「自分の命を救う」 

2025年8月24日礼拝式説教 
マルコによる福音書8章31節~9章1節

主の御名を賛美します。      

1、フィリポ・カイサリアでの預言
この福音書の前回までの内容は、主イエスが様々な御業を行われ、主イエスはどなたであるかということがテーマとなっていました。そのテーマについてペトロが、「あなたは、メシアです」と告白して答えを出して前半の纏めとなりました。

前回、お話しましたが、この告白の舞台であるフィリポ・カイサリアは後ろの地図9「イエス時代のパレスティナ」の4Bにあり、ガリラヤ湖の北に約40キロのところにあります。フィリポ・カイサリアは北にあるヘルモン山の麓にある町で、ヨルダン川の水源地の近くです。

ヘルモン山に降り注いだ雨は地中に染み込み、フィリポ・カイサリアの辺りで水源地として地中から溢れ出します。主イエスの恵みを注がれて来た弟子たちを代表してペトロが、「あなたは、メシアです」と告白しました。今日の内容はその告白はどこへ続いて行くのかというものです。

主イエスはご自身を「人の子」と言われます。人の子といいますと、普通は人間の子という意味です。しかしダニエル7:13でメシアが人の子と書かれています。主イエスは30節等で、「ご自分のことを誰にも話さないようにと」言われていますので、人の子という称号を使われます。

そして、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっていると、弟子たちにはっきりと教え始められました。長老、祭司長、律法学者はユダヤの議会であるサンヘドリンを構成する三つのグループで、ユダヤ人社会の指導者たちです。

「なっている」ということは、主イエスのご自分の意思でそうしようとされているのではなく、そのように計画されているということです。それは旧約聖書のイザヤ書53章に、「苦難の僕」と呼ばれる預言があります。そして苦難だけではなく、52:13には復活の預言もあります。前回の内容はこの福音書の前半の纏めで、今日の個所は後半の概論と言えます。

前回、フィリポ・カイサリアの辺りで水源地として地中から溢れ出す水は、集まってヨルダン川となって流れて行きガリラヤ湖に注ぐことをお話しました。そのことはとても象徴的です。フィリポ・カイサリアでの、「あなたは、メシアです」という告白は、多くの苦しみを受け、排斥され殺されることに続きます。

それはフィリポ・カイサリアの水源地の水がガリラヤ湖に注いだ後に、またガリラヤ湖の南側のヨルダン川から流れて出て死海に至る様のようです。しかし死海に至った水は、流れ出ることなく蒸発して天に帰り、再び雨となって地上に戻ることは復活を象徴しているようにも思えます。

2、ペトロの期待
主イエスの預言を聞いたペトロは、主イエスを脇へお連れして、いさめ始めました。「いさめる」の原語には、「非難する、どなりつける」という意味のある言葉です。人間が神に対する態度ではありません。主イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱られました。

このようなことを行ったのはペトロ一人ですが、それはペトロが弟子たちの代表として行ったことで、恐らく他の弟子たちもペトロと同じ思いであったと思われます。そこで主イエスは弟子たち全員に対して、しかしその代表としてペトロに対して、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と言われました。

「サタン、引き下がれ」という文章は、原語を直訳しますと、「サタン、私の後ろに行け」です。神の前に出ようとするのはサタンの行いです。主イエスはご自分を十字架から遠ざけようとするペトロの言動に、荒れ野で受けたサタンの誘惑と同じものを感じられたのだと思われます。

ペトロはなぜこのような行動を取ったのでしょうか。自分が、「あなたは、メシアです」と告白した尊敬する師がそのような目に遭って欲しくないという思いはあったことでしょう。しかしペトロも群衆と同じように、メシアはこの世の支配者となることを期待していました。

そして主イエスが支配者となった暁には、弟子の中でリーダー格である自分がナンバーツーになることを期待していたようです。どちらかというと、主イエスが苦難に遭うことよりも、自分の夢が崩れてしまうことの方が耐えられなかったようです。ペトロは自分の奥さんを置いて主イエスに従いました。それに見合う成果を期待していたのかも知れません。

しかしそれは人間的な考え、期待であって、神の計画ではありません。私たちも悪気がある訳ではありませんが、つい自分の目から見て良いと思うことをしてしまいがちです。今日は賛美しませんが396「慕いまつる主の」の歌詞の最後に、「何処までも行かん愛する主の後を」とあります。私たちが行くのはあくまでも、「愛する主の後を」であって、「愛する主の前を」になっていないことをいつも確認する必要があります。

3、自分の十字架を負う
それから、主イエスは群衆を弟子たちと共に呼び寄せられました。このように遠く離れたフィリポ・カイサリアにも群衆がいたことにまず驚かされます。そして、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われました。

「私に従いたい者」ではなく、「私の後に従いたい者」と言われ、主イエスに従うことは主イエスの「後に」を行くことであることを強調されます。それは前の文章の、「引き下がれ(私の後ろに行け)」で、従うとは前に出るのではなく、後ろに行くことであることの繰り返しです。そして主イエスの後に行くということは、主イエスが歩まれる同じ道を歩むということです。

それは具体的には一つ目として、自分を捨てることです。自分を捨てるというのは、単に悪を行わない、罪を犯さないということに留まらず、自分の思いや考えを捨てて、理解を出来なくても神の御心に従うことです。自分を捨てるとは、神を第一として自分はその後に行くことです。

二つ目は、自分の十字架を負うことです。二つ目と言いましたが、一つ目の自分を捨てることを進めて行きますと、十字架を負うことになります。十字架を「負う」とは、直訳では十字架を「(取り上げて)運べ」です。これは十字架刑を言い渡された犯罪者が、自分の付けられる十字架の横木を死刑場まで背負って行くことに基づく表現です。

他人の十字架は基本的には運ぶ必要はありません。主イエスの場合は弱られていたためか、通りがかりのシモンという人が主イエスの十字架を担ぎましたがそれは例外です。自分の十字架を負うとは、神から自分に割り与えられた十字架から逃げ回るのではなく、主イエスのように自分から取り上げて担うことです。

ここでの弟子たちの十字架は、31節の主イエスと同じ道を歩むことを意味します。ただ十字架を負うと言いましても、「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず」(Ⅰコリント10:13)と約束されていますから心配は不要です。

4、自分の命を救う
自分の十字架を負うべき理由を35~38節で、それぞれ原語では、「なぜなら」で始まる文章で4つの理由を説明されます。35~37節の3つは直接的にその命について語られます。一つ目は35節で、「自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである」です。

ここでの命は、神のかたちに造られた本来のその人自身という意味に使われています。それは主イエスと同じ道を歩むことによって、主イエスと同じ神に与えられた命を生きることになるからです。私たちは目の前の見えることだけに囚われてしまいがちです。しかし、「急がば回れ」で、主イエスの言葉に従うことにより自分の命を救い、この世でも、その後の世界でも、本来の命を生き生きと生きることになります。

二つ目は36節で、「人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか」と問われます。主イエスが損得の話をされることは珍しいと思います。聖書は一見、この世の短期的な損得勘定で考えますと、果たして本当に得になるのだろうか思われる話が多いような感じがします。

例えば、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)等です。しかし確かに全世界を手に入れても、一番大切な自分の命を損なうなら、何の得にもなりません。世界中で昔から多くの物を手に入れた権力者や金持ちは最後には不老不死を願い永遠の命を求めるようになると言われます。

大切なのは全世界よりも自分の命です。そのように考えますとマタイ4:8、9で、悪魔が主イエスに、すべての国々とその栄華を見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう」と言ったあのに対して、主イエスが御言葉によって反論されたのは、とても合理的な判断であるとも言えます。私たちも本当に大切なことは、自分の命を救うことであることを良く覚えていたいものです。

三つ目は37節で、「人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」と問われます。人は神の前に罪を犯す存在ですので、死刑になって当然の存在です。罪人が自分の力で命を買い戻すことは不可能です。しかし不可能を可能にする道を主イエスは開いてくださいました。

それは罪を犯したことのない神の子が、十字架によって私たちの身代わりとして代価を払ってくださったからです。代価は既に支払われていますので、人は主イエスを信じるだけで一番大切な命を買い戻すことが出来ます。これは本当に世界で一番大きな恵みです。

このことを考えていたときに私が小さいときの銭湯でのことを思い出しました。銭湯で時々、近所に住む母方のおじいちゃんに会うことがありました。おじいちゃんはお風呂が早く、私に会ってもいつも私よりも早く風呂を出て、帰って家のテレビで相撲を見ていました。

しかし銭湯でおじいちゃんに会うときはいつも、おじいちゃんは私の風呂上りの飲み物代を払っていてくれました。私が風呂から上がると銭湯の人が、おじいちゃんが飲み物代を払ってあるから、好きな物を飲みなと言ってくれました。少しレベルの低い譬えかも知れませんが、代価が既に支払われていることは有難いことで、ただ感謝して素直に受け取るのみです。

買い戻される命に生きるのは、この世の後の永遠の命のことだけではありません。この世は38節の、神に背いた罪深い時代です。これは二千年前も今も変わりません。「神に背いた」は原語では「不貞節」という言葉が使われていますので、新改訳では、「姦淫と罪の時代」と訳しています。神への姦淫というのは神に背くことです。

神に背いた罪深いこの世は、主と主の言葉を恥じて、肉の行い(ガラテヤ5:19)にふけり、淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝・・・等を行います。それは肉体的に生きてはいますが、本来の命はありません。
そして人の子である主イエスが、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共にこの世に来られる再臨のときには、その者を恥じられ、永遠の命も得られません。

しかし主イエスによって命を買い戻される者は、この世にあって既に、神のかたちに造られた永遠の命を生きることになります。そして霊の結ぶ実である、愛、喜び、平和、寛容・・・等を結ぶことになります。主の後に従う者はこの世にあって本当の命に生き生きと生きるようになります。

そして再臨のときには、主イエスに温かく迎えられ永遠に主イエスと共に生きることになります。自分の力で自分の命を救うことは出来ませんが、自分の命を救う道は恵みによって既に主イエスによって備えられています。後は聖霊の導きに従って、感謝してその道を選んで進むだけのことです。

最後に9:1を今回の内容に入れるか迷いましたが、小見出しで区切られ、並行記事でも含まれていましたので入れさせていただきました。8:38が再臨のことを書いていますので、その続きと思ってしまいがちですが、そうではないようです。話の流れとしましては次の2~7節の内容を指しているようです。

命の救われる者は、この世にあって神の国が力に溢れて現れるのを見る者がいます。見る者がいるというよりも、命の救われるクリスチャンは、神の力が支配される神の国が力に溢れて現れるのを見ることになると思います。主イエスの十字架によって、既に代価の支払われている救いを、聖霊の導きによって感謝して受け入れ、永遠の命に生きる者とさせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスの受難の預言に弟子たちは驚いたことでしょう。しかし現代に生きる私たちは聖書を通して、その預言の意味もすべて知らされていますので本当に恵まれています。
主イエスの十字架と復活の意味をすべて知らされている私たちが、聖霊の導きに従って、感謝して救いに与り、神のかたちである永遠の命に生きる者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。