「主イエスに遣わされる」
2025年4月27日 礼拝式説教
マルコによる福音書6章7~13節
主の御名を賛美します。
1、12人を遣わす
主イエスは故郷のナザレで宣教をされましが、人々の不信仰により受け入れられませんでした。それから、近くの村を教えて回られました。その後に、主イエスは12人を呼び寄せられました。主イエスは12人を使徒に任命をされるときにも呼び寄せられました(3:13)。
主イエスが呼び寄せられるのは、何か特別な大切なことをされるときです。二人ずつを遣わすことにされました。遣わす目的はどのようなことでしょうか。二つの理由が考えられます。一つ目のこととしまして、主イエスの故郷のナザレでは受け入れられませんでしたが、5章等でも多くの人たちが救いを求めています。その人々の求めに応えるためです。
二つ目は弟子たちは主イエスに従って、色々な経験や学びをして来ました。主イエスは今は弟子たちを実際に遣わすことが、弟子たちの成長にも必要であるとご判断をされたようです。東京聖書学院でも学びと共に、遣わすことを大切にします。平日には伝道実習として、駅前等でのトラクト配布や公園伝道、週末は教会に遣わされ、7、8月は夏季伝道として地方等の教会に遣わされます。遣わされる経験を通して学びを深めて行きます。
ここでなぜ12使徒と言わずに12人と言うのでしょうか。12使徒と言いますと遣わされるのは使徒だけのように感じてしまうかも知れません。12人と言いますのは、イスラエル全体の12部族に因んだ数です。現代において遣わされるのは霊的な神の民、イスラエルであるクリスチャン全体という意味が込められているように思われます。
二人ずつで遣わすことにはどのような意味があるのでしょうか。二人の利点はコヘレト4:9~12に書かれています。助け合い、支え合うことが出来ます。また証人の規定で二人が必要なこともあると思われます(申命記19:15)。
遣わすにあたって、主イエスは一つの権能を授けられました。それは汚れた霊を追い出す権能です。主イエスは、このときにも、まだ現代においても遣わされる際には、弟子たちを丸腰では遣わされません。それはエフェソ6:12にありますように、「私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するものだからです。」
丸腰ではなく神の武具を備えてくださいます。私たちが主に遣わされるときには、必要なものは主がすべて備えてくださいますので、主に信頼するなら何も恐れる必要はありません。
2、主の3つのご命令
主イエスは3つのご命令も与えられました。一つ目は持ち物についてです。現代でも旅行に行くときには、普通は前もって持ち物のリストが配られて用意したりします。しかし主イエスの宣教旅行の持ち物は至ってシンプルで、杖一本のほか何も持たずです。準備としてはとても簡単です。
杖は野獣や盗賊から身を守るために使われました。その他には、食料のパンも、袋も持たずです。袋は外の人から貰う食べ物やお金を入れるための物のようです。また帯の中に金を持たずです。ただ履物は履くようにとのことです。
そして、「下着は二枚着てはならない」というのは現代の私たちには少し分かり難いことです。この当時は下着を二枚着ることは贅沢なことでしたので、そのような贅沢はしてはならないということです。贅沢はしてはならないのは分かりますが、替えの下着はどうなのだろうかと思わず考えてしまいます。
はっきりとは分かりませんが、どうも替えの下着も持って行かないようです。では下着を洗濯するときにはどうするのかと思ってしまいますが、主イエスは働き人は報いを受けて与えられるとお考えのようです。ところで並行記事のマタイとルカの福音書を見ますと、杖や履物も無しです。
イスラエルでは、祭司やレビ人に献げ物をすることが律法によって決められていました。そして働き人であるレビ人に献げることが歴史的にも千年以上続いていましたので、働き人が報いを受ける習慣はあったと思われます。
しかし持ち物はここに書かれていることが、いつの時代でも状況でも必ずしも絶対ということではありません。ルカ22:36で主イエスは、「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、衣を売って剣を買いなさい。」と命じられます。
東京聖書学院の7、8月は夏季伝道で単身者は地方に遣わされますが、私のような家族がいる者は家族と離れないような配慮もあります。しかし3年生のときは愛知県に遣わされました。7月の一か月間は家族連れの牧師のいる教会でお世話になり食事もいただきました。ただ服や下着は勿論、持参しました。
持ち物について語っておられることは、何を持って行き、何を持って行かないということよりも、自分の力に頼るのではなく、ただ主に信頼しなさいということです。そのようにするなら必要は備えられます。また主に遣わされる者として、贅沢はしません。
3、家にとどまる
ご命令の二つ目は、滞在場所についてです。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から出て行くまでは、そこにとどまりなさい。」です。このご命令の背景にはどのようなことがあるのでしょうか。ある土地に行って、ある家に入り、暫くして来ますと、その土地の状況が分かって来ます。
そうしますと、自分が今、お世話になっている家よりも、もっと待遇良く迎えてくれそうに思える家があるかも知れません。それで実際に条件の良さそうな家を渡り歩くような人もいたようです。しかしそのような姿勢は伝道者として相応しいものではありません。そのようなことはせずに、一か所にとどまりなさいということです。
しかし少し疑問に感じることもあります。現代の私たちの感覚では2、3日ならともかく、いつ出て行くのか分からない人がずっと家にとどまっていたら反って負担に感じるのではないでしょうか。ある程度の期間が過ぎたら、他の家に行ってもらった方が良いような気もします。
しかしこの当時は旅人をもてなす習慣があり、またずっととどまり続けることによって、その家の者との人間関係が築かれて行きます。それが伝道や信仰の励ましになって行き、その家の祝福に繋がります。ここで家と言いますのは単なる建物だけではなく、家庭、家族という意味を含みます。そのために主イエスもカファルナウムではいつもペトロの家に滞在されていたようです。
何となく聖書の影響か、私も修養生のときの家族伝道期間という夏季休暇のようなときに、岬教会の勧士の家に、家族5人で3泊位お世話になったこともあります。今から考えますと少し長すぎたような気もしています。その家に祝福があるようにと祈りばかりです。
4、抗議のしるし
ご命令の三つ目は、抗議のしるしです。「あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があれば、そこを出て行くとき、彼らへの抗議のしるしに足の塵を払い落しなさい。」と命じられます。ユダヤ人は異邦人の土地からユダヤ人の土地に戻る前に足や服に付いた塵を払い落とす習慣がありました。
これには二つの意味が考えられます。一つ目は、その土地を異邦人の土地と見なすという意味です。そして二つ目は、弟子たちは伝道の責任を果たしたので、後は福音を聞いた人々の責任ですと警告を与える意味と思われます。
5、主イエスに遣わされる
12人は主イエスより遣わされて出て行きました。これは12人だけのことではありません。礼拝式の終わりに祝祷がありますが、祝祷は別名で、「祝福と派遣」と礼拝式の式文に書かれています。教会によっては、祝祷と書かずに、祝福と派遣と書いているところもあります。
それは礼拝式に参加される方は毎週、祝福されて派遣されるからです。私たちは派遣、遣わされて何をするのでしょうか。12人が出て行って行ったことは、悔い改めを宣べ伝えることです。私たちが遣わされて行うことも同じ、悔い改めを宣べ伝えることです。これは主イエスが1:15でされていたことと同じです。
ただこのことに付きましても、日本のような、聖書の知識が余り普及していない地域での伝道は工夫も必要かも知れません。聖書の知識の普及しているキリスト教国では、「悔い改め」と言いますと、それが何を意味するのか大体通じると思われます。
しかし日本等で、「悔い改め」と言っても、それが何を意味するのか恐らく通じないのではないかと思います。私も悔い改めの意味を知って、自分自身が悔い改める必要があると本当に思ったのは教会に通い始めてから時間が経ってからのように思います。
多くの人は問題や悩みを抱えて生きているものです。そしてその問題等は自己中心的な思いによって問題が大きくなってしまっている場合が多くあります。「悔い改め」の元の意味は、心の向きを変えることで、回心と言う方が元の意味に近いかも知れません。
悔い改めとは、自己中心から神中心へと心の向きを変えることです。しかし日本に住む多くの人にとっては、神は本当に存在するのかということも大きな問題となりますので、悔い改めを宣べ伝えるのは難しいかも知れません。
しかし悔い改めという言葉は使わなくても、問題の原因が自己中心であるということは伝えられます。そこから人間の罪について伝えて行くことが出来ます。
12人は悔い改めを宣べ伝えて、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒しました。この順番はとても大切です。あくまでも中心は悔い改めを宣べ伝えることであり、それに伴って、悪霊の追い出しや癒しがあります。
聖書協会共同訳聖書では後ろに用語解説があり、21ページに悪霊の項目があり、とても分かり易い説明です。悪霊と言いますと何かオカルト的な妙な感じがしてしまいそうですが、「人に罪を犯させる霊」と言いますとしっくりとくる感じがします(エフェソ2:2)。
私たちの抱えるすべての問題の解決には、根本となる悔い改めが第一に必要です。悔い改めによって神と正しい関係を築くなら、悪霊の追い出しも容易くなりそうな感じがします。悔い改めはしないけれど罪を犯させる悪霊を追い出して欲しいというのは無理な感じがします。
癒やしについても同じで、悔い改めによって神と霊的に正しい関係を築いて、霊的に健全になるなら、癒されて肉体的にも健全になるのは自然なことです。悔い改めはしないけれど、病気の癒しだけを願うのは難しい感じがします。
油は医薬品として用いられていて、聖書にも記事があります。実際の効用と共に癒しの象徴的な意味もあったと思われます。ただ全能の主イエスは癒やしに油を使われることはありませんでした。
12人は人々の救いのため、また本人たちの成長のためにも、主イエスによって遣わされ、悔い改めを宣べ伝えました。悔い改めは一度すれば良いことではなく、続ける必要のあることです。毎週の礼拝も悔い改めのときであり、それは私たち自身の幸せのためです。
まず悔い改めて、聖霊の働きによって、罪を犯させる悪霊を追い出していただき、病気を癒やしていただきましょう。そしてこの礼拝の終わりの祝福と派遣の祝祷によって、私たちもこの世に遣わされます。悔い改めを宣べ伝え、授けられる権能を用いて御業を行わせていただきましょう。
6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。12人は主イエスによって権能を授けられ、出て行って悔い改めを宣べ伝えました。私たちもまず初めに悔い改めさせてください。御心に適わないことを示してきよめ、私たち自身から悪霊を追い出し、癒してください。そして主に遣わされる者として、相応しく悔い改めを宣べ伝え、御業を行う者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。