「憐れみにより」
2025年7月6日 礼拝式説教
マルコによる福音書8章1~10節
主の御名を賛美します。
1、憐れみにより
今日の聖書箇所は一般的に四千人の給食と呼ばれます。6:30~44には五千人の給食の記事がありました。書かれていることは似ていますので、註解書によっては同じ出来事であるというものもあります。しかし19節を見ますと明らかに別の出来事であることが分かります。
五千人の給食の出来事との違いの意味も味わいつつ御言葉を聴かせていただきましょう。7章の終わりからどの位の時間が経っているのかは分かりません。また群衆が大勢集まって主イエスの話を聞いていました。
しかし何も食べる物がなかったので、主イエスは弟子たちを呼び寄せて初めに、「群衆がかわいそうだ」と言われました。主イエスはマタイ9:13で、「私が求めるのは、慈しみであって、いけにえではない」と言われます。主イエスが人に何かをされるときの動機の多くは、「慈しみ、憐れみ」です。
今回の憐れみの理由は、もう三日も主イエスと一緒にいるのに、何も食べる物がないからです。初めは少し何か食べ物を持っていたかも知れませんが、三日の間に食べ尽くしてしまって、もう何も無くなってしまったと思われます。
「空腹のまま家に帰らせると、途中で動けなくなってしまうだろう。それに、遠くから来ている者もいる」と言われます。ここで五千人の給食との違いを考えたいと思います。6:34で主イエスは、群衆の飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれました。それは群衆の霊性に対する憐れみです。
しかし今日は群衆の空腹という肉体に対する憐れみです。五千人の給食ではその日、一日のことで一日の空腹です。しかし今日は三日間の空腹ですので、空腹感は今日の方が強いことでしょう。主イエスは人の霊的な渇きだけではなく、肉体の渇きに対しても気を配ってくださるお方です。
ここで一つの疑問がわきます。それは五千人の給食では6:35、36で弟子たちから、その日の内に解散することを提案しています。しかし今日は三日経っても弟子たちからは何も言わずに、主イエスから食べ物の問題を言い出されました。この違いはどこから来るのでしょうか。
一つ目は季節の違いが考えられます。五千人の給食では6:39で青草の上に座らせていますので春と考えられます。春ですとまだ野宿は辛いですのでその日の内に解散する必要がありました。しかし今日は地面に座らせますので、これは夏の暑い日差しで青草が枯れたためと考えられます。
恐らく五千人の給食から数か月経っていることでしょう。主イエスは目的もあったと思われますが、夏の暑い季節の間に、避暑も兼ねて、弟子たちを連れて北のティルスやシドンに行かれたのかも知れません。いずれにしましても五千人の給食のときよりは暖かく野宿が出来て三日間過ごすことが出来ました。しかし暑い季節に三日も食べていないで空腹で家に帰ると途中で動けなくなってしまいます。
二つ目のこととして群衆はどのような人たちであるのかということです。五千人の給食が行われた場所は正確には分かりませんが、6:45で向こう岸のベツサイダとあることからベツサイダの近くと考えられます。また並行記事のヨハネ6:15から群衆の多くはユダヤ人であったと考えられます。
しかし今日の記事は話の流れを見ますと、7:24からユダヤ国外のティルスでのギリシャ人の女の話、7:31からシドン、デカポリスとユダヤ国外の話が続きます。ガリラヤ湖でもデカポリス側には異邦人が多く住んでいます。そうしますと今回、主イエスたちに付いて来た群衆の多くも異邦人と考えられます。
季節の違いはあったかも知れませんが、群衆が同胞のユダヤ人であった前回は弟子たちからその日の内に群衆の食べ物を心配する声が出たようです。しかし群衆が異邦人の今回は何も言わず、主イエスが三日経ってから憐れみの声を出されたようです。異邦人の地域を回って来た弟子たちは異邦人に対して嫌な思いを持ってしまったのでしょうか。
2、どこからパンを
主イエスの憐れみの言葉に対して弟子たちは、「この人里離れた所で、どこからパンを手に入れて、これだけの人に十分に食べさせることができるのでしょうか」と答えました。これは常識的な判断ではあります。
ところで前回は6:36で弟子たちは、「人々を解散し、周りの里や村へ行ってめいめいで何か食べる物を買うようにさせてください」と言っていますが、今回は人里離れた所で周りに里や村は無く、もっと寂しい所のようです。
確かにこの世の状況的には前回より厳しいかも知れません。しかし弟子たちは前回に五千人の給食の奇跡を体験しています。なぜ、弟子たちはそのことを思い返さないのでしょうか。そしてあのときに主イエスがパンと魚を祝福して増やしてくださったのだから、今回も大丈夫だと考えて信頼をすることをしないのでしょうか。
しかしこれは現代に生きる私たちも似ているところがあるかも知れません。聖書には色々な奇跡の記事があります。しかしそれは聖書のことであり、聖書は聖書、現実は現実と分けて考えてしまうようなことはないでしょうか。
神を信じているクリスチャンは、内容の大きさや回数は違っても、明らかに神が働かれる奇跡的な体験をしたことがあると思います。勿論、毎回、自分が願っている通りに奇跡が起こるわけではありません。しかし御心であれば、神に不可能はありません。主が語り掛けられるのであれば、素直に従う者でありたいと思います。
主イエスが主導されて、群衆を地面に座らせ、七つのパンを取り、感謝してこれを裂き、前回と同じように、弟子たちを通して群衆に配りました。また、小さい魚が少しあったので、祝福して、それも配り、人々は食べて満腹になりました。余ったパン切れを集めると、七籠になり、おそよ四千人の人がいました。並行記事のマタイ15:38によりますと四千人は男だけの人数です。
3、パンは誰のもの
聖書は現代の日本の常識によって読むのではなく、初めはまず聖書の書かれた時代にどのような意味で書かれたかを考える必要があります。そのように考えますと、一つ目のこととしまして、6:37からパンがテーマとして続いていますが、その意味はどのようなことでしょうか。パンのテーマはこの後も続きます。
6:38の五千人の給食の五つのパン、7:27の子どもたちのパン、そして今日の七つのパンです。パンはユダヤ人の主食で、パン無しでは肉体的に動けなくなってしまいます。またパンは霊的な意味で命のパンである主イエスを表します。
霊的なパンである主イエス無しでは、私たちは霊的に動けなくなってしまいます。今日はこの後に聖餐があります。私たちの命のパンである主イエスが、十字架でご自身を裂かれて、私たちに与えてくださる命によって私たちは生かされることを感謝して覚えたいと思います。
二つ目のことは、パンの数、給食に与った人数、余ったパン切れの籠の数の意味についてです。これは余り深読みし過ぎてもどうかと思いますが、ユダヤの文化としては、日本よりも数字に込められる意味が強いようです。日本でも数字の拘りは結構あります。ホテル等の部屋番号は、4(死)、9(苦)は忌み数として飛ばされることが殆どのようです。
そのことから考えますと五千人の給食の五つのパンと十二の籠のパン切れはどのような意味が考えられるでしょうか。五つのパンの数字である五は、モーセ五書である律法の象徴です。律法は主イエスによって成就されて、祝福されて命のパンとして与えられます。
パンを与えられる五千人の五は律法、千はユダヤで多いという意味です。それは律法の民である多くのユダヤ人に与えられるという意味です。またパン切れの残りの十二の籠は、イスラエル十二部族であるイスラエル全体に残されます。
特に、この籠(ギ/コフィノス)はイスラエル人が使うひょうたんの形をした小型の籠です。そうしますと五千人の給食は、主イエスのお身体である命のパンはイスラエルのものという意味が込められていると考えれれます。
それに対して今日の七つのパンの数字の七は、神が世界を創造された日数です。また創世記10章にある世界の民族の数は70で、七は全世界を表します。給食に与った人数の四千の四は世界の方位(東西南北)を表し、千は多いという意味ですので、四千は世界の多くの人という意味です。
パン切れを集めた七つの籠(ギ/スピュリデス)は大きな手提げ籠で、異邦人が良く使う籠です。今日の四千人の給食は、主イエスのお身体である命のパンは異邦人を含めて全世界のためという意味と考えられます。因みに魚はパンと違って余り意味がありませんので今回は数も書かれていません。
五千人の給食では、主イエスのお身体である命のパンはイスラエルに与えられました。これは7:27にありましたように、イスラエルの子どもたちのものです。しかしその食卓から落ちるパン屑は、7:28で、信仰によって小犬である異邦人にも与えられます。
そして今日の四千人の給食によって完全に、異邦人も主イエスのお身体である命のパンに与ることを表しています。五千人の給食、食卓の下のパン屑をいただくギリシャ人の女、四千人の給食は繋がっています。それは、命のパンである主イエスは本来はイスラエルのものですが、パンは食卓から落ちて異邦人にも与えられることになりました。
救いは異邦人に及ぶということは現代に生きる私たちにどのような意味があるでしょうか。主イエスを信じる者は人種や国籍に関わらず誰でも救われることをクリスチャンは知っています。異邦人は異なる宗教を信じる異教人とも言い換えることが出来ます。
クリスチャンは人種や国籍には割と寛容ですが、異なる宗教を信じる異教人には冷たい場合があります。熱心な仏教徒には、このときの弟子たちのように冷たいということがあります。どうせこの異教人は自分たちと同じ天国には行かないからパンを与える必要はないと言わんばかりのことがあります。
主イエスは異教人を含めて全ての人を神のかたちに造られた者として憐れまれるお方です。困っている人にはパンを与え、最終的には命のパンであるご自身を与えたいと願っておられます。主イエスの弟子であるクリスチャンは、このときの弟子たちのように異教人にも、弟子たちの手を通してパンを配る役割が与えられています。
私たち自身がかつては異教人でした。例え自分はクリスチャンホームの出身だと言っても、何代か遡れば異教人です。主イエスは宗教に関係なく全ての人を憐れまれます。そしてご自身であるパンにすべての人が与ることをお望みです。
私たちを憐れみ、私たちの罪のために十字架に付かれ、裂かれた主イエスのお身体であるパンに、聖霊の導きに従って感謝して与らせていただきましょう。そして先にパンに与った者は全ての人にパンを配るお手伝いをさせていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは共に三日間を過ごし空腹の異邦人の群衆を憐れまれパンをお与えになられました。私たちも主イエスがおられなければ霊的に動けなくなってしまう存在です。主イエスが十字架に付かれ裂かれて与えてくださるパンに与らせてください。そして力をいただき、御心を行い、パンを配る役割を担わせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。