「安心しなさい」 

2025年5月18日 礼拝式説教 
マルコによる福音書6章45~52節
        
主の御名を賛美します。

1、弟子たちを舟に
先週の五千人の給食の後すぐに、主イエスは弟子たちを強いて舟に乗せて、向こう岸のベトサイダに先に行かせました。なぜ弟子たちを強いてそのようなことをさせる必要があったのでしょうか。3つの理由が考えられます。

一つ目は、先週の五千人の給食の奇跡によって、主イエスはもてはやされて、弟子たちもその弟子ということで群衆からは、ちやほやとされることでしょう。そのような環境からにいますと弟子たちが勘違いをしてしまう可能性があるので、直ぐに離れる必要があると判断されたと思われます。

二つ目は、先週の個所で、弟子たちだけで寂しい所へ行かせて、しばらく休ませようとしました。しかし群衆が駆けつけてしまいましたので、もう一度やり直すという意味でしょうか。三つ目は、主イエスの弟子たちに対するご計画があるようです。

ベトサイダは「漁師の町」という意味で、ガリラヤ湖の北東にある町です。主イエスは弟子たちを先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられました。今回は、先週と違って弟子を通さずに自ら、解散させられました。今回は弟子たちを先に行かせて、その間に主イエスが解散させられることによって、弟子たちは群衆と離れることが出来ました。

そして、主イエスご自身も群衆と別れると、祈るために山へ行かれました。主イエスは先週にお話しました、静まるときであるリトリートをとても大切にされます。私も聖書の記事に倣って、山や海等に一人で行くときに短い時間でも祈るようにしています。

部屋で祈るのとはまた違った雰囲気で祈れるので良いものです。主イエスは、山で父なる神に祈られ、報連相(報告、連絡、相談)をされて、これから起こる出来事のためにも祈られたと思われます。

2、逆風の中の弟子たち
夕方になった頃、舟は湖の真ん中に出ており、主イエスだけが陸地におられました。主イエスは、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見られました。夕方になりますと陸地で冷えた空気が陸風となって湖に吹き降ろして来ますので湖の真ん中に流されて来てしまったのでしょうか。

ガリラヤ湖は南北21キロ、東西13キロで、湖の真ん中ですと、その半分の距離ですので、見える距離ではあります。ましてや主イエスは全能の神ですので、例え人間の肉眼では見えなくても見えたことでしょう。主イエスはその様子をどのように見られたのでしょうか。人が逆風の中にいるのは、本人が何よりも辛いでしょうが、その人を見ている人も辛いものです。それが自分の大切な人であれば、直ぐにでも手を出して、何とかしようとしたくなってしまうものです。逆風を通ることを望む人はいないと思います。しかし逆風を通ること無しには学べないこともあります。

主イエスは逆風を通ることになる弟子たちのためにも山で祈られたと思われます。弟子たちの中にはガリラヤ湖の元漁師たちもいますので慣れてはいます。しかし長時間、逆風の中にいるのは大変なことでしょう。本来は北東のベトサイダに向かったのですが、53節で北西のゲネサレトに着いていますので、相当に流されたようです。

ガリラヤ湖の大きさから考えますと、最長の距離を渡ったとしても普通であれば数時間で着くはずです。それが夜明け頃にまだ湖の上にいますので、逆風で余り進まなかったようです。

3、安心しなさい
夜明け頃、主イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところへ行き、そばを通り過ぎようとされました。わざわざ近くまで来られているのに、なぜ通り過ぎようとされたのでしょうか。旧約聖書では、通り過ぎることが神の現れ方のようです(出エジプト33:22、34:6等)。弟子たちは果たして気付くのでしょうか。

まずこのときの弟子たちの心はどのような状態でしょうか。3つの条件が考えられます。一つ目は、主イエスから離れた所にいます。4:39でガリラヤ湖での突風を静められた頼れる主イエスが一緒にいません。二つ目は、これまで夜通し暗闇の中にいて、今もまだ薄暗い中にいます。三つ目に、一晩中、逆風の困難の中にいて疲れ切っています。

弟子たちは、主イエスが湖の上を歩いておられるのを見ました。どのように見たのでしょうか。一晩中、暗闇の恐ろしい中で、漕いでも逆風で進まず、疲れ切って固まった心で、逆風で波立つ湖の上を歩く人の姿を見ました。弟子たちは、主イエスを見て、幽霊だと思って、叫び声を上げました。

皆は主イエスを見ておびえたと言います。聖書で幽霊という言葉はここだけに使われていると思います。弟子たちがこのような行動を取ってしまったのも無理はないような気がします。このときの弟子たちと同じ状況に置かれたら、私を含めて多くの人が同じような反応をしてしまうのではないでしょうか。

主イエスは弟子たちを助けに来られたのですが、弟子たちは反って、おびえてしまいました。このときは確かにそこに主イエスがおられたのですが、私たちも心細い思いのときには全く違うもののように見えておびえてしまうことはあります。天井の木目が人の顔に見えてしまうこと等はあります。

そこで、主イエスはすぐに弟子たちと話をし、「安心しなさい。私だ、恐れることはない」と言われました。おびえている人に一番必要なことは、まず安心することです。ただ、「安心しなさい」という言葉だけで安心できるものではありません。自分が信頼できる人が近くにいてくれると安心し易いものです。

私は車の運転をしているときに他の車からクラクションを鳴らされる等、何かが起こると、妻は私にまず、「落ち着いて」と言います。それは焦ってしまうと、普段はしないような訳の分からないことをしてしまい、思わぬ失敗をしてしまうことがあるからです。

まずは落ち着いて安心して、我に返って、冷静に今、すべきことを判断する必要があります。スポーツ等でもそうですが、自分の方が不利になって来ると焦ってしまい、墓穴を掘ってミスを犯し易くなりますので、まずは安心して落ち着くことが大切です。

4、パンのことを悟る
主イエスが舟に乗り込まれると、風は静まりました。4:39では主イエスは風を叱られましたが、今回はそのようなことをするまでもなく静まりました。弟子たちは心の中で非常に驚きました。確かに驚くことではあると思います。しかし弟子たちは4:35からの記事で主イエスが突風を静められたことを経験しています。

だからこそ今回は、主イエスは同行をされず、強いて弟子たちだけを舟に乗せられたと思われます。それは弟子たちのための訓練であると思われます。弟子たちが非常に驚いた理由は、パンのことを悟らず、心がかたくなになっていたからであると言います。パンのことと言いますのは、先週の五千人の給食のパンのことです。

パンのことを悟らず、心がかたくなになっていたとはどういうことでしょうか。前半のパンのことを悟らずとは、全能の主イエスは何でもお出来になることを悟っていないということです。そのことを悟っているなら、逆風の中を頑張って漕がずに、主イエスに助けの叫び声を上げていたことでしょう。

後半の弟子たちの心がかたくなになっていたのはなぜなのでしょうか。五千人の給食は素晴らしい奇跡であり、なぜこのことで弟子たちの心がかたくなになるのでしょうか。五千人の給食は、全能の主イエスは何でもお出来になることを表すものです。

しかし主イエスは御業を行われるときに、お一人で行われるのではなく、弟子たちの手を用いられることを喜ばれます。それは現代でも同じで、クリスチャンの手を用いて御業を行われます。しかしクリスチャンの手を用いられますが、御業を行われるのは人間ではなく、あくまでも主です。

しかし人間は自己中心的な罪の性質がありますので、御業に与らせていただくと、丸で自分の力で行ったような感覚に陥り、自分が何でも出来るように感じてしまうことがあります。ここに落とし穴があります。現代でも自分の祈りによって御業が起こったのだと勘違いをしてしまうようなことがあります。
そしてすべてをなしてくださる主に頼るのではなく、自分の力だけで何とかしようと頑張ってしまいます。そのようなこともあって、弟子たちがいつまでも群衆と一緒にいて、ちやほやとされるのは危険と判断されて、強いて舟に乗せられたのでしょう。自分の力に頼ってしまうと主が見えなくなってしまいます。

これは私たちも同じです。私たちは人生の中で幾度か逆風に遭います。時には弟子たちのように一晩中、漕ぎ続ける必要がある場合もあるかも知れません。しかし主イエスは陸地から弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見ておられたように、私たちが逆風の中にいるときにも見ていてくださいます。

そして私たちの様子を見て近付き、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と語り掛けてくださいます。そして主イエスを迎え入れると風は静まります。逆風の中にいるときにも、まず主に助けを求めて、主をお迎えすることに心を向けたいものです。

しかしそうであるなら、本当に一晩中、逆風に向かって漕ぎ続ける必要が遭ったのだろうかとも考えさせられます。心をかたくなにして、自分の力に頼って、逆風に向かって漕ぎ続けるよりも、まず主に報連相を行い、全能の主の御心を確認するのが先のように思えます。その上で、逆風に向かって漕ぎなさいと示されるのであれば、そのように行えば良いのです。

この聖書個所を思い巡らしますと、マーガレット・F・パワーズの「足跡」という詩を思い出します。多くの方がご存じだと思いますが、簡単にお話します。ある人が夢を見ると、これまでの人生が映し出されて、砂の上に二人の足跡があり、一つは自分ので、もう一つは主のものでした。

しかし人生で一番辛く、悲しい時に足跡は一つしかありませんでした。その時に、主はなぜ私を捨てられたのかと問うと、主は足跡が一つだった時にはあなたを背負って歩いていたと答えるものです。

全能の主はいつも私たちを見ていてくださり、何でも出来るお方です。聖霊の導きに従って心をかたくなにせず、いつも心を柔らかくしてまずは御声を聴かせていただきましょう。主は状況に応じて、「安心しなさい」と声を掛け励ましてくださったり、背負って歩いてくださいます。自分の力に頼るのではなく、主に信頼して歩ませていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。弟子たちはパンのことを悟らず、一晩中、逆風の中を舟を漕ぎ続け、主イエスを見ておびえました。私たちも自分の力に頼るときに、不必要な努力をしてしまい、心をかたくなにしてしまい、主を認めることが出来なくなってしまいます。聖霊の導きに従って、まず主の御心を求め、主と共に安心して歩む者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。