「神の戒めと人間の言い伝え」
2025年6月1日 礼拝式説教
マルコによる福音書7章1~13節
主の御名を賛美します。
1、人間の言い伝え
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、主イエスのもとに集まりました。何のために集まったのでしょうか。ファリサイ派の人々は3:1~6で、主イエスとの安息日の論争に負けて怒り、ヘロデ党の人々と主イエスを殺す相談を始めています。律法学者たちも3:20~30のベルゼブル論争で主イエスに打ち負かされています。復讐のチャンスを狙っていたことでしょう。
主イエスの名は6:14で、知れ渡ってヘロデ王の耳にもはいる程ですので、彼らの耳にも入ったと思われます。そしてこれはどうにかしないと、このままでは不味いと思ったようです。主イエスは6:53でゲネサレトにおられ、多少は移動されたとしてもガリラヤ湖の周辺におられると思われます。
エルサレムからゲネサレトにはエリコ経由で180kmはありますので、徒歩で数日は掛かりますので、彼らは相当の強い思いを持って来ています。そして丁度そのときに、主イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見ました。
ここで汚れた手といいますのは、儀式的に手を洗っていないので宗教的には汚れているということで、手が泥だらけによごれているということではありません。マルコはこの福音書をローマにいるクリスチャン宛てに書いたと言われていますので、ユダヤ人の習慣について3、4節で説明します。
ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを守ります。今日の聖書箇所では、「言い伝え」という言葉を5回使って強調します(3、5、8、9、13節)。ユダヤ教の信仰と生活は旧約聖書に基づいています。それ自体は素晴らしいことです。
しかし食事のときに手を洗うことは、元は儀式を司る祭司だけが、儀式的に清めるために定められたものです(出エ30:19、レビ22:6)。祭司以外には関係のないことです。しかしファリサイ派は食事について、食べて良いものは神が決められ、神が与えてくださるものに感謝して与ることから、一つの礼拝行為と考えました。
この当時は愛餐と聖餐も一体のようなものでした。そして律法を拡大解釈して、食事は礼拝行為なので、衛生的な理由ではなく、儀式的に清めるために、清めの儀式として、食事の前には手を洗うことを要求しました。
律法には実際の生活の場面で具体的なことまでは決められていないこともあります。そこでただ手を洗えば良いのではなくて、手を洗う最小の水の量や手の洗い方まで細かく決めて行きました。しかし主イエスの弟子たちの中には元漁師もいますので、手を洗うこと等に無頓着だったようです。
また市場には動物等の死体があり異邦人も多くいますので汚れると考えて、食事の前には身を清めました。そのほかにも受け継いでいることがたくさんありました。言い伝えの元は聖書の言葉から来ていますので、言い伝えは聖書の言葉と同じ権威を持つと考えられるようになりました。
ファリサイ派の人々と律法学者たちは2節で、主イエスの弟子たちを見たとありますが、どのように見たのでしょうか。主イエスを追い込むために打って付けの証拠を見つけたと見たのでしょう。そこで、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と尋ねました。尋ねたとはありますが、内心では鬼の首を取ったように勝ち誇って、追及しました。
2、神の戒めと人間の言い伝え
主イエスは彼らの心の内をご存じで、イザヤ29:13を引用します。そして、あなたがたは偽善者であると言われます。それは外面的には祭司以外には関係の無い清めの儀式まで行っていて、信仰深いように振る舞ってはいますが、その心は御心から遠く離れています。
手は洗って清められているかも知れません。しかし人間の言い伝えを固く守ることで満足して、神の戒めを捨ててしまったら、心は汚れたままです。そのことを表す例がルカ18:12にあります。あるファリサイ派の人は徴税人を見下して、自分は週に二度 断食をしていることを自慢して祈りました。
断食は断食をすること自体が目的ではありません。断食は、悔い改め、謙るためなどの手段として行うものです。断食を行うことによって他の人を見下して自分を誇るなら本末転倒です。似たようなことは現代においても起こることです。
クリスチャンは聖書に基づいて生きて行こうと考えます。そしてより豊かな信仰生活を歩めるようにと色々な信仰的な本を読んだりします。信仰的な本はあくまで聖書の理解を深めるためのものです。聖書の御心とは違う本の内容を聖書よりも優先するようになってしまうとそれは偶像礼拝となってしまいます。
また聖書の教えに従って教会規則等は作られ、教会の伝統も作られて行き大切なものです。しかし聖書の御心よりも人が作った教会規則や教会の伝統が優先されるようになってしまうとそれも偶像礼拝となってしまいます。
3、神の戒めに従う幸い
この当時、ファリサイ派と律法学者は、知識的には誰よりも聖書のことを良く知っているはずのエキスパートです。主イエスはそのような彼らに、「あなたがたは、自分の言い伝えを重んじて、よくも神の戒めをないがしろにしたものだ」と言われます。ここでいう「あなたがた」は直接的にはファリサイ派と律法学者を指しますが、それは聖書を読む私たちに対する「あなたがた」という言葉でもあります。
現代でも色々な不正が起こることがありますが、その不正を行う者はその道のエキスパートであることが多いようです。欠陥住宅は家を建てる専門家が家を建てる法律を知っていながら、費用や労力を惜しんで、会社ぐるみで行われることがあるようです。
法律をないがしろにして、その会社の言い伝えを重んじます。自動車を含む色々なメーカーが検査基準を法律より緩めて行ったり、金融関係の会社が違法行為等を行うのも専門家の手によったりします。専門家が抜け道を考えて、その位のことは昔から行われて来ていると言い伝えられて行き、法律よりも優先されて行きます。
主イエスは聖書の実例を挙げられ、モーセを通して授けられた十戒の第5戒は「父と母を敬え」(出エ20:12)、「父や母を罵る者は、死刑に処せられる」(出エ21:17)と言っています。そこでエキスパートがそれを逃れるための、抜け道の言い訳を考えます。
そこで、もし誰かが父または母に向かって、「私にお求めのものは、コルバン、つまり神への供え物なのです」と言えば、その人は父の母のために、もう何もしないで済みます。しかしなぜこのようなルールを作る必要があったのでしょうか。
これは親子関係が悪くなって親の世話をするのが嫌になったときに、自分を正当化するための言い訳のようです。コルバンは神への供え物の意味で、これはコルバンですと宣言をすると、神へ聖別されたものとなって、それを使って親の世話をしなくてよくなります。
一応、その根拠としている聖句は、民数記30:2等の「人が主に誓願を立てる場合、そのとおりに行わなければならない」という内容のようです。理屈は通っていると言えなくはないかも知れませんが、どう考えても屁理屈です。現代でもその道の専門家と言われる人が色々な抜け道を考えることがありますが、素人や子どもが見てもおかしいと思うようなこともあります。
9節と13節は同じことを言い方を変えて繰り返して強調しています。子どもが見てもおかしいと思うようなことを、なぜ大の大人が無神経な顔で屁理屈を通すようなことが出来るのでしょうか。その方が自分に取って都合が良いように思えるからです。自分に取って都合が良く、自分の目先の利益になるように思えて大義名分が立つのであれば何でも良いようです。「無理も通れば道理になる」ということでしょうか。しかし神の戒めをないがしろにして、人間の言い伝えを守ることは本当に得なのでしょうか。主イエスを信じない者は、この世のことだけを考えて、神の言葉を守るよりも人間の言い伝えを守った方が得になると思い込んでいます。
しかしそれは少し悪い言い方かも知れませんが、自分の言い伝えに自分が騙されていると言えます。この世でのことだけを考えましても、神の戒めをないがしろにして、人間の言い伝えを守った方が本当に幸いであるかは疑わしいものです。両親をないがしろにして何もしないでいて、心からの平安の中で本当の喜びを得ることが出来るのでしょうか。
もしかしますと短期的には目先の利益にはなるかも知れませんが神の祝福には与れません。コルバンと宣言して、もう両親のために何もしないで済むのだ等と言うような不届き者に対して、神がどのように報いられるかは明らかです。その報いをこの世で受けるか、それともこの世の後に受けるかは分かりませんが。
それに対して、神の言葉を守り、父と母を敬うならば、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生きることができる」(出エ20:12)と祝福の約束が伴ないます。長い目で見ますと、どちらの生き方をした方が自分だけでなく、すべての人にとって有益であるかは明らかです。
主イエスを信じる者は主イエスの御言葉に従って神の言葉を守り、永遠の命を含めて本当の幸いを得ます。私たちが本当の幸いを得るために、主イエスは私たちの罪のために十字架に付かれました。そして主イエスを信じる者の罪を赦し、私たちが神の言葉に従に幸いを得るように聖霊を遣わされて導いてくださいます。
しかし聖霊の導きに逆らって、神の戒めをないがしろにし続けていますと、聖霊は離れられて行き、悪霊が近づいて来ます。そして人の言い伝えに従った方が得であると信じ込まされて騙されてしまい、悪の働きに用いられるようになってしまいますので恐ろしいことです。聖霊の導きに素直に従って、主が備えてくださっている幸いの道を歩ませていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この場面に登場するファリサイ派と律法学者たちは聖書の知識があることに驕り高ぶり、自分たちの考える言い伝えだけが正しいと思い込み、自分が騙されてしまい、的外れな生き方をしてしまいました。
これは彼らだけの問題ではなく、私たちも陥り易い危険な罠です。神を礼拝し、神の前に謙り中で、聖霊が私たちに御心をお示しください。そして悔い改める必要のあることを素直に悔い改め、神の戒めに従って幸いの道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名に、よってお祈りいたします。アーメン。