「子どものパン屑」
2025年6月15日 礼拝式説教
マルコによる福音書7章24~30節
主の御名を賛美します。
1、ティルス
主イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方へ行かれました。立ち去られた、そこといいますのは、6:53のゲネサレトと思われますのでガリラヤ湖の北西で、ティルスは後ろの地図9「イエス時代のパレスティナ」の3Bの地中海沿いにあり、現在はレバノンの町です。
ティルスはマタイ11:21、22に出て来る罪深い異邦人の町です。主イエスが公生涯の中でイスラエルを出られるのはこのときの1回だけです。主イエスは19節で、すべての食べ物を清いものとされて、異邦人の町へ行かれました。
これは使徒言行録10章で、神があらゆる生き物を清いとされた後にペトロが異邦人のコルネリウスの家に行くのに似ています。順番的には勿論、今日の主イエスの方が先の出来事です。何のためにティルスに行かれたのでしょうか。ある家に入り、誰にも知られたくないと思っておられました。
まだ十字架に付かれるときではありません。そこで考えられます理由は三つ考えられ、①ご自身を殺すことを考えているファリサイ派を避けるため、②ご自身に間違った救い主の姿を期待をする群衆を避けるため等が考えられますが、何よりも③これから起こる出来事のためと思われます。
誰にも知られたくないとは思っておられましたが、人々に気付かれてしまいました。3:8でティルスからも主イエスのことを聞いた人々が御もとに来ていますので、主イエスの名はティルスでも広まっていました。
2、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女
そこに汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女がいました。この当時、病気は汚れた霊に取りつかれたものと考えられていました。現代でも汚れた霊に取りつかれたのではないかと思われるような症状を表す病気もあります。ただここで汚れた霊と言われていますので、文字通りのことであると思われます。
自分の子どもに何か問題があると親は必死になります。出来ることは何でもしようとするものです。それどころか普通は出来ないことでも、しようとするかも知れません。すぐに主イエスのことを聞きつけました。それは普段から何か手立てはないかとアンテナを張っていたから聞きつけたのでしょう。
聞きつけると、来て、そしてその足元にひれ伏しました。この女の行動は6:53~56のゲネサレトの人々と似ていて、とてもスピーディーで行動的です。ゲネサレトの人々は主イエスと知ると、走り回り、病人を床に載せて、主イエスの場所へ運び始め、広場に寝かせ、癒しを願いました。
ゲネサレトの人々とこの女の主イエスに対する積極的な姿勢は、その間に挟まれたファリサイ派と律法学者と正反対です。ファリサイ派と律法学者は聖書や聖書に書かれている救い主の預言のこと等を誰よりも知っているにも関わらず、主イエスに、ことある事に言い掛かりを付けて殺そうとしています。
3、小犬
女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれの異邦人です。そして素直に、娘から悪霊を追い出してくださいと頼みました。女の頼みに対して主イエスは、「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない」と答えられました。
「子どもたち」は神の契約の民であるイスラエルの人々を指す言葉です。並行記事のマタイ15:24で主イエスは、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とまで言われています。主イエスは秩序を重んじられるお方です。順番的にはイスラエルが初めというのは分かります。
しかし、幼い娘のために必死に頼んでいる母親に対して、「子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない」と言われるのは少し冷たい感じがしてしまいます。皆さんがこの女の立場で主イエスからこの言葉を言われたらどう思われるでしょうか。そんなことを言われるならもう結構ですと言って立ち去るでしょうか。
この言葉にはどのようなことが意図されているのでしょうか。ここにおられる方の中には犬が好きで飼っている方もおられるかも知れません。しかし聖書で犬は普通は野犬(ギ/キュオーン)を指して、汚れた人を意味して侮辱するときに使われます。異邦人を神を知らない犬と呼んで汚れた者と見なしていました。
しかしここの小犬(ギ/キュナリオン)は家畜犬を指す言葉で、家の番犬、羊などの家畜を守る役割等を担うものです。小さいうちは家でペットとしても飼われていたようです。恐らく主イエスはこの女に対して冷たい表情と言葉で答えられたのではなく、優しい顔で答えられたのではないかと思われます。
それは神の秩序があり、それを受け入れることが出来るかを問われつつ、女の願いを完全に打ち消しているのではなく、チャンスを与えているように思われます。
女はそんな言い方をするならもう結構ですと言って怒ったり、ひねくれたりしている余裕はありません。自分の幼い娘が苦しんでいて、他に癒せる人はいません。主イエスはこれまで多くの悪霊を追い出し、病人を癒して来たと聞いています。この方にお願いをするしかありません。
これは現代でも同じです。子どもが病気になったら、親は例え、医者から冷たく聞こえる言葉を言われても、子どもの病気を癒やしてもらいたい一心で必死にお願いをするものです。女は主イエスが与えられているチャンスに気付いたのでしょうか。
4、子どものパン屑
「主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます」と答えて言いました。パンは本来は子どもたちの食べ物です。しかし確かに食卓から床に落ちるパン屑は家でペットとして飼われている小犬が食べても問題はないでしょう。
自分は小犬のような存在ですが、パン屑で良いので恵みに与りたいという本当に自分を低くする謙遜な言葉です。しかし不思議に思いますのは、主イエスはなぜ、この女をここまで謙らせるようなことをさせられるのでしょうか。ゲネサレトの人々が6:56で衣の裾に触れさせて欲しいと願うと、スムーズに触れさせて癒されました。
なぜ、娘から悪霊を追い出してくださいと頼まれて、「分かった」と言って直ぐに追い出されないのでしょうか。そもそも、「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない」と言われますが、主イエスは五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹にさせられるのですから、パン屑等と言わずパンはいくらでも増やせるはずです。
さらに、イスラエルの子どもたちは、きちんと感謝してパンを食べているのでしょうか。パンは物質的な命の糧です。ここでのパンは霊的な意味として、永遠の命を与える命のパンである主イエスを表します。本来、命のパンである主イエスは神との契約に基づいて、アブラハムの子孫に与えられるものです。
しかしイスラエルの子どもたちの代表とも言えるファリサイ派や律法学者たちは、命のパンである主イエスを、こんなのはパンではないと言って、パンを粗末に扱って捨てています。主イエスに対する姿勢は本当に対照的です。
5、恵みに与る謙り
質問に戻りたいと思いますが、主イエスはなぜ、この女を謙らせるのでしょうか。主イエスはこの女の娘から悪霊を追い出すことだけを望まれているのではないように思われます。悪霊を追い出してくださいと頼まれて、はい、と言って追い出されたら、恐らくそれで終わりだったと思います。
主イエスはこの女に、ご自身が永遠の命を与えるパンであることを伝えることを望んでおられたのではないでしょうか。さらにそれだけではなく、この女が主イエスを救い主として信じたとしても、後に躓きとなる可能性の高いことがあります。それはユダヤ人の異邦人に対する差別の意識です。それはクリスチャンでも同じです。
12使徒のリーダー格であるペトロでさえ、異邦人を差別はしませんでしたが、ユダヤ人の目を恐れて異邦人から次第に身を引き、離れて行ったとガラテヤ2:12に書かれています。そのようなつまらないことで躓くことのないように、ここであらかじめ謙ることを教えておられるように思われます。
女の答えに対して主イエスは、「その言葉で十分である。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出て行った」と言われました。女が家に帰ってみると、その子は床に横たわっており、悪霊は出てしまっていました。娘の癒しという女の願いは叶えられました。願いが叶えられただけではなく、願い以上のものに女は与りました。
2週間前の7:1~13のファリサイ派や律法学者たちも、今日の異邦人の女と同じように主イエスに会って話をしています。神や聖書について良く知っているのは、圧倒的にファリサイ派や律法学者たちです。主イエスはまずは神の子どもたちである彼らにパンを与えようとされますが、彼らは受け取ろうとはしません。
その結果として、人の中から出て来る悪い思いに従うことになってしまい、21、22節の人を汚す悪を行うようになってしまいます。反対に神や聖書のことを良く知らない異邦人の女が、子どものパン屑をいただきたいと願って恵みに与ります。
主イエスから何を受け取ることが出来るのかは、聖書の知識ではなく、その人の主イエスに対する姿勢次第です。聖書の知識は無くて良いのではなく、知っていることに越したことはありません。しかし知識があることで高ぶって高慢になってしまうなら逆効果です。
キリスト教の色々な集会等に参加しますと同じ集会に参加しましても人によってその反応は様々です。恵みを感謝して喜ぶ人がいる一方で、粗探しをして文句ばかりを口にしてしまうような人もいます。同じ集会に参加しても、信仰の姿勢次第で得られるものは全く異なって行きます。これはキリスト教の集会に限ったことではなく、人生のすべてについても同じことです。
同じように教会に通っているのなら、同じように恵みと祝福に与らせていただきたいものです。主イエスが十字架の代価を払われて、私たちに用意をしてくださっている救いを、聖霊の導きの中で感謝して受け取り、まず与らせていただきましょう。また与えられ続ける恵みを受け取り続け祝福の歩みをさせていただきましょう。
6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。女は主イエスから小犬と言われましたが、謙ってそれを受け入れて恵みに与りました。一方で聖書のことは知っていますが高ぶるファリサイ派や律法学者たちは恵みに与ることが出来ません。
主イエスは無罪であるにも関わらず、私たちの罪の身代わりとして、謙って十字架に付かれ、私たちに救いの道を開いてくださいました。聖霊の導きの中で、私たちも主イエスの謙りに倣って歩み、主の恵みに与るものとさせてください。主イエス・キリストの御名に、よってお祈りいたします。アーメン。