「隅の親石」

2025年12月7日礼拝式説教  
マルコによる福音書12章1~12節
     
主の御名を賛美します。

1、ぶどう園
主イエスは、たとえで彼らに話し始められました。主イエスの話し相手の彼らは、11:27の祭司長、律法学者、長老たちです。主イエスは11:28の、「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」という彼らの問いに対して、11:33で、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」と言って答えられませんでした。

しかしこのたとえによってその問いに対して答えられます。たとえの内容はイスラエルの日常の風景です。ある人がぶどう園を造り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建て、これを農夫たちに貸して旅に出ました。

たとえは色々な種類があり、その種類によって読み方は異なります。このたとえは寓話的に一つ一つの言葉に意味があるものです。このたとえの背景であるイザヤ5:1~7aを読みましょう。「ぶどう園」とは「イスラエルの家」のこととイザヤ5:7aにあります。

ぶどう園を造った主人は神です。垣はこの辺りにも生垣がありますが、土地の境界を示し、ぶどう園を荒らす野獣や泥棒等を防ぐためのものです。宗教的にはイスラエルへの罪の侵入を防ぐ律法と言えるでしょうか。搾り場は、岩を掘って、ぶどうの果汁を搾って貯える所です。

やぐらは泥棒や火事を見張ったり、ぶどう園で働く農夫たちの避難小屋のようです。農夫たちはぶどう園を管理する祭司長たちです。この当時、ユダヤはローマに支配されていましたので、外国人が広い土地を持っていて、ユダヤ人の農夫にそれを貸していたようです。

ぶどう園の主人である神は、農夫である祭司長たちにぶどう園の管理を委ねました。農夫はぶどう園の管理を委ねられただけですので、ぶどう園を支配して、その収穫物の実を独占する権威、権限はありません。ぶどう園を支配する権威はぶどう園を造られて、ぶどう園の持ち主である神にあります。

これはぶどう園の農夫である祭司長たちだけの話ではありません。私たちも自分のものと思っているすべてのものは、自分の所有物ではありません。管理を委ねられているだけです。土地や建物を自分でお金を出して買って自分の物だからと言っても、自分の好き勝手にして良いという訳ではありません。神から管理を委ねられているだけです。

教会の土地や建物も同じです。土地や会堂は茂原キリスト教会の名義のものだからといって、茂原キリスト教会だけが好き勝手に使って良いのではありません。土地と会堂は神から管理を委ねられているだけです。神の御心を聞く必要があります。

それは家族にしても同じです。結婚相手や子どもも神から授けられたのではありません。神から預けられて、委ねられているだけです。神の御心に従って対応する必要があります。

これは自分自身についても同じです。自分自身も自分の好き勝手にして良いのではありません。私たち一人一人は神によって造られました。私たち一人一人は、神の目に貴く、重んじられる存在です。自分自身のことでさえ神の御心を聞いて行うものです。

2、収穫の時
収穫の時になったので、主人はその当然の権利として、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送りました。ところが、農夫たちは初めの僕を捕まえて袋叩きにし、何も持たせないで帰し、次の他の僕の頭を殴り、侮辱し、三番目のもう一人の僕を今度は殺し、そのほかの多くの僕を殴り殺しました。

なぜこのようなことをするのでしょうか。現代でも自分は管理を委ねられているだけにも関わらずに、丸で自分の物のように使ってしまう人がいます。銀行等に勤めている人はお金等を管理するのが仕事ですが、銀行のお金を自分のために使うことは許されません。

しかし他人のものを勝手に自分のために使ってしまう横領事件が時々起こります。そのようなことをすればいつかは判明して、裁きを受けることは確実です。しかしそのような事件はなくなることなく続きます。

主人から送られる僕は神から送られる預言者です。預言者の受難は旧約聖書に多く書かれていますが、直近の預言者である洗礼者ヨハネも6:27で殺されました。主人は愛する一人息子を、「私の息子なら敬ってくれるだろう」と言って、最後に息子を送りました。

しかし、農夫たちはぶどう園の主人が亡くなって息子が来たと思ったのか、「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ」と言って、その息子を殺しました。主イエスがこのたとえを話されたということは、このようなことが実際にあったようです。

所有者のいなくなった土地等は、法律的にもその土地を使用していて申請した人のものになったようです。このたとえはこの時の状況に似ているということで話をされています。たとえのように、主人である神はご自身のお独り子である主イエスを送られました。しかし農夫である祭司長たちは主イエスを殺すことになります。これは第4回目の受難の預言です。

たとえは共通点を強調するものであって、たとえのすべてが話す内容と同じであるとは限りません。全知全能の神は、すべてをご存じですので、「私の息子なら敬ってくれる」ことにはならないことをご存知です。また祭司長たちは主イエスをたとえの中の主人の子である神の子とも思っていません。しかし、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出そうとしていることは同じです。

3、隅の親石
主イエスは、「さて、ぶどう園の主人はどうするだろうか」と問われます。これは、子どもでも分かるようなことです。戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いありません。これは誰が考えてもそのようになることでしょう。

この預言は外面的には、紀元70年にローマがユダヤを滅ぼすことによって成就することのように思えます。しかし9節の農夫たちを「殺す」という言葉は、5~8節の、この世の命を「殺す」とは違う言葉で、裁きによる滅びを意味するものです。

主イエスは、当時、聖書についての最高権威者と自他共に認める祭司長たちに、聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのかと言われます。強烈な皮肉です。そして10、11節で、詩編118篇22、23節の預言を引用されます。

家を建てる者である祭司長たちが捨てた石である主イエスが、家を建てるために最も大切な土台となる隅の親石になります。主イエスが隅の親石となる家は、祭司長たちが建てる祭司長たちの権威に基づく家とはまったく異なる新しい家です。

祭司長たちは、主イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと流石に気付きました。そこで主イエスを捕らえようとしましたが、群衆を恐れました。この時は受難週の火曜日で、群衆は二日前の日曜日に11:9、10で、「ホサナ」と叫んでいたばかりですので、まだ主イエスを支持しています。それで、主イエスをその場に残して立ち去りました。

神は神の民としてユダヤ人を選ばれ、神はその権威をご自身が立てられた祭司長たちに委ねられていました。祭司長たちがその権威に相応しく忠実な働きをし、良い実を結び続けるなら、神に祝福され続けたことでしょう。

しかしその実態は、11:13のいちじくの木のように、葉は茂っていて見た目は立派ですが、実のならない空しいものです。それどころか逆に、すべての民の祈りの家と呼ばれる神殿で、11:15のような悪徳な商売を行って強盗の巣にしてしまいました。神は忍耐強く何人も預言者を送られ続けましたが、祭司長たちは聞きません。

御心に従うなら神が祭司長たちの権威や立場を守り続けてくださいます。しかし御心に従わない者に神の御守りはありません。すべての権威は神にのみあり、人間の権威はすべて神から委ねられるものです。人間が自分の力で権威を得ようとすることはすべて自分の欲望です。

そしてヤコブ1:15は、「欲望がはらんで罪を産む」と言います。罪を産む原因は欲望です。そして、「罪が熟して死を生みます。」 祭司長たちは、どうして主イエスを受け入れられないのでしょうか。祭司長たちは11:28で権威に拘っていました。自分たちの権威を失いたくないという欲望が神の子を受け入れないという罪を産みます。

主イエスはメシヤのしるしである癒し等を行っておられます。本当なら旧約聖書を良く知っている祭司長たちが主イエスを一番に信じて良いはずです。しかし罪を犯している人は、客観的に見ることができなくなり、当然、悪いと思われることを気にせずに行ってしまいます。

他人のことは客観的に見れるのですが、自分の行っていることは分かりづらいものです。また自分が悪いことをしている場合には、例え悪いことをしてそうだと思っても認めたくないものです。しかし罪が熟すと死を生みます。この場合には、主イエスを十字架に付けることになります。そして必ず自分自身に死の裁きを招くことになります。

欲望がはらんでいると目先のことに目がくらんで冷静な判断が出来なくなってしまいます。現代の他人のお金を自分のために使ってしまう人と同じことです。当時の祭司長たちは宗教界の権威者と考えますと、それは現代のクリスチャンと言えます。反面教師として見る必要があります。

しかし自分の力で御心に従って歩み、良い実を結ぶことは不可能です。しかし私たちには主イエスを信じることによって、隅の親石とする新しい家の一人として、主イエスと共に歩ませていただけます。そのことをエフェソ2:20~22が語ります。今年度の御言葉も同じ意味です。

神は新しい家の隅の親石として主イエスをクリスマスにこの世に送られました。隅の親石である主イエスを信じるだけで主の聖なる神殿を構成する一人とされます。主の聖なる神殿として良い実を結び、主の栄光を現す者とさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。祭司長たちは神から委ねられた権威に溺れて、間違った方向に進んでしまいました。このようなことは誰にでも起こりえることです。私たちは隅の親石である主イエスをいつも覚え、聖霊の導きに従って歩み、良い実を結ぶ者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン