「神の子である証し」

2025年3月23日礼拝式説教
ヨハネによる福音書5章31~40節                                           野田栄美

① 問い
前回のメッセージは、天使がマリアに子どもを授かることを告げた「受胎告知」の場面からお話しました。そこには「神にできないことは何一つない。」(ルカ1:37)という言葉がありました。その後、この言葉が心に引っかかっていました。私たちの周りでは、嬉しいことばかりが起こるのではありません。なぜこんなことがと思うような、痛ましいできごとや、悲しいできごとが起きます。そのようなことを思うときに、このみ言葉は躓きにもなるのではないかと思いました。「神が何でもおできになるのなら、なぜ助けてくださらないのか」という疑問です。その答えは一人一人が見つけていくものだと思いますが、今日の聖書箇所は一つの答えをくれたように感じました。それをみなさんと共に聞いていきましょう。

② 証しの前提
ヨハネの福音書は、繰り返し「証し」という言葉を使っています。今日の聖書箇所では、イエスが神の子である証しについて書かれています。ユダヤには、証しについての大切な教えがあります。それは、律法の註解をするミシュナーにある「誰も自分自身について証言してはならない」という教えです。そのため、何かを証明するには、本人以外の人の証言が必要でした。31節で主イエスは、それらの前提に沿って「もし、私が自分自身について証しするなら、私の証しは真実ではない」と始めにおっしゃいました。

主イエスが公に活動を始められる直前に預言活動をした人がいます。バプテスマのヨハネです。「彼は…光について証しをするために来た。」と(1:8)書かれています。この光とは主イエスです。イエスが歩いている姿を見て、ヨハネは「見よ、神の小羊だ。」(1:36)と言っています。人々はバプテスマのヨハネの登場を喜びました。35節に「ヨハネは燃えて輝く灯であった。」とあるように、人々はいよいよ自分たちの国が復興される時が来たと喜びました。そして、「しばらくの間、その光を楽しもうとし」ました。しかし、これらのヨハネの証しについては過去形で書かれています。この時、主イエスが語ろうとされていることは、人からの証しではないものだからです。

③ 奇跡の起こった時代
一つ目の証しは、父なる神が主イエスにお与えになられた「業」です。確かに、主イエスは、超自然的な奇蹟をたくさん行われました。なぜ今は奇跡が起こらないのかと考えたことがあるかもしれません。聖書をよく見ていくと、どんな時代にも変わらず奇跡が起こったのではないことが分かります。歴史の中でも、神が不思議な業を行われなかった長い空白が何度も存在しています。

多くの奇跡が起こったのは、モーセが神に立てられた出エジプト前後(B.C.1230)、預言者エリヤとエリシャの時代であるイスラエル王国に異教の神バアルが大々的に取り入れられた時代(B.C.900)、また、バビロン捕囚地でユダヤ人がバビロンにひれ伏す必要が起きた時(エゼキエル、ダニエルの時代、B.C.600)頃に多くの奇跡が起こっています。なぜ、その頃に奇跡が起きたのでしょうか。それは偶像礼拝がイスラエルの民を脅かす中で、イスラエルの神、主こそが唯一の神であることを示すためでした。

更に400年の後、主イエスの時代と教会が作り上げられる時に集中的に奇跡は起こります。これは、主イエスこそが神の遣わされた神の子、救い主であることを人々に示すためです。神はいつでも生きておられて、いつでも奇跡を行うことがおできになります。しかし、神のみ業とは、歴史の中で特別な意味のある時代に、神と主イエスを証しする目的から起こされるものをいいます。

④ 神がお与えになった業
36節には「業」という言葉が2回使われています。主イエスは多くの奇跡を行われました。けれどもイエスご自身は、ご自分のなさることを「しるし、奇跡、不思議」とは呼んでおられません。それらの言葉は、主イエスの行われたことの超自然的な側面を強調する言葉であり、目に見える表面的なことに注目した言葉です。主イエスは何かをなさる時に、その表面的な部分を見てほしいと願っておられません。

コリントの信徒への手紙二4:18には「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。」と書かれています。主イエスは、私の行っていることが、父なる神が私に成し遂げるようにお与えになった『業』なのかどうかが大切なことなのだと、36節で強調しておられます。それが超自然的なことなのかということは脇に置き、それは「父がお与えになった」業なのかということを見るようにと語られています。

36節の「父がお与えになった業」という言葉は、複数形でかかれています。主イエスは、ベトザタの池で病気の人を癒やされた後に、ユダヤ人にこの話しをされています。ですから、その癒やしの奇跡を「業」と呼んでいるように誤解しやすい場面です。しかし、主イエスはその奇跡を単独で語られているのではなく、むしろ、父なる神が主イエスに成し遂げるようにお与えになった業、全てを示しておられます。

それは、主イエスが全生涯を通して成し遂げておられる「救いの御業」です。生まれたときに飼い葉桶に寝かされ、ヘロデ王に命を狙われ、貧しい大工の家庭で育ち、ご自分を顧みず病んだ人々を癒やし、神の国を伝え続け、公に働かれて直ぐに命を狙われるようになり、嫉妬やねたみから十字架にかけられる。その全てが、「父なる神が主イエスに成し遂げるようにお与えになった業」です。人々を罪から救い出したいという父なる神の愛が、主イエスにその愛の業をお与えになりました。これがここでいう「業」という言葉の意味です。

神の御子というご身分を捨てて、ご自分の命をも私たちのために捨てられたその「業」こそが、主イエスが父なる神の御独り子であることを証ししています。「業」とは、奇跡的だ、超自然的だといったことではなく、根底に流れる神の愛そのものです。

⑤ 聖書
39節では、もう一つの証しを取り上げています。それは聖書です。ユダヤ人は旧約聖書の中に永遠の命があると考えて調べていました。けれども、聖書は主イエスを証しするものです。

私たちの持っているこの聖書はとても厚い本です。約40人の人々によって何千年もかけて書かれました。この本の中心は何でしょうか。それは39節に書かれているように主イエスです。創世記の始めにアダムとエバを誘惑した蛇に、神が語られた言葉が最初の主イエスの預言だと言う人もいます。そして、聖書の最後のヨハネの黙示録には、主イエスの栄光に輝く御姿が書かれています。また、主イエスの生涯は4つもの福音書に書かれています。他の人の生涯がこのように繰り返されたことはありません。そこに書かれている内容全てが、中心である主イエスに焦点を当てています。聖書は主イエスが神の子であると証しする書物です。
 
⑥  内にある証し
「業」と聖書は、主イエスが神の子であると証ししていますが、それらが主イエスを証ししていることを、なぜ人は心にとどめることができないのでしょうか。37節には、私たちは父なる神の声を聞いたことも、お姿を見たこともないと書かれています。出エジプト記33:20には「人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」と書かれているように、人は神に直接お会いすることはできません。それは、罪がある人間が完全に聖い神を見るとき、また、そのみ声を聞くときに生きていることができないからです。

ですから、38節にあるように、私たちは父のお言葉を自分の内にとどめていません。けれども、父のお言葉、すなわち、父のお証しを心にいただく方法があります。38節「父がお遣わしになった者を、あなたがたは信じないからである。」これが鍵となります。主イエスを信じる時に、私たちは、この心に証しをいただくことができるということです。

これは、少し混乱することかもしれません。私たちは主イエスが本当に神の子なのかということを確かめるために、旧約聖書の預言を読み、新約聖書から主イエスご自身がなさったことを調べていきます。それによって、主イエスが神の子であると確信して信じるようになるのが本来の人間が考える方法です。

もちろん、そうやって私たちは主イエスを知るようになり、信じる者とされます。けれども、そこで終わるのではなく、続きがあることを38節は教えてくれます。主イエスを信じるときに、私たちの内に「父なる神のお言葉」という、主イエスが神の子であるという証しがとどまるようになります。

牧師がよくキリスト教は体験型の宗教だと言います。信じることで分かることがあるという意味です。主イエスを神の子だと信じると、主イエスが成し遂げられた数々のことが、神から与えられた業であることが見えてきます。主イエスを信じると、聖書が主イエスを証ししていることに気が付くようになります。もちろん完全に理解するのは、将来再び主イエスにお目にかかる時でしょう。けれども、確実に、私たちの中に証しがとどまるようになっていきます。これは、主イエスが私たちの心に与えてくださる聖霊の働きです。

⑦ 証し人として
 主イエスは常に父なる神の御心を求めておられるので(5:30)、私たちは主イエスを通して常に神にお会いし、神のお言葉を聞くことができます。それだけではなく、私たち自身も神の霊、聖霊をいただいて、主イエスの証しを内にとどめる者とされ、主イエスを人々に証しする者と変えられていきます。

 「ミイラ取りがミイラになる」や「朱に交われば赤くなる」というのはマイナスの意味を持つことわざですが、主イエスについてその証しを探し続け、主イエスを信じる者は、自分が主イエスを証しするようになる、そのことを今日のみ言葉は教えてくれます。

 この世の中で起こることは心が痛むことがとても多くあります。父なる神は苦しんでいる私たちを無視されているのではありません。むしろ、根本的に罪にまみれた世界から私たちを救い出すために、主イエスに「業」をお与えになりました。主イエスはその業のためだけに全てを犠牲になさいました。それは神の愛の業です。その大きな愛を覚えて、主イエスを神の子だと信じて、私たちもその業のために自らを献げさせていただきましょう。