「良い土地に蒔かれたもの」

2025年2月16日礼拝式説教  
マルコによる福音書4章1~9、13~20節
   
主の御名を賛美します。

1、よく聞きなさい
主イエスは再びガリラヤ湖のほとりで教え始められました。すると、おびただしい群衆が御もとに集まって来ました。そこで3:9でもありましたように、群衆に押し潰されないように、主イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられます。群衆は皆岸辺から主イエスの話を聞きます。

主イエスはたとえを用いて多くのことを教えられます。マルコによる福音書では3:23で初めのたとえを語られ、この4章には5つのたとえが集中しています。たとえに先立って、まず「よく聞きなさい」と言われます。

私たちは何かのテーマを出されますと、それに対する自分の考えや価値観がまず出て来易いものです。それらがフィルターや色眼鏡になって、恐らくこのようなものだろうという先入観に陥ってしまい易く、正しく聞くことが出来なくなるときがあります。その結果、聞き間違いをしたり、自分の思い込み等で不必要な遠回りをしてしまうことがあります。

遠回りで済めばまだましな方で、深刻なトラブルに陥ることもありますので、まずよく聞くことが大切です。ローマ10:17は、「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。」と言います。キリストの言葉を真摯に聞くことに集中したいものです。

2、「種を蒔く人」のたとえ
主イエスは3節から、「種を蒔く人」のたとえを語られます。このたとえは教会学校等でも語られて、子どもでも分かり易い内容です。6章の5千人の給食でもパンと魚が出て来ますが、ガリラヤ湖の近くでも魚を取る漁と、パンの原料等を作る農業も盛んだったようです。

パレスチナでは、冬が雨期で、夏が乾期で、種蒔きは雨期の前に蒔く冬蒔きと、乾期の前に蒔く夏蒔きがあります。冬蒔きは11月から12月に種を蒔くもので、小麦、大麦、粟、レンズ豆等で、夏蒔きは、ひよこ豆、米、瓜等です。パレスチナでは、土を耕す前に種を蒔くのが普通で、種を蒔いてから土を耕して種を土に中に入れるそうです。

種を蒔く人が種蒔きに出て行きました。種を蒔く人は出来るだけ種が豊かに成長をして実を結ぶことを願うものです。そのために一か所に種が固まらないで広がるように、腕を広げて蒔くそうです。そうしますと種は風によっても飛ばされますので色々な場所に落ちることになります。

代表的な場所の例として4か所が挙げられます。一つ目の種は道端に落ちました。道端は人が歩く等して踏み固められていますし、後で耕すこともしませんので、種は道端の表に出たままです。それで、鳥が来て食べてしまいました。

二つ目の種は石だらけで土の少ない所に落ちました。そこは土が浅いので、石は土よりも温まり易いので、すぐに芽を出しました。二つ目の種は、一つ目の種が出来なかった芽を出すことはしました。しかし、石のために根をはることが出来ません。そして日が昇ると逆に石が熱くなりすぎて、焼けて根がないために枯れてしまいました。

三つ目の種は、茨の中に落ちました。茨はとげのある雑草で、発育が早いので種から育った作物を塞いでしまいました。三つ目の種は、二つ目の種の出来なかった育つことは出来ましたが、塞がれて日光が当たらなくなってしまい実を結びませんでした。

四つ目の種は、良い土地に落ちて、芽生え、育って実を結びました。四つ目の種は、前の3つの種がそれぞれ出来なかった、芽生え、育つ、実を結ぶ、三つのことが出来ました。あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になりました。また、「実を結ぶ」と「~倍になった」は未完了形で書かれていますので、それは実を結び続けるということです。

この話を聞いていて農作物を実際に作っている群衆にはよく分かる話でしょう。しかし主イエスは3節に続いてもう一度、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。先週の3:32にもありましたように、神の御心を行うとは、まず主イエスの周りに座って御言葉を聴くことです。

主イエスはここで農作物だけの話をしているのではありません。これはたとえであると2節にあります。これは何のたとえなのでしょうか。このたとえについて尋ねられた主イエスは、神の国の秘義(11節)であると答えられます。

主イエスは神の福音を宣べ伝えられて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」(1:15)と人々を神の国に招いておられます。主イエスの招かれる神の国がどのようなものであるのかを4章の5つのたとえで語られます。

3、たとえの説明
主イエスはこのたとえについて尋ねた12使徒を含む人たちに、「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」と問われます。そして「種を蒔く人」のたとえの説明をされます。これは数学等の教科書等で、単元毎に初めに例題がありまして、例題だけはその問題の解き方の説明があります。

その後に問題がありまして、問題は例題に倣って自分で解くようになっています。「種を蒔く人」のたとえは4章の神の国のたとえ全体の例題と言えます。初めに、「種を蒔く人」は、神の言葉を蒔くと言われます。このことから蒔かれる種は神の言葉です。

そして種を蒔く人は、神の言葉を蒔いて語る人ですから、直接的には主イエスです。主イエスは先程、おびただしい群衆に対して教えられましたが、群衆は大きくたとえの中の4つの状態に分けられます。そしてこれは主イエスが教えられるときだけではなく、6:7で12使徒を派遣しますが同じことが起こります。

それは現代においても、牧師が神の言葉を語るときに、また信徒が伝道のために神の言葉を語るときにも同じことが起きます。私たちは同じ神の言葉を語るときに、どうしてここまで人によって受け止め方が違うのだろうと考えさせられるときがあります。

しかしそれは神である主イエスが語られても同じことが起こります。また同じ人が同じ神の言葉を聞いても、その人の霊的な状態が違う場合には異なる受け止め方になることもあります。まず一つ目の道端のものとは、こういう人たちであると言われます。種は神の言葉ですからどこに落ちても同じです。

落ちる場所はその人の霊的な状態と言えます。道端のように人に踏み固められた霊的に頑なな状態のところに御言葉が蒔かれると、それを聞いても、種である御言葉はその人の中に入りません。例として主イエスに出会う前のパウロはこのような状態だったでしょうか。

また今はクリスチャンになっている人も、初めはこのような状態であった人もいると思います。聖書を手にしたけれど、新約聖書の初めのマタイによる福音書の初めの方だけを見て、読むのを止めてしまいます。すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去ります。この状態の人たちは信仰には至りません。種を食べてしまった鳥はサタンの象徴です。

二つ目の石だらけの所に蒔かれるものは、御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れます。それ自体は良いことです。しかし根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

二つ目のものは、御言葉はその人に入りますが、苦難や迫害といった外側の原因でつまずいてしまいます。この人たちは信仰を持つかも知れませんが、つまずいて信仰を失ってしまいます。12使徒を中心とする弟子たちも、主イエスが十字架の死から復活される前はこのような状態であったでしょうか。

主イエスが十字架に付けられることになると、自分の命欲しさにつまずいてしまいます。石という言葉は岩と同じで、原語ではペトロと書かれています。これはペトロのつまずきを暗示しているのかも知れません。

三つ目の茨の中に蒔かれるものは、御言葉を聞きますが、世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が入って来て、御言葉を塞いで実を結びません。聖書では金持ちの男が10:17に出て来ます。少年の頃から律法を守って来ましたが、主イエスから、「持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい」と言われると、顔を曇らせ、悩みつつ立ち去りました。

律法学者を含むファリサイ派の人たちは、旧約聖書の御言葉を一応は聞いていますが、御心よりも自分たちの考えや伝統を優先したいという欲望が入って来ます。三つ目のものは、御言葉を聞きますが、人の心の中に入って来る思い煩いや富の誘惑、欲望によって実を結びません。

せっかく、御言葉を聞いたのに実を結ばないのはとても残念なことです。しかし見方によっては、実を結ばないだけであればまだましなのかも知れません。ファリサイ派の人たちのように、自分たちの欲望を満たすために邪魔な主イエスを殺す悪を行なってしまう位なら、むしろ初めから御言葉を聞かなかった方が良かったのではないかとまで思われます。

四つ目の良い土地に蒔かれるものは、御言葉を聞いて受け入れる人たちです。ヨハネ1:1は、「言は神であった」と言いますので、御言葉を受け入れる人は神を受け入れる人です。その人は良い畑に蒔かれた種のように、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結びます。種である神の言葉は力強い命を持っていますので、何も障害物が無ければ自然に、芽生え、育って、実を結びます。

4、神の国の秘義
このたとえには、どのような神の国の秘義が隠されているのでしょうか。それは、たとえの中の3つの人たちは、種である神の国が実を結ぶことを妨げたように、神の国は人が受け入れることも拒否することも出来るということです。

神の国はたとえの中で、一つの種だけが豊かに実を結び、他の種は実を結ばなかったように、全ての人が受け入れるのではありません。これはユダヤ人が求めて、期待していた神の国とは全く異なるものです。

ユダヤ人が期待している神の国は、ダニエル2:44です。圧倒的な強さを持って、他の国々を打ち砕き、政治的、軍事的にも完全に支配を行う強い国です。ダビデ王が支配したような国です。神の国は今や主イエスによってこの世にもたらされました。しかしそれは人が受け入れることも、受け入れないことも可能なものです。

これはユダヤ人の常識を覆す神の国の姿です。主イエスが再びこの世に来られるときには、御言葉を奪い去るサタン、石だらけの所にある御言葉のための苦難や迫害、茨である世の思い煩いや富の誘惑、その他の欲望等は全て無くなります。しかし今はまだその段階ではありません。神の国は既にこの世に来ましたが、まだ苦難や誘惑は存在し続けます。

4つの種の中で1つの種だけが実を結んで、3つの種は実を結びませんでした。神の国は既にこの世に来ましたが、いろいろな妨げがあって、実を結ぶ種よりも、結ばない種の方が多い状態です。しかし4つの種で、たとえ3つの種が実を結ばなくても、1つの種は豊かに実を結びます。

少なくとも30倍にはなるので、神の国は前進して収穫は確実に増えて豊かになって行きます。このたとえのように、伝道は全てが実を結ぶ訳ではありません。しかしあらゆる妨げにも関わらず、神の国は期待を超える収穫によって前進して行きます。私たちが見るべきものは実を結ぶ収穫であって、実を結ばない不作ではありません。

実を結ばなかった3つの種にしても、それは一時的な状態であって、最終の確定の状態ではないかも知れません。パウロは初めはクリスチャンの迫害をして、道端のもののような人でした。しかしダマスコに向かう途中で主イエスに出会い、百倍の実を結ぶ良い土地のものに変えられました。道端だったパウロは主イエスによって耕されて良い土地に変えられました。

ペトロは名前の通りに石だらけの所でした。しかし復活された主イエスから、「私の羊を飼いなさい」と命じられて、百倍の実を結ぶ者に変えられました。石だらけの所だったペトロは主イエスによって石を取り除けられて良い土地へと変えられました。

私たちは人間は土地ですから、自分の力で土地である自分を耕したり、石や茨を取り除くことは出来ません。しかし主イエスに出会い受け入れる者は、たとえ失敗を犯したとしても、聖霊によって主イエスの周りに座って、御声を聴き従うように導かれます。

そして、主イエスによって耕され、障害物を取り除かれて、良い土地へと変えられて、豊かな実を結ぶ者とされて行きます。私たちを贖うために主イエスは十字架に付かれました。良い土地に蒔かれたものとは、主イエスを受け入れる人たちです。良い土地となって豊かな実を結ばせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たち全ての人たちが良い土地となって、御言葉の種を受け入れ、豊かな実を結ぶために主イエスをこの世に遣わしてくださいました。聖霊の導きの中で、私たちが自分たちの思い込みや欲望にとらわれることなく、主イエスを受け入れ、その御言葉をよく聞き、従えますようお守りください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。