「灯と秤」
2025年3月2日礼拝式説教
マルコによる福音書4章21~25節
主の御名を賛美します。
1、灯
主イエは「種を蒔く人」のたとえに続いて、「灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。」と言われました。言われていることは何となく分かるような、少し良く分からないような気もします。原語のギリシャ語では、「灯」が主語で、「来る」は自動詞で、直訳しますと、「灯が来るのは」となります。
「灯が来る」とはどういう意味でしょうか。二つのことが考えられます。一つ目として、「灯が来る」と似た文章があります。それはクリスマスのときに良く使われる御言葉で、ヨハネ1:9の、「まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。」です。
まことの光は救い主イエス・キリストですから、灯は主イエス・キリストであると言えます。しかし、救い主イエスである灯が来られるのは、升の下や寝台の下に置くためだろうかというのは、どのような意味でしょうか。
この当時の灯は写真のような容器に油を入れて燈心に火を付けていました。そして静かに灯を消すためには、升のようなものを上から被せます。現代でも蝋燭を消すために被せる蓋のような道具があります。灯を升の下に置くとは、灯である、すべての人を照らす主イエスの光を消してしまうことです。
それはすべての人の罪を赦し、救うために来られた主イエスを知っていながら、何となく自分の都合に合わないからといって隠して、消していることはないでしょうかという問いと考えられます。すべての人を照らすためにこの世に来られたのですから、それは、「燭台の上に置くためではないか。」と問われます。
「灯が来る」ことの二つ目は、ここで主イエスは神の国の秘義について、たとえで語っておられるところです(11節)。そのことから、灯は主イエスが語られる神の国の秘義と考えられます。こちらの考えの方が有力のようです。
今は神の国の秘義は主イエスの弟子たちだけに授けられています。しかし主イエスが十字架の死から復活されて昇天された後に、弟子たちは宣教に遣わされます。そのときには、燭台の上に置いて、すべての人に神の国の秘義を宣べ伝えるのだという意味のようです。
「寝台の下に置く」ことは「升の下に置く」ことに比べて意味が良く分かっていません。一つの説として、この当時のユダヤ人は食事の時に、テーブルのまわりに左の脇腹を下にして横たわって、左のひじを立てて食事をします。
ある本では、寝台は夜に寝るための物ではなく、食事用の長椅子で、その長椅子の下に灯を置いてしまったら暗くなってしまい不便なので、燭台の上に置くという意味であると言います。またある註解書では、「寝台の下に置く」とは、神の国の秘義を文字通りに寝台の下に置いて、寝て怠惰に過ごしてはならないという意味であると言います。
18、19節で、茨の中に蒔かれるものが、世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が入って来て、御言葉を塞ぐことは、文字通りに寝台の下に置いて自堕落にしている意味のように思われます。そのようにするのではなく、神の国の秘義を宣べ伝えます。
2、すべては明るみに
次に「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、明るみに出ないものはない。」と言われます。何かドキッとするような言葉です。誰でも多かれ少なかれ、余り人に知られたくない、隠れた秘め事のようなことはあるものかも知れません。
兵庫県の百条委員会でも次から次へと色々なことが明るみに出て来ます。時間は掛かったとしても、いずれはどんなことも明るみに出てくるのでしょう。正義を待ち望む人にとっては、すべてが明るみに出ることは望ましいことです。しかしここではそのような一般的なことを言っているのではなく、21節との繋がりで言われています。
主イエスがどのようなお方であるのか、また主イエスがもたらされた神の国はどのようなものであるのか、語られた神の国の秘義は何か、すべては明るみに出るときが来ます。そのときには先に知らされた者が、自分に与えられた役割として他の人に伝えて行き、明るみに出す必要があります。
3、聞く
そして9節に続いてもう一度、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われます。面白い表現であると思います。耳は聞くために神が造られたものです。聞かない耳というのがあるのか分かりませんが、聞かないのであれば耳のある意味がありません。また例え聞くにしても、「何を聞いているかに注意しなさい。」と言われます。
「種を蒔く人」のたとえでも、3~8節の話を聞いて、それだけで終わってしまったら、ただの種蒔きの話であって、「種を蒔く人」のたとえではありません。3~8節の話を聞いたら、たとえの説明である14~20節の内容を霊的に聞いて悟る必要があります。
今日の聖書箇所や、またこの後の、「成長する種」と「からし種」のたとえでも、同じようにその霊的な意味を悟る必要があります。そうでなければ、12節にありましたように、「聞くには聞くが、悟らず」で、何を聞いているのかということになります。
そのようにならないためには、いつも謙って悔い改め、肉体の耳で聞くと共に、霊の耳で聞く必要があります。聞くことが、今日の個所の真ん中に2度書かれていることは、聞くことが本当に大切なことであることを強調しています。
4、自分の量る秤で量られる
「あなたがたは、自分の量る秤で量られ、さらに加えて与えられる。」と言われます。秤の原語には升の意味もあります。この文章は二つのことが考えられます。まず同じ内容が、ルカ6:38、マタイ7:2にあります。マタイ7:2では、「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。」とありますので、この御言葉が人を裁くことの意味で使われています。
一つ目は、自分が他の人に対して使う秤、尺度が自分にも使われ、逆に自分に対して使う尺度を他の人にも用いるということです。自分が他人に対して使う尺度を自分にも使われることの例は、主の祈りの、「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ」です。
逆に自分に対して使う尺度を他人に用いることの例は、「隣人を自分のように愛しなさい」(12:31)です。自然な状態の人は、他人に厳しく、自分に甘くなってしまいがちです。また主イエスは、「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」(マタイ25:40)と言われました。
御言葉のとおりにすべての人は神のかたちに造られた者であることを認める必要があります。いずれの場合でも御言葉を霊の耳で良く聞き、従う必要があります。
二つ目は、その人の秤の大きさで、神から与えられる恵みの大きさも量り与えられます。同じ恵みを神から与えられても、その人の秤の大きさによって受け取り方は異なります。秤が升であって、小さな升ですと直ぐに一杯になってしまい、すべての恵みを恵みとして受け止め切れません。
神が太陽の光を与え、水を与え、食物を与え、生きるために多くのものを与えてくださっている等、恵みを数えると、限りがないかも知れません。しかし、ある人は大きな秤で神の恵みのすべてを一つ一つ数えて、深く受け止めて感謝をするかも知れません。
ある人はそのような恵みは自然にあるもので、特に恵みとして考えないかも知れません。恵みを恵みとして正しく受け止めることがないと感謝をすることが生まれて来ません。多くの恵みを知るところには多くの感謝が生まれて来ます。
同じように、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)と言われます。これは赦される罪が多い、少ないというよりも、罪を赦されたことを自分の秤で大きなことと受け止めるか、小さいことと受け止めるかということです。
罪を赦すために主イエスが十字架に付かれたことを自分の秤で大きなことと受け止めるところに、大きな愛が生まれます。いずれにしましても人間は神の恵みの全てを知ることは出来ませんので、どのような人にでも、神がさらに加えて与えられます。
5、自分の量る秤で量られる
「持っている人はさらに与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」は有名な御言葉です。ただここの個所よりも、「タラントン」のたとえ(マタイ25:14~30、ルカ19:11~27)の終わりに書かれている方が有名かも知れません。
「持っている人」という表現は最近は日常生活でも使われます。テレビで「持っている人」というのは、何かの撮影のロケ等に行くときに、例えば天気に恵まれてオーロラ等の自然現象の撮影が出来たり、スポーツ選手がここぞというときに、良いパフォーマンスが出来たりする場合に言われます。それは、「運」のようなものを持っている人という意味で使われます。
しかしここの個所では明らかに24節で、聞き方によって、自分の量る秤によって与えられることによって持っている人のことです。「種を蒔く人」のたとえで言いますと、良い土地に蒔かれたものです。良い土地という言葉から私たちが想像するのは、石や茨が無く、栄養が豊富で、水分は豊富であると同時に水捌けも良く、日当たりの良い土地です。
しかし20節にはそのような良い畑のようなことは一言も書かれていません。良い土地に蒔かれたものとは、ただ御言葉を聞いて受け入れる人たちです。この人たちは、30倍、60倍、百倍の実を結びます。百倍の実を結ぶ人が次のシーズンも百倍の実を結びますと百掛ける百で一万倍になります。
しかし、道端、石だらけの所、茨の中に蒔かれたものは、蒔かれた種や、種から出た芽、芽が育った茎等がありましたが、全て失われてしまいます。実を結ぶ者と結ばない者の差は拡大し続けて、二極化して行くことになります。しかし道端、石だらけの所等はどこかの時点で固定してしまうのではありません。
主イエスは全ての人が良い土地に蒔かれたものとなるため、全ての人の罪の赦しのために十字架に付かれました。私たちはいつでも良い土地に蒔かれたものとなることが出来ます。遅すぎるということはありません。また自分で石や茨を取り除く必要もありません。
私たちが行うのは、聖霊の導きに従って、ただ御言葉を聞いて受け入れるだけです。その後は灯である主イエスが私たちの進む道を導いてくださいます。主イエスの救いを感謝し、受け入れて従い、私たち自身も主イエスの灯を灯す世の光とさせていただきましょう。
6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは灯と秤のたとえをとおして、霊的に聞くことの大切さを語られます。しかし私たち人間は、聞くに遅く、悟るに鈍い者です。しかしそのような私たちの罪のために御子主イエスを十字架に付け、救いへと導いてくださいますから有難うございます。どうぞ私たちを聖霊で満たし、霊の耳によって聞き従う者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。