
そこでサドカイ派は、「先生、モーセは私たちのために書いています」と言って、自分たちの信じている申命記25:5、6を引用します。「ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄のために子をもうけねばならない。」
この律法はレビラト婚と呼ばれます。これはラテン語で夫の兄弟を意味する、レウィルという言葉から来ています。この結婚には目的が二つあります。一つは申命記25:6の、産まれる長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名を残すためです。
もう一つは夫を亡くした女性を守るためです。実際、創世記38:8で、ユダは長男のエルが死んだ時に次男のオナンに長男の妻タマルのところに入り兄弟の義務を果たすことを命じました。ルツ記4:10では、夫が亡くなったルツは近い親戚のボアズと結婚しました。
この当時にレビラト婚がどの程度実行されていたのかは良く分かりませんが律法です。日本でも第二次大戦後に戦争未亡人がレビラト婚をすることがあったそうで、日本では逆縁婚とか、もらい婚というそうですが、世界中で広く見られるそうです。
さて、七人の兄弟がいて、長男は妻を迎えましたが、子を残さないで死に、次に次男が彼女を妻にしましたが、子を残さないで死に、三男も同様で、七人とも子を残しませんでした。サドカイ派の質問では七人の兄弟が一人の女を妻にしましたが、これは問題を誇張するためであって、これは二人の兄弟であっても問題は同じです。
これは質問というよりも意訳するなら、「あなたが言うように復活とやらが本当にあるというのなら、彼女は一体、誰の妻になるというのだ」というようなニュアンスじでしょう。
3、聖書も神の力も知らない思い違い
主イエスは復活について三つのことをサドカイ派たちに語られます。第一に、「あなたがたは、思い違いをしているのではないか」と問われます。そして思い違いの理由を、「聖書も神の力も知らないから」と指摘されます。現代でも思い違いをしている人はいます。
思い違いをしている人の中には、聖書の内容を知っている人も知らない人もいます。しかしその根本的な理由は同じで、主イエスが指摘される通りに、「聖書も神の力も知らないから」です。しかし、神殿での礼拝や祭儀を司り、ユダヤ教の指導者層であるサドカイ派が、「聖書も神の力も知らない」とはどういうことでしょうか。
ヘブル語で「知る」ことは、文章などで読んで単なる知識として知ることではありません。人格的交わりや体験を通して知ることです。毎日の生活の中で、神の言葉である聖書と人格的に交わり、神の力を体験をしていれば思い違いをすることなく、信仰的に成長をして行きます。
しかし毎日の生活の中で、聖書と神の力を知ることがないと、それらが分からずに思い違いが出て来るようになってしまいます。その例がユダヤ教の一番上の階層にいる、このサドカイ派です。聖書と神の力を知ることがないと、この世的な人間の考えに支配されるようになって行きます。
サドカイ派の質問は、一見しますと、なるほどと考えさせられるものです。キリスト教界の中でも、かつては活躍をした有名な人が、自分の考えに凝り固まってしまい、聖書から外れて行って、思い違いをしているように思われる人もいます。極端な場合には異端になってしまいます。
しかし真理は人間の考えから来るものではありません。ローマ10:17は、「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです」と言います。まずは、聖書と神の力を知ることから始める必要があります。神は信じているけれど復活は良く分からないという方もおられるかも知れません。どうしたら良いのかというヒントがここにあります。それは聖書と神の力を人格的交わりと体験を通して知ることです。聖書に復活などの奇跡があるのは、人が謙って自分の考えを捨てて、神の力を知るための神の知恵のように思われます。
主イエスは復活についての第二として、具体的に説明をされて、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく」と言われます。これは復活の後には新たに、「めとることも嫁ぐこともな」いという意味だと思われます。
聖書は家族をとても大切にしますので、復活のときには、この世で家族であった者の家族関係が無くなるという意味ではないと思われます。しかしそのようなことを言いますと、サドカイ派が質問した、七人の兄弟と結婚をしたこの女は誰の妻になるのかということになります。
その答えが、「天の御使いのようになるのだ」です。それは、この世の家族の関係もありつつも、それを超えて皆が神の家族として生きることになります。また御使のようになるのであって、御使そのものになるのではないでしょう。
ところで、御使はモーセ五書にも何度も出て来ます(創世記19:1、15、28:12、32:2)。復活も御使も信じないサドカイ派に、主イエスは復活のときには御使のようになると、サドカイ派の考えが根本的に思い違いをしていると言われます。
4、生きている者の神
復活についての第三に、「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどのように言われたか、読んだことがないのか」と問われます。主イエスはサドカイ派が信じているモーセ五書の、しかもサドカイ派が19節で引用したモーセの言葉を読んだことがないのかと言われます。サドカイ派は勿論、読んだことはありますが、正しく知っていません。
出エジプト記3:6を引用されます。モーセが神の山ホレブに来たときに燃える柴の所で召命を受けた場面です。そこで神はご自身を、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。そして主イエスは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われます。
一見しますと、何か今一つ意味を掴み辛いような感じのする文章ですがどのような意味なのでしょうか。モーセの時代には、アブラハム、イサク、ヤコブはこの世での人生は既に終えて亡くなっていました。
もしも、アブラハム、イサク、ヤコブがこの世での人生を終えて、サドカイ派が考えているように、それで全てが終りで復活が無いとしたら神は何と言われていたでしょうか。日本語では、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」と過去形で言われたはずです。
モーセの時代にも神は3人の族長の神であるということは、3人の族長はこの世では亡くなりましたが、神の前には生きているということです。因みのこの3人は有名人ですが、かなり無茶苦茶なことをして来た人たちです。
アブラハムは自分の命を守るために妻のサラを何度も妹と言ってきました。イサクは子どもを依怙贔屓して兄のエサウを可愛がり、家族関係が悪くなりました。ヤコブはお父さんのイサクやお兄さんのエサウを騙しました。しかしなぜ彼らは永遠の命を与えられたのでしょうか。神を信じて神に信頼していたからです。
神を信じる信仰によって義とされる信仰義認は旧約聖書から変わらない聖書の原則です。彼らが犯した罪はなぜ赦されるのでしょうか。それは約二千年後の主イエスの十字架によって赦されることになります。主イエスの十字架の罪の赦しは過去にも遡って、神を信じる者には有効です。
族長たちが生きているということは永遠の命が与えられていて復活に与るということです。主イエスはそのことを、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われます。この御言葉は、神は私たちが生きている間だけの神であって、私たちがこの世で死んだら、私たちの神ではなくなるという意味ではありません。
逆で私たちはこの世では死んでも、神の前では生きている者であり、神はいつまでも私たちの神であるという意味です。私たちはこの世では例え死んでも、生きている者であり、神はいつでも私たちの神であると言ってくださることは有り難いことです。本当に聖書を正しく知るなら、復活はモーセ五書にも書かれています。
また神の力を正しく知ることも大切なことです。モーセ五書の申命記32:39には、「私は殺し、また生かす」とあります。また私たちは神が主イエスを復活させられる力を正しく知る必要があります。そのことを証しするために、主イエスはこの三日後に十字架に付かれて、その三日目に復活されます。
聖書には主イエスが復活されたことが沢山書かれています。その力を正しく知りましょう。そして知ったらそこで終わりではありません。その力は主イエスを信じて、聖霊の宿る人に及びます。神の力は聖霊が宿る神と生きた関係のある人に及びます。
聖霊の宿る人は例え肉体は死んでも生きている者です。そしてその力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。「生きている者の神」を私たち自身の神とさせていただきましょう。これは他の人のための物語ではありません。私たち一人一人に関わることです。
主イエスは最後にもう一度、「あなたがたは大変な思い違いをしている」と言われます。この話は、次の12:28でファリサイ派の律法学者が聞いています。ファリサイ派たちは、復活が確かなことであって、御使も存在すると言われる主イエスに、「いいぞ、いいぞ」と心の中で思っていたことでしょう。
復活は少し不思議に感じる部分もあるかも知れませんが、主イエス・キリストが復活の証拠です。生きている者の神と生きた関係を持つ者にとっては自然な出来事です。聖霊によって復活の希望の確信を持って歩ませていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。サドカイ派の人々はユダヤ教の指導者層であるにも関わらず、神との交わりを失うと聖書も神の力も分からなくなってしまいました。生きている者の神と毎日、交わることによって御心を知り、力をいただいて生きる者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン
